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『I f 』⑱「関白・秀次の挫折がなければ、天下の柳生新陰流はなかった?」

『I f 』⑱「関白・秀次の挫折がなければ、天下の柳生新陰流はなかった?」
 柳生新陰流は徳川将軍家の御家流として繁栄しました。将軍家指南役とし
て柳生宗矩(むねのり)は大名にまでなりました。だが、これは柳生家にと
ってはこれ以上望めない幸運に恵まれた結果だったのです。
 柳生三代といわれる宗厳(むねよし)・宗矩・三厳(みつよし)と徳川家
との関わりは、初代・石舟斎(せきしゅうさい)宗厳と家康との関係がそも
そもの始まりです。1594年(文禄3年)5月、家康は柳生の評判を聞き、一度
実際に自分の目で柳生の剣の使い方をみてみたいと考え、宗厳を招いたので
す。このとき宗厳は子の宗矩を連れていき、求められるまま、家康の面前で
柳生新陰流の妙技“無刀取り”を披露しました。
 家康は一目見ただけで気に入ってしまい、即座に「入門したい」といい、
宗厳・宗矩父子を召し抱えたいと考えたのです。ところが、あいにくその時
点では、宗厳は関白・豊臣秀次に仕える身で、結局まだ仕官していなかった
子の宗矩が家康に召し抱えられることになりました。後に但馬守の受領名を
与えられ、柳生但馬守として知られています。宗矩はこのとき24歳、1000石
からのスタートでした。

関白秀次が健在なら柳生家親子は戦場で対立する可能性があった
 柳生家がこれだけ繁栄、徳川の剣、「天下の剣」になるには、宗矩だけの
才覚、努力では恐らく無理だったでしょう。なぜなら、既述の通り、父・宗
厳は関白秀次に仕えていたのですから、秀次が健在なら早晩、父子が双方の
指南役の一人として対立する、あるいは戦場で激突する可能性があったので
す。
 また、そうした状況になれば、徳川家も柳生家を信頼して重く用いること
はできなかったはずです。とくに戦になりそうな情勢になれば、疑心暗鬼で
宗矩は出世どころか、徳川家の中枢からかえって遠ざけられたのではないで
しょうか。

秀頼誕生による関白秀次の挫折に救われた柳生親子
 ところが、ここで歴史の流れは柳生家に味方しました。そうした事態をつ
くってくれたのは天下人・豊臣秀吉でした。秀吉は側室・淀君が産んだ秀頼
を跡継ぎにするため、秀次排除に動いたのです。宗矩が徳川家に召し抱えら
れた翌年、宗厳が仕えていた秀次は高野山で切腹させられたのです。こうし
て柳生家はちょうど、うまいタイミングで豊臣家から徳川家に乗り換えられ
たわけです。
 三代将軍家光のとき、宗矩は「惣目付」の一人に任命され、これが後に、
諸大名・旗本の監察役、「大目付」と改称されるのです。大目付の中で、
柳生家は別格でした。これと連動して出てくるのが「十兵衛隠密説」です。
柳生十兵衛は、宗矩の長男で、名乗りを三厳といいますが、一般的には十兵
衛の名でよく知られています。山岡荘八の『柳生十兵衛』、五味康祐の『柳
生武芸帳』などに登場するヒーローです。

『I f 』⑰「織田信長の出自が平氏ではなく、源氏だったら」

『I f 』⑰「織田信長の出自が平氏ではなく、源氏だったら」
 「本能寺の変」(1582年)で明智光秀に討たれた織田信長の出自が平氏で
なく、源氏だったら、信長はいま少し生き延び、名実ともに征夷大将軍か関
白、あるいは太政大臣となって信長治世の時代が続いていたのではないとの
見方があります。

本能寺の変の前、朝廷は信長を征夷大将軍にする腹を固めていた
 本能寺の変が起きる3カ月ほど前、信長は甲斐の武田勝頼を討ち、武田氏
を滅亡させています。その結果、朝廷ではこれで東国が治まったと判断して、
信長を征夷大将軍にする腹を固めていたようです。確実な史料がないので、
断定はできないのですが。
 ただ、そのことをうかがわせる公家の日記はあります。勧修寺晴豊
(かじゅうじはれとよ)の日記『日々記(にちにちき)』によって、このと
き朝廷では、信長に「征夷大将軍でも、関白でも、太政大臣でも、お好きな
官に任命しましょう」といって、信長側の反応を打診していたのです。そし
て、信長は征夷大将軍になりたいとの希望を持っていたようです。

