南方熊楠・・・粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

 南方熊楠は博物・生物・民俗学者で、柳田國男とともに日本の民俗学の草創者だ。とくに菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキに因んでの命名という。主著に「十二支考」「南方随筆」などがある。生没年は1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年)。萎縮腎により自宅で死去。満74歳。
 熊楠は子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい記憶、家に帰ってその記憶をたどり書写するという特殊な能力を持っていた。9歳の時、儒者で医師でもあった寺島良安が編纂した厖大な百科事典「和漢三才図会」の筆写を始め、5年かけ全105巻を筆写した。
このほか、9歳から12歳にかけて、植物学大事典ともいうべき明の李時珍が著した「本草綱目」52巻21冊、「諸国名所図会」、「日本紀」、貝原益軒の「大和本草」なども筆写したという。何日も家に帰らず、山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。
 子供の頃の性格はその後も変わることなく、1884年、大学予備門(現在の東京大学)に入学するが、彼は学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れた。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、山田美妙などがいた。
 熊楠は1892年、渡英しロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽力。人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。1897年にはロンドンに亡命中の孫文と知り合い、親交を始めている。孫文32歳、熊楠31歳のことだ。
 帰国後は和歌山県田辺町(現在の田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化人類学を展開した。
 菌類の研究では新しい70種を発見し、また1917年(大正6年)自宅の柿の木で粘菌新属を発見。これが1921年(大正10年)“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila 長糸南方粘菌)と命名された。1929年には田辺湾神島(かしま)沖の戦艦「長門」艦上で、紀南行幸の昭和天皇に進講する栄誉を担っている。
 熊楠はエキセントリックな行動が多く、酒豪だったが半面、酒にまつわる失敗も多かった。語学には極めて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとより、サンスクリット語におよぶ19カ国語の言語を操ったといわれる。
 田辺では1906年に布告された「神社合祀令」によって神社林、いわゆる「鎮守の森」が伐採されて生物が絶滅したり、生態系が破壊されてしまうことを憂い、熊楠は1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先駆けとして高く評価されており、その活動は2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された「熊野古道」が今に残る端緒ともなっている。
(参考資料)鶴見和子「南方熊楠」、神坂次郎「縛られた巨人-南方熊楠の生涯」
      津本陽「巨人伝」