原 敬・・・盛岡藩出身で“ひとやま”あてて宰相となった不屈の人

 原敬は犬養毅、尾崎行雄らとともに日本憲政史上の代表的政治家だ。後世「平民宰相」といわれる原敬の生まれは、祖父が意外にも盛岡藩の家老職を務めた上級武士の家柄だ。それにもかかわらず、彼が生涯、華族の爵位や位階勲等を辞退し続け、平民宰相と呼ばれたのは、父祖の仕えた盛岡藩が新政府軍に敗れ、「賊軍」の汚名を着せられた屈辱を忘れることができなかったからだ。1918年(大正7年)、第十九代内閣総理大臣となり、初の本格的な政党内閣を結成するが、不幸にも1921年(大正10年)東京駅で右翼の青年に暗殺された。原敬の生没年は1856(安政3)~1921年(大正10年)。

 原敬は盛岡藩・盛岡城外の本宮村(現在の岩手県盛岡市本宮)で盛岡藩士・原直治の次男として生まれた。幼名は健次郎。原家は祖父・直記が藩の家老職を務めたほどの上級武士の家柄だ。原は20歳のとき、分家して戸主となり、平民籍に編入された。これは原が、何もすすんで平民になったのではなく、徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定を受けるためだ。事実、彼は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動を取ったことがなかったといわれる。

 また後年、原は号を「一山」あるいは「逸山」と称したが、それは彼の薩長を中心とする藩閥への根深い対抗心を窺わせる。戊辰戦争で“朝敵”となった東北諸藩の出身者が、薩・長・土・肥の藩閥出身者から「白河以北一山百文」と嘲笑、侮蔑されたことへの反発に基づいているからだ。白河以北の東北諸藩の出身者は、わずか一山(ひとやま)百文(ひゃくもん)の価値しかない-というのだから、これ以上の侮辱はない

 原は16歳で東京へ遊学。そして苦学の末、1876年(明治9年)、司法省法学校に入学。しかし、予科三年のとき、学内で争議が起き、彼は事件に関係なかったが、学校当局の対応に義憤を感じ、結局先頭に立って行動。1879年(明治12年)に同校を退学後、郵政報知新聞、大東日報の記者を経て、外務省に入省。外務次官などを歴任。農商務省時代も含め陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。彼は陸奥が外務大臣を務めた時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後、退官した。

その後、原は政界に進出し、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に発足時から参加した。1902年(明治35年)、衆議院議員選挙に初当選。以後、連続当選8回。立憲政友会の実力者として西園寺公望総裁を補佐し、桂園(桂太郎・西園寺公望)内閣時代の立役者となった。そして、1914年(大正3年)、第三代立憲政友会総裁に就任。1918年(大正7年)には内閣総理大臣となり、初の本格的な政党内閣を結成した。これから、しばらくは原敬を軸とする政治の時代が続くはずだった。

ところが、そうした期待や予想は見事に外れた。原が内閣総理大臣になってわずか3年余り経過した1921年(大正10年)、彼は不幸にも“道半ば”で、東京駅丸の内南口コンコースで右翼の青年、中岡艮一に襲撃され、倒れたのだ。即死だった。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、中嶋繁雄「大名の日本地図」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、三好徹「日本宰相伝 不貞の妻」