駐日大使に知日家のユスロン氏 新大使14人を任命
ユドヨノ大統領は12月24日、中央ジャカルタの大統領宮殿で14大使を任命、新駐日大使にユスロン・イフザ・マヘンドラ氏が就任した。ユスロン氏は筑波大で修士、博士号を取得し、日刊紙コンパスの東京支局長を務めるなど、計13年の日本滞在経験を持つ知日家。日本語が流暢(ちょう)な初めての駐日インドネシア大使となる。
月別アーカイブ: 2013年12月
『歴史くらぶ』が選ぶ2013年 10大ニュース
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後桜町天皇しのび式年祭 歴代最後の女帝200回目の命日
後桜町天皇しのび式年祭 歴代最後の女帝200回目の命日
後桜町天皇(1740~1813年)が亡くなって200回目の命日祭「式年祭」が12月24日、京都市東山区の泉涌寺の月輪陵(つきのわのみささぎ)と皇居で行われた。後桜町天皇は江戸時代中期の1762年、弟の桃園天皇が急逝したため、23歳で皇位を継承。桃園天皇の5歳の長男(後の後桃園天皇)を教育し、1780年に譲位した。歴史上、8人いた女帝のうち最後の女帝で、「大嘗祭(だいじょうさい)」を女帝として奈良時代の称徳天皇以来、約1000年ぶりに実施。和歌に秀で、約2000首を残した。生涯結婚せず、74歳で亡くなった。
この日は月輪陵に入る檜皮(ひわだ)ぶきの唐門が特別に開かれ、そのすぐ下の儀式場で午前10時から宮内庁式部職楽部の楽師が笛や笙(しょう)、篳篥(ひちりき)で奏楽を開始。供物台に米や酒、餅、海の幸の鯛と昆布、里の幸の大根とにんじん、りんご、ようかん、塩、水を載せた三方9台が運ばれ、祭祀を執り行う掌典が祝詞を奏上した。
続いて、天皇陛下からの供物として絹の反物が捧げられ、陛下の「ご祭文」を黒色の装束姿の勅使が読み上げた。関係者ら約40人が参列し、儀式は約30分で終了した。皇居でも天皇陛下らが拝礼された。
1300年前の東北最古級?の木簡出土 製鉄作業者の名簿
1300年前の東北最古級?の木簡出土 製鉄作業者の名簿
宮城県教育委員会によると、宮城県山元町の熊の作遺跡から、製鉄作業に従事していた人を管理する名簿とみられる約1300年前の木簡が見つかった。東北地方で出土した木管の中では最古級という。木簡は一部が破損。上に「信夫郡安岐里人」、その下に「大伴部法麻呂」など4人の男性の名前が書かれていた。信夫郡安岐里は、福島市と福島県川俣町の境界付近に当たる地名。大宝律令の郡里制に基づく表記から、制度が施行されていた701~717年の木簡とみられる。
遺跡では製鉄工房跡も確認されており、約40㌔離れた安岐里から製鉄作業に動員された人を管理する名簿と推測されるという。同県教委は8世紀初めに、律令制度による支配がこの地域に及んでいたことを示す貴重な史料としている。木簡は2014年1月26日まで山元町歴史民俗資料館で展示される。
私説 小倉百人一首 No.1 天智天皇
天智天皇
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ
【歌の背景】天皇が農夫の秋の田を刈る前の労苦を思いやって詠まれた歌。ただ、歌の調子は決して奈良時代の万葉調ではなく、平安朝初期のもの。万葉の歌から派生し、天智天皇御製として伝えられてきた間に、平安朝の歌風の“洗礼”を受け、変化したとみられる。
【歌 意】秋の豊かに実った稲を刈り干すための仮小屋は、その屋根を葺いた苫の目が粗いので、そこで夜番をする私の衣の袖はその隙間から漏れ落ちる露に、いつも濡れ通しである。
【作者のプロフィル】第38代の天皇。舒明天皇の皇子。母は皇極天皇。中大兄皇子として、藤原鎌足らと蘇我入鹿をたおし、大化の改新を断行。斉明天皇の崩御6年で都を近江の大津に遷し、翌年即位。在位4年(672)目に46歳で亡くなった。斉明天皇の6年5月8日(陰暦)、初めて水時計を作られた。6月10日(陽暦)を「時の記念日」としているのは、これに基づいている。
私説 小倉百人一首 No.2 持統天皇
持統天皇
春過ぎて夏来にけらし白妙の
ころもほすてふ天の香具山
【歌の背景】「来たるらし」と「来にけらし」、「ほしたり」と「ほすてふ」との差は万葉調と新古今調との差である。
【歌 意】まだ春だと思っているうちに、いつのまにか春は過ぎて、もう夏が来たようだ。天の香具山では新しい季節のしるしに白い衣を干しているということだ。
【作者のプロフィル】天智天皇の第2皇女で、_野讃良(うののさらら)皇女といった。草壁皇子の母。天武天皇の皇后で、天武崩御後の4年で即位(690)、都を藤原京に遷す(694)。在位7年で文武天皇に皇位をを譲り、太上天皇と尊称された。58歳で亡くなった。
私説 小倉百人一首 No.3 柿本人麻呂
柿本人麻呂
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
【歌の背景】枕詞と序を重ねていって「長い」という感じを表現、それを「ながながし夜」で受けて、いかにものろのろした時間の流れを感じさせる。これがまた、ひとり寝の不満を恨めしく訴えており、全体として内容にふさわしい表現となっている。
【歌意】山鳥の尾の、しだれ尾のように長い長い秋の夜を、恋しい人にも会えないで、たった一人で寝ることであろうか。
【作者のプロフィル】生没年、経歴とも不詳。持統・文武朝の宮廷歌人。後世、歌聖といわれた。柿本氏は和爾氏、小野氏の同族とされるが、人麻呂自身は五位以上に進んだ官歴がなく、都では大舎人、地方では四国や石見(島根県)に赴任したことが記録に残っている。