光秀は平姓・信長の将軍出現を許せなかった?
 この朝廷とのやり取りを知り得る立場にいた織田家の家臣は、森蘭丸など
の小姓たちを別にすると、重臣クラスでは明智光秀だけでした。光秀は信長
の将軍任官を黙って見過ごすことができなかったのです。それはなぜか。
信長が平氏の人間だったからです。征夷大将軍には、古代の坂上田村麻呂
や、後醍醐天皇の皇子たちを別にすれば、武士では源氏の人間しか任命され
てこなかったのです。出自が美濃源氏の光秀にとって、そうした先例を破る
平姓将軍の出現を許すことができなかったのではないでしょうか。
 光秀謀反の真因については、怨恨説をはじめ諸説あり、いまだに謎です。
ライバル豊臣秀吉に追い越される不安、いつ織田家におけるその立場を追わ
れるかも知れないという不安が要因としてあったことは間違いないでしょ
う。が、一番の原因はこれまであまり指摘されていないことですが、信長に
よる「平姓将軍の出現阻止」だったのではないでしょうか。

家康は天下取りの展望が開けた時点で出自を平氏→源氏に
 そんなことが謀反を起こす大きな原因になるのか?と思われる読者の方も
おられるかと思いますが、実は武家社会においてこの出自は、非常に大事
な、ある場合には歴史を動かすモチベーションにもなるのです。当時、それ
まで流人の身だった源頼朝が、東国武士に担ぎ上げられて征夷大将軍とな
り、遂に鎌倉幕府を開くのも彼が源氏の嫡流だったからです。室町幕府の
足利家も、出自は清和源氏の流れです。また、徳川家康が系図上、一時は
そのルーツを平氏としていたにもかかわらず、天下取りの展望が開けてきた
時点で書き換え、出自を源氏としたのも、何よりも武家として征夷大将軍に
任じられるには、資格上、源氏の流れでなければならない、あるいは平氏の
ままでは難しいと認識していたからにほかなりません。
 いずれにしても、信長が本能寺で討たれていなければ、朝廷から信長が
征夷大将軍に任じられ、安土に幕府が開かれ織田政権が誕生。そうなると、
後継の豊臣政権への移行過程が変わり、恐らくその「安土・桃山時代=織豊
政権」の性格も実際の歴史とは異なったものになっていたことでしょう。

 

『I f 』⑯「大久保利通が内務省を新設していなかったら」

『I f 』⑯「大久保利通が内務省を新設していなかったら」
 一般にはあまり広くは知られていないことで、少し専門的になりますが、
後に政官界のナンバーワンに躍り出た大久保利通の大出世のきっかけになっ
たのが、内務省の新設と、彼自らがそのトップの内務卿に就任したことなの
です。

内務省の新設と内務卿就任が大久保の大出世のきっかけ
  誰の目にも分かるきっかけは、1873年(明治6年)の征韓論争で西郷隆
盛、板垣退助ら征韓派5人の参議が“下野”したことでしたが、後の「大
久保独裁」は、実は冒頭に述べた内務省の新設および、自身の内務卿就任
が実態としては大きかったといえるでしょう。
 もし、征韓派参議の下野後、大久保が政権中枢に座を占めていたとして
も、効果的な権力掌握や政権運営の実を示せていなければ、あるいはこの
内務省の新設、内務卿就任がなければ、後の歴史ほど大久保による明治維
新政府の運営が円滑に進んだかどうか?殖産興業、さらには近代天皇制の
絶対的権力樹立に果たした役割からみると、それほどに重要なステップだ
ったということです。

内務省新設が「大久保独裁」体制への伏線に
 内務省は、それまであった大蔵省・工部省・司法省の三つの省から、殖産
興業関係と民政関係の部局を移管して新設されたもので、一等寮として勧業
寮と警保寮の二つが置かれました。これは、内務省の主な仕事が殖産興業と
警察の二つにあったことを如実に物語っています。とくに注目されるのは警
保寮で、これは司法省では二等寮だったものが、内務省新設とともに格上げ
されているため、内務省新設の狙いがそこにあったといっても言い過ぎでは
ありません。ちなみに、内務省の二等寮には戸籍寮・駅逓寮・土木寮・地理
寮が置かれていました。
 内務省の新設後、政府は内務省・大蔵省・工部省の三つの省庁が中心とな
り、しかも内務卿・大久保利通は地方官を指揮する広範な権限を持つことに
なり、「大久保独裁」と呼ばれる大久保政権が樹立されることになったので
す。

天皇の補佐役という形で中央集権化と天皇神格化をセットで推進
 近代天皇制の絶対的権力樹立に際し、この内務省、とりわけ警保寮の果た
した役割は極めて大きなものがあったと思います。というのは、警察権力が
それまでの犯罪人の捜査・逮捕といったレベルから、一挙に思想統制なども
含めた“公安”警察のレベルに引き上げられたと考えられるからです。
 大久保が征韓論争で手を組んだ岩倉具視も含め、彼らには西郷隆盛のよう
なカリスマ性はありません。むしろ明治天皇を頂点にいただくことによっ
て、自分たちはあくまでもその補佐役-という形を取りながら、実際には実
権を握る方法を取りました。その場合、「万世一系」という皇統を強調し、
それを神格化させることによって、天皇の権威を持ち出す道を考え出したと
いうわけです。つまり、明治維新政府の中央集権化の動きと、天皇神格化の
動きがセットになって推進されていったのです。

天皇の地方”巡幸”で民衆に「現人神」を印象付ける
 とはいえ、民衆にとって天皇は遠い存在でしかありませんでした。そこ
で、大久保らが考え出したのが天皇の地方“巡幸”でした。明治天皇の地方
“巡幸”をみると、1872年(明治5年)の近畿・中国・四国・九州方面への
“巡幸”を手始めに、ほぼ毎年この“巡幸”が行われ、天皇の「現人神
(あらひとがみ)」を民衆の中に強く印象付ける旅が繰り返されたのです。
 こうして明治維新政府で強固な基盤を築いた大久保は、幼友達で無二の親
友、西郷隆盛と最も激しく対立することになり、西郷が起こした「西南戦争」
(1877年)では、大久保自らが大阪に出向き、西郷討伐の最高指揮を執って
います。

 

『I f 』⑮「平将門が源頼朝並みの武家政権づくりの野望を持っていたら」

『I f 』⑮「平将門が源頼朝並みの武家政権づくりの野望を持っていたら」
 平将門は桓武天皇の曾孫で、平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)
の孫で鎮守府将軍・平良将(よしまさ)の三男です。将門は平安京に出仕し
て藤原北家の氏の長者、藤原忠平と主従関係を結びますが、935年に父・良将
が急死したため領国に戻ります。しかし、相続をめぐって争いが起こり、一
族の抗争へと発展します。

将門は939年「新皇」を宣言 国家への反逆者に
 抗争を続ける中で、将門は行き掛かり上、国司と対立。さらには常陸、下
野、上野など関東諸国の国衙を襲い印鑑を没収、各地の戦いで勝利を収め、
やがて、関東一円、いわゆる関八州(常陸・下野・上野・武蔵・相模・上総
・下総・安房)を支配下に治めました。しかし、当然、朝廷からは一連の行
動が敵対行為と見なされてしまいます。そこで939年、将門は不本意ながら
朝廷に反旗を翻し、京都の朝廷に対抗し、独自に天皇に即位して「新皇」を
名乗りました。これがいわゆる「平将門の乱」(935~940年)です。つまり、
将門は国家に対する反逆者となってしまったのです。

将門の本意は、あくまでも”義”の精神から出た行動
 しかし、将門は庇護を求めてきた、あるいは頼ってきた者に救いの手を差
し伸べたにすぎません。あくまでも“義”の精神から出た行動でした。まし
て、最初から関東独立国構想を描いていたわけではありません。ですから、
「新皇」宣言も彼自身の意識としては、国家反逆などという、そんな大それ
たことを仕出かした、あるいは決して野心から、あの行動に出たわけではな
いのです。

将門に武家政権構想があれば、歴史は違っていた
 鎌倉に幕府を開き、日本で初めて武家政権をつくった源頼朝が、歴史の表
舞台に登場する250年前のことです。もし、この時点で将門が頼朝のような
武家政権づくりの野望をもっていたとしたら、もしくは頼朝に近い緻密な武
家政権構想があれば、将門を頼りとした、あるいは彼に親近感を抱いていた
周辺武士団の動きも出てくることが予想され、もう少し効果的な連携が生ま
れたのではないでしょうか。
そうした状況が生まれれば、征東大将軍の関東到着前に、下野の押領使だ
った藤原秀郷および平貞盛らの兵によって、940年(天慶3年)、あれほど
簡単に敗れることもなかったはずです。平安京の天皇に対抗して、関東独
立国樹立の宣言をした将門の乱は、わずか2カ月で鎮圧されてしまったの
です。
 将門に本格的な武家政権づくりの思いがなかったのは、端的にいえば彼の
出自および育った境涯から、思い詰めるほどのハングリー精神がなかったか
らでしょう。頼朝は源氏の嫡流として育てられましたが、14歳から34歳まで
の20年間もの長い間の流人生活を経験しています。これにひきかえ、将門は
桓武天皇五代の孫で、このことを将門自身強く意識し、行動していました。

 

 

『I f 』⑭「菅原道真が学者の分を守っていたら」

『I f 』⑭「菅原道真が学者の分を守っていたら」
 どんな人間にも出世欲・名誉欲はあるものです。それが後世、神として祀
られるような人物であっても変わらないようです。菅原道真は周知の通り、
学問の神様の天神様として祀られ有名です。京都の北野天満宮は、受験シー
ズンともなると、道真のご利益に与ろうと毎日、参拝客が後を絶たないとい
われ、今もって篤い信仰に支えら、民衆に親しまれている神様です。

大宰府への左遷には藤原氏の思惑に加え、道真にも非が
 菅原道真といえば、異例の出世で藤原氏の妬みを買い、事実無根の罪を着
せられ九州・大宰府に左遷・幽閉された悲劇の主人公です。ただ、道真だけ
が是で、藤原氏だけに非があってこの悲劇が生まれたのではないのです。実
は多くの場合見落とされがちですが、道真にも非を攻められても仕方がない
部分があったようです。
 基経の嫡子・時平が899年(昌泰2年)、左大臣兼左大将に任じられたと
き、道真が右大臣兼右大将に任じられ、ライバルとして拮抗する形になりま
した。しかも、道真は長女の衍子(えんし)を宇多天皇の女御に入れ、名前
の伝わらないもう一人の女を斎世(ときよ)親王の妃に入れています。まさ
に、このころが道真の絶頂期でした。

藤原氏と同様、天皇との姻戚関係づくりに走った道真
 しかし、冷静になって考えてみれば道真は、藤原氏がやることと同じよう
に閨閥、天皇との姻戚関係づくりに走りすぎました。右大臣に昇り詰めたの
は良しとしても、道真は学者です。父・是善(これよし)も、祖父・清公
(きよきみ)も、学者として最高位であり、誇りでもある文章博士(もんじ
ょうはかせ)となっています。あくまでもトップクラスの学者として、ポス
トに固執する姿勢などは持たず、まして娘を宇多天皇の女御に入れるなど
は、藤原氏の神経を逆撫でするに等しいことで、決してやるべきではありま
せんでした。

文章博士として異例の速さでの昇進に学者仲間から妬み
 道真自身、23歳で文章特業生となり、877年(元慶元年)33歳で式部少
輔・文章博士に任ぜられ、その異例の速さでの昇進に学者仲間から白い眼で
みられ、妬みの対象になっているのです。そんな学者仲間の妬みに拍車をか
ける事態が進行していきます。880年(元慶4年)、父の是善が亡くなったの
です。父の跡を継いで、彼は菅原氏の私塾「菅家廊下(かんけろうか)」、
現代風に表現すれば、超一流私立大学の理事長兼総長に就任しています。36
歳のときのことです。
 学者たちは、羨望の眼差しといった生易しいものではなく、道真に嫉妬し
始め、彼を引きずりおろそうとし出したのです。その結果、886年には式部
少輔・文章博士を解任され、讃岐守に任ぜられているのです。つまり、讃岐
国の国司へ左遷されたのです。

阿衡事件の収拾、橘広相弁護の論陣張り、都に復帰
 したがって、道真はそのまま一生を讃岐国の国司として送らざるを得なか
ったかも知れません。ところが、讃岐国の国司在任中の887年、一つの事件
が起こったのです。阿衡(あこう)事件です。阿衡の紛議(ふんぎ)ともい
います。このとき、天皇は宇多天皇で、藤原基経を関白にしようとして、橘
広相に基経を関白に任ずるための詔を起草させました。問題はその詔に、
「阿衡に任ず」と書かれていたことでした。基経は、「阿衡は位のみで、職
掌を伴わないから、政治をやる必要はない」といって、完全なサボタージュ
を決め込んでしまったのです。政治が混乱したことはいうまでもありませ
ん。
 このとき、基経に対し意見書を提出し、橘広相弁護の論陣を張ったのが道
真でした。基経のやった無理が通れば、今後、学者の書く文章は萎縮してし
まう-という、学者の使命感のようなものが恐らくあったのでしょう。基経
をはじめとする藤原一族は、田舎国司の意見など無視していたようですが、
宇多天皇は道真の行為を重く受け止めていたのです。そこで、道真は幸運に
も国司の任期切れを待って、都に呼び戻されることになったのです。

学者が政治家に 若年の”蹉跌”の教訓は全く生かされず
 以後、道真は再びトントン拍子の出世をすることになります。しかし、
今度は学者としてではなく、宇多天皇は藤原氏の対抗勢力となることを期待
して、政治家として道真を遇しだしたのです。すると、学者仲間が「学者が
政治家になるとは何事か」と今度も攻撃し出したのです。
 ここで、道真は36歳のとき讃岐国の国司に左遷されたときの経緯を思い起
こすべきでした。自分だけが飛びぬけて昇進すれば、周囲の妬みが生まれ、
やがて自分に跳ね返ってくることを肝に銘じておくべきでした。
 若い時代の“蹉跌”の教訓は全く生かされませんでした。出世しても、政
治家・藤原一族とは一線を画し、道真自身が皇位をめぐる争いなどには一切
口をはさむような言動を慎み、学者の“分”を意識し守っていたら、最後の
大宰府への左遷は回避できたのではないでしょうか。

 

『I f 』⑬「藤原不比等の出自が天智帝と無関係だったら」

『I f 』⑬「藤原不比等の出自が天智帝と無関係だったら」
 藤原不比等は持統女帝の信任のもとで①「養老律令」の制定②平城京遷都
③『日本書紀』の編纂など様々な優れた功績を残した人物です。そして、前
記の3つの事業に先立つ「大宝律令」の制定、藤原京遷都、『古事記』の編纂
にも最重要人物として関わっています。それは、不比等が父・藤原鎌足が信
頼の証として天智天皇からもらった二人の妻のどちらかに産ませた子か、も
しくは天智天皇の子ではないか-との謎の部分があるため、持統女帝は自分
の異母弟かも知れない不比等を自分の側近にし、重用した結果だとみられる
のです。

藤原不比等は本来出世しにくいはずの近江朝に縁の深い人物
 不比等は天智天皇をバックアップした藤原鎌足の遺児ですから、近江朝に
縁の深い人物です。また、不比等が育てられた山科の田辺史大隅(たなべの
ふひとおおすみ)と関係ある田辺史小隅(おすみ)は、「壬申の乱」のとき
の近江朝の将軍で、天武天皇が最も憎んだ中臣連金(なかとみのむらじかね)
の直系の配下の人物なのです。ですから天武天皇はもちろん、持統天皇の御
世も普通なら、不比等はなかなか出世できないはずです。

目を見張るスピード出世は、謎に包まれた彼の出自に起因
 ところが、689年(持統3年)、『日本書紀』に初めて現れるのです。不
比等31歳のときのことです。竹田王(たけだのきみ)ら8人とともに判事に
任じられ、直広肆(じきこうし)となったと記されています。判事というの
は刑部省の所属で、律を解釈する実務家です。突然変異のように実務官僚の
列に加えられ、以後、目を見張るスピードでのし上がっていくのです。
 不比等の、この異例の出世ぶりの背景にあるのが、謎に包まれた彼の出自
です。父・鎌足は654年(白雉5年)、天智天皇から紫冠を授けられていま
す。と同時にこのとき、天智天皇の二人の妻をもらって、自分の妻にしてい
ます。一人は采女(うねめ)の安見児(やすみこ)で、もう一人は鏡女王
(かがみのおおきみ)です。鏡女王は額田王の姉という説と、舒明天皇の皇
女という説がある女性です。

不比等は天智天皇の子の可能性 持統天皇には異母弟?
 今日的にみれば、少し異様なことといえるのでしょうが、当時、非常に親
しい王と臣下との間で、王が妊娠させた女性を臣下に渡すといったことが行
われていました。不比等は鎌足が紫冠を授けられた後に生まれた子ですから、
安見児か鏡女王の子供、つまり天智天皇の子でもある可能性があるわけです。
 天武天皇は天智天皇を憎んでいましたが、持統天皇は天智天皇が実の父で
すから、ひょっとしたら不比等は自分の異母弟かも知れないと考え、彼を自
分の側近にしたとも考えられるのです。

不比等と草壁皇子に連なる血脈とのつながりが権力の源泉
 不比等はまず、持統女帝の最愛の息子、草壁皇子(くさかべのみこ)に接
近していきます。彼は20代後半から30代にかけて、まだ無位だったにもかか
わらず、草壁皇子と非常に深い関係を持つようになります。草壁は死ぬとき、
有名な黒作懸佩刀(くろつくりかきはきのたち)を不比等に渡しています。
これはいま正倉院にあります。
不比等はそれを、持統女帝の孫、文武天皇に渡しています。そして若くし
て文武天皇が亡くなるとき、また不比等に返しており、不比等はそれを今
度は聖武天皇に渡しているのです。これは有名な説話で、史実です。それ
ぐらいに不比等と草壁および草壁に連なる血脈はつながっていたわけです。
無位だった不比等が、どうして草壁皇子に近づけたのか。その仲介者は明
らかに持統女帝でした。
 こうして律令国家の影の制定者、藤原不比等は後の藤原“摂関”政治体制
の礎をつくっていったのです。

『I f 』⑫「島津斉彬が急死していなかったら」

『I f 』⑫「島津斉彬が急死していなかったら」
 幕末の薩摩藩主・島津斉彬は開明派の名君の一人で、西郷隆盛、大久保利
通ら幕末から明治維新にかけて活躍する人材を育てました。

薩摩藩を産業国家に改造すべくいち早く着手した島津斉彬
 ペリーが浦賀に来航したとき、彼は欧州の近代文明の根源が、この半世紀
前から起こった産業革命にあると見抜き、薩摩藩を産業国家に改造すべく手
をつけ始めたのです。
まず幕府に工作して巨船建造の禁制を解かせ、国許の桜島の有村と瀬戸村
に造船所をつくり、大型砲艦十二隻、蒸気船三隻の建造に取り掛かり、そ
のうちの一隻、昇平丸を幕府に献上しています。また、彼は藩政を刷新し
殖産興業を推進。城内に精錬所、磯御殿に反射炉、溶鉱炉などを持った
近代的工場「集成館」を設置しました。この集成館では大小砲銃、弾丸、
火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造していました。

最新鋭の軍事力を装備、将軍後継問題で一橋派を推した斉彬
斉彬は当時、薩摩藩に富国強兵策を導入、軍事力を整備。同藩は西南雄藩
の中でも最新鋭の軍事力を備えていました。海外列強が日本に開国を迫る
中、幕府内は病弱の第十三代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で紀州藩の
徳川慶福(よしとみ)を推す紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派とが朝廷を
も巻き込み対立していました。幕府の老中首座・阿部正弘と合議のうえ
斉彬は、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊
信、慶喜の実父・徳川斉昭らと強力に一橋派を推していました。斉彬は、
公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願していたともいわれます。

大老井伊直弼の裁断で紀州派が勝利し開明派が敗北
ところが、1857年(安政4年)老中・阿部が急死すると事態が大きく変わっ
ていきました。急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の裁断で紀州派
が勝利。大老・井伊はその地位を利用して強権を発動し、反対派(=一橋
派)の大弾圧を開始します。「安政の大獄」(1858年)です。
敗れた斉彬は、抗議のため藩兵5000人を率いて上洛することを計画してい
ました。海外列強が日本への攻勢を強めている状況下、もはや旧来の幕府
の御法優先の対応では早晩、日本が侵略されてしまいかねないという危機
意識の下に、斉彬は朝廷を動かし、幕府に揺さぶりをかける腹づもりだっ
たのです。そんな斉彬の計画に期待する諸大名も少なくなかったのです。
しかし、そんな期待はその直後、見事に裏切られてしまうことになりまし
た。悲劇的な結末が待っていました。

反転攻勢へ軍事行動の直前、変死した斉彬
斉彬は上洛を前に7月8日、炎天下、鹿児島城下で大軍事訓練を敢行。陣頭
指揮した場面もあったといわれています。いずれにしても、斉彬はその閲
兵中、にわかに体調を崩し発病。高熱や下痢が続き、重篤な状態が続いた
後、7月16日、あっけなく亡くなったのです。まさに不可解な死でした。
西郷や大久保ら、さらに側近、開明派の幕府方官僚たちをも含め、周囲を
悲嘆にくれさせる死でした。享年50(満49歳)。死因は、薩摩藩医の診断
ではコレラと記録されているようですが、毒殺説も囁かれました。
 とにかく、斉彬にこのまま軍事行動されては困る幕府側の“闇”の力が働
いたのではないか。あるいは幕府の強い意思・意向を受けた勢力が、密かに
斉彬の抹殺に動いたとも考えられるのです。それほど、幕府側にとって斉彬
は、影響力の大きい怖い存在だったのです。また、斉彬にこのまま藩を委ね
たら、薩摩藩の行く末が危ういと考えた藩内部の保守勢力が、斉彬の上洛を
阻止するために毒殺したとの見方もあります。

斉彬健在なら、その後の幕末史はかなり変わっていた
 もし、この危機を乗り越えて斉彬が健在なら、その後の幕末史はかなり変
わったものになっていたのではないでしょうか。斉彬が藩兵5000人を率いて
上洛、大デモンストレーションを敢行していたら、合流する藩や脱藩志士た
ちが加わり、反幕勢力となっていた可能性があります。これに朝廷の意向が
乗ってしまうと、幕府にとっては大きなプレッシャーとなって、早晩、幕府
が瓦解に向かっていたかも知れません。一気にそこまでいかなくても、幕閣
が弱腰の対応に変わっていたことは十分考えられます。

 

『I f 』⑪「平清盛が白河法皇のご落胤でなかったら」

『I f 』⑪「平清盛が白河法皇のご落胤でなかったら」
 平清盛は平安時代、日本で初めて武家政権を開いた人物で、武士では初め
て太政大臣となりました。しかし、清盛の大出世、運にも恵まれた側面はあ
るものの、実はその出自と決して無関係ではないようです。諸説あります
が、清盛の生母は祇園女御の妹という説が有力です。母の死後、この祇園女
御の猶子になったといわれます。そして清盛はこの祇園女御の庇護の下に育
てられたのです。祇園女御は白河法皇の晩年の寵妃です。また、『平家物
語』では懐妊した女御が清盛の父、忠盛に下賜されて清盛が生まれたとあり
ます。詳細は定かではありませんが、つまり清盛は白河法皇のご落胤という
わけなのです。
清盛は保元・平治の乱(1156年・1159年)を経て、源氏との戦いに勝利。破
竹の勢いで実力者に昇り詰めていきます。清盛だけではありません。一門
挙げて目を見張る勢いで、急速に権勢拡大していきます。普通ならここで
牽制する勢力との対決があっても決して不思議ではありません。

わずか8年で武家では初の太政大臣に、平家一門の栄達を実現
ところが、そうした勢力が現れないまま、清盛はわずか8年間に正四位か
ら従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣に就くのです。これ
は決してただごとではありません。それは、やはり公然の秘密として、清
盛が白河法皇のご落胤、あるいは縁者だと認知されていたからではないで
しょうか。だからこそ、有力貴族、高級官僚も一目置かざるを得なかった
のでしょう。
その結果、清盛の強烈な統率力のもとに「平氏に非ずんば人に非ず」と豪
語するほどの平家の時代を築き上げられたのです。『源平盛衰記』による
と、平家一門の栄達は重盛の内大臣をはじめ公卿16人、殿上人30余人、そ
の他の国司や衛府の武官80余人を数えたといいます。
 しかし、清盛が白河法皇のご落胤でなかったら、あれほどの出世は望めな
かったでしょう。となると、権勢に満ちあふれた、あのような大規模な平家
一門全盛の時代は訪れていなかったのではないでしょうか。そう仮定すると、
後の歴史も幾分変わっていたと思わざるを得ません

 

『I f 』⑩「大伴家持が藤原氏に対する対抗意識を捨てていたら」

『I f 』⑩「大伴家持が藤原氏に対する対抗意識を捨てていたら」
 現存最古の歌集『万葉集』の実質的な編集者とされている大伴家持が、藤
原氏に対する対抗意識を捨てていたら、間違いなく彼はもっと出世していた
と思われます。『万葉集』は全20巻に及び、中に長歌と短歌合わせて実に
4500余首の歌が収められています。この4500余首の1割を超す479首もの歌が
大伴家持の歌なのです。

新興勢力・藤原氏に阻まれた大伴氏の権勢と出世の道
 こうしてみると、家持はよほど優れた歌人だったのでしょうが、彼は同時
に名門大伴氏の長、すなわち武人的貴族としての顔もあったのです。その面
からみると、家持は新興勢力・藤原氏の台頭を常に苦々しい思いで眺めてい
たに違いなく、またそれゆえに対抗意識を持ち続け、何度も出世の妨げにな
ったことは間違いありません。
 大伴氏の長としての立場を忘れることができたなら、歌人・大伴家持は藤
原氏と中立的な距離を保つことで、中央政界でももう少し重職に就くことが
できたのではないでしょうか。揺るぎない権勢を手にしつつあった藤原氏に
とって、当面敵とならない存在であれば、藤原氏も家持の処遇に作為的に口
をはさむことは避けるでしょうから、後代にも長く重んじられた『万葉集』
の最大の歌人、家持のより高い官位へ昇る道は開かれていたはずです。

物部氏と並んで軍事力の中心となっていた大伴氏
 そもそも大伴氏は、大和王権の段階から大連(おおむらじ)として、物部
氏と並んで軍事力の中心となっていた家です。一時衰えはしましたが、「壬
申の乱」(672年)のときに大海人皇子方について家運を挽回し、安麻呂・
旅人の活躍によって、名族復活を印象付けており、旅人は大納言まで出世し
ています。
 その旅人の長男が家持で、旅人の死後、大伴氏の長として一族を束ねる地
位にあったのです。しかも、それは苦難の道のりでした。藤原氏でない者が
置かれた宿命的なものでしたが、彼の一生は藤原氏の専横に対する不満の一
生でした。
 例えば757年(天平宝字元年)、橘奈良麻呂の乱のときには、家持自身は
これに加担しなかったが、一族の者が加わっていたということで、一時失脚
しています。この乱は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の専横に反対する勢力が橘
諸兄の子、奈良麻呂を担ぎ出して反乱を起こしたものでした。
 また、762年(天平宝字6年)にも、反仲麻呂のクーデターが計画され、
今度は家持もそれに加わっていましたが、この計画は未然に発覚してしまい、
家持自身、官位昇進などでは相当なハンディを背負ってしまいました。

藤原氏への対抗意識が邪魔した家持の生涯
 その結果、家持は中納言どまりで、とうとう父・旅人の大納言の位まで昇
ることができませんでした。古く、大連として物部氏と並んで軍事部門を担
当する家だったという伝統から、当然のように782年(延暦元年)陸奥按察
使鎮守府将軍、784年(延暦3年)、持節征東将軍に任じられていますが、
これなどは大伴氏を中央政界から遠ざけてしまおうという藤原氏の陰謀によ
るものでしょう。邪魔者を遠ざけ、しかも危険な場所に送り込むということ
は、いつの時代にもみられることです。藤原氏にとっての対抗勢力の一つ、
大伴氏がこのような形で地方に追いやられたということです。

 

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」
 聖徳太子については様々な謎があります。突き詰めていえばその存在自体
が謎といわれます。実は聖徳太子という人物はいなかった-という説もある
のです。確実にいたのは厩戸皇子です。倭=日本という国を、対外的に決し
て野蛮な国ではなく、男性大王のもと、きちんとした治政がおこなわれてい
る国であることを対外的にPRするために、聡明で神がかり的な“聖徳太子
像”がつくられたようです。

蘇我馬子抜きに聖徳太子の事績は語れず
 聖徳太子には様々な事績や功績があったといわれています。太子は摂政と
して、「冠位十二階」制定(603年)や「十七条憲法」を制定(604年)し、
小野妹子を隋に派遣(607年、608年)し、隋との国交を開くなど華やかな活
躍をしたことになっています。しかし、その背後には蘇我馬子の強大な存在
がありました。当時の最高権力者、馬子の存在を抜きにして、聖徳太子を語
ることはできません。それが、どのようなことであれ、馬子の賛意もしくは
了解を得ずに進められたことはなかったはずです。
 しかし、ある時点で聖徳太子の「思い」と馬子の「思惑」にずれ、あるい
は隔たりができたとき、太子と馬子の間に対立が生まれたのです。聖徳太子
は仏教や道教を学んで、人間平等主義の思想を育てていきました。それとと
もに、仏教を政治の道具として利用する馬子に反発するようになっていきま
す。

聖徳太子の治政に立ちはだかった巨人・馬子
もともと馬子がどこまで仏教を理解していたかは疑問です。神祇権を持つ
物部氏に対抗するためと、大王家のカリスマ的権威を落とすために、仏教
を担ぎ出したまでで、敬虔な仏教徒だったとは思えません。馬子はリアル
な政治家、聖徳太子は理想主義的なロマンティスト。こんな二人が所詮、
合うはずがないのです。
その結果、太子の施政の、それまで確固とした庇護者だったはずの馬子
が、とてつもなく大きなカベとなって立ちはだかったのです。その時期は
恐らく、601年(推古9年)、聖徳太子が斑鳩に宮を建て、そこに遷った
ころからでしょう。太子は斑鳩宮にいってから、自分なりの政治や生活を
模索し、馬子と一線を画すようになり、自分は大王という意識を持ち始め
ていたのではないでしょうか。

馬子に敗れた聖徳太子、譲位の目消える
 608年(推古16年)、遣隋使・小野妹子の帰国と一緒にやってきた裴世清
(はいせいせい)が隋の皇帝・煬帝(ようだい)の使者として聖徳太子に
会います。このとき太子は倭王として応対するわけですが、裴世清は倭王は
聖徳太子だと完全に認識して帰っていきます。この後、610年(推古18年)、
新羅と任那の使者が来るのですが、このころから馬子は太子を警戒し、推古
女帝と手を組んで、太子から権力を奪い始めていくのです。

年少の太子が馬子の死後に照準を置いて治政に臨んでいたら…
もし、聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら、あるいは対等の関係を
保持できていたら、推古女帝から譲位を受け、太子は天皇になり(実は聖
徳太子は天皇になっていたという説もあるのですが)、太子一族の血脈を
その後も残していたかも知れません。対中国(隋・唐)を考えた場合、律
令のもとでは、女帝は考えられなかったわけですから。何事もなければ、
聖徳太子が皇位に就くのは自然な成り行きだったはずです。もちろん、
その場合、聖人君子的な太子像はもう少し薄れていたでしょうが。そうな
ると、太子は馬子より当然長生きし、その後の歴史はかなり変わったもの
になっていたのではないでしょうか。
 聖徳太子は622年(推古30年)に49歳で亡くなり、その4年後、蘇我馬子が
亡くなります。76歳ぐらいだったと思われます。ですから、聖徳太子と馬子
は20歳以上違うのです。太子が馬子の死後に照準を置いて、辛抱強く摂政と
して治政に臨んでいたら、太子自身、絶望することはなかったはずです。
惜しまれます。