長谷川平蔵・・・松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平

 長谷川平蔵という人物を、日本国民に広く知らしめた功労は、池波正太郎の人気小説「鬼平犯科帳」に尽きるといっても過言ではないだろう。“鬼平”とは、鬼の平蔵の意。江戸の放火と盗賊を取り締まる火付盗賊改方(役)の長官・長谷川平蔵の通称という。もちろん、多くは小説の世界のフィクションで実在した長谷川平蔵がそのように呼ばれたという記録はない。ただ、現代でいえば、さしずめ警視総監といったところの、この「火付盗賊改役」というこの職(ポスト)は“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を持っていた。

 幕閣を治安維持の面から補佐した「火附け盗賊改」は1665年(寛文5年)に設置された「盗賊改」、1683年(天和3年)に置かれた「火附改」、さらには1703年(元禄15年)より設けられた「博奕改」の三つの特殊警察機構を、1718年(享保3年)に一本化したものだった。江戸の治安維持のため、とくに悪質な犯罪を取り締まることを職務として、市中を巡察し、容疑者を逮捕して、吟味(審理)する権限を持っていた。仕置(処罰)に関しては、罪の軽重を問わず、老中・若年寄へ指図を仰がねばならなかったが、その取り調べは厳格を極め、情け容赦のない責問(拷問)が行われた。

 長官たる頭も、初期の頃はそれこそ鬼のように怖れられた人物が輩出した。大岡越前守忠相と同時代の中山勘解由(かげゆ)という人は「火附盗賊改役」を拝命すると、自宅にあった神棚と仏壇を打ちこわし、火中に投じて焼いてしまったという逸話がある。信仰とか慈悲心などを持っていては、お役目を全うできない。たとえこの身が神仏の罪を被ろうとも、江戸の治安を守り、諸悪を根絶せねばならぬ-との思いからだ。その後、制度が充実するにしたがって、このポストには思慮深い、慈悲深い者が任命されるようになった。

 1783年(天明3年)、浅間山の大噴火、“天明の大飢饉”、そしてその4年後に江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。この年、「火附盗賊改役」に命じられたのが、長谷川平蔵宣以(のぶため)だった。

 長谷川平蔵宣以は400石取りの旗本、平蔵宣雄を父に生まれた。平蔵は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。生没年は1746(延享3年)~1795年(寛政7年)。父の平蔵宣雄も「火附盗賊改役」を務め、見事な働きをみせ、抜擢されて京都西町奉行に栄転。ところが、職務に精力を傾けすぎたのか、在職わずか9カ月で急死した。享年55。これに伴って宣以は家督を継ぎ、平蔵宣以となった。1773年(安永2年)、宣以28歳のことだ。

 「鬼平犯科帳」では宣雄の正室に、幼少期の宣以=銕三郎がいじめられ、生母は若くして死んだとあるが、史実は小説とは異なる。宣以を大切にかわいがった宣雄の正室は、宣以が5歳の時に亡くなっており、長谷川家の知行地から屋敷へ働きにきていた女性と思われる生母は、平蔵の死後まで長生きしていた。

 厳格な父をふいに失い、その悲しみから遊女やその情夫、無頼者と交わり、ゆすり騙りや賭博の類に身を投じ、庶民の生活や暗黒街のしくみを実地に体験したことはあったようだ。しかし、平蔵宣以は朱に染まらず、1年後の1774年(安永3年)、悪友とも手を切って幕臣の本分に邁進した。31歳で「江戸城西の丸御書院番士」(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、1784年(天明4年)、39歳で「西の丸御徒士頭」、41歳で「御先手組弓頭」に任ぜられ、1787年(天明7年)、「火附盗賊改役」の長官に昇進した。順調すぎる出世だ。

これには理由がある。父の偉業が高く評価され、中でも時の権力者・老中の田沼意次に支持されていたのではないかと思われる。その証拠に、宣以が「御先手組弓頭」となって1カ月後、権勢をほしいままにしてきた田沼意次が遂に失脚。老中を罷免されてしまうと、宣以の身にその反動が、災いとなって降りかかってきた。本来、2~3年で交代すべき「火附盗賊改役」に、宣以は死去するまで足掛け8年間留め置かれている。江戸時代を通じて異例のことだった。京都奉行にも、大坂・奈良・堺の奉行にも栄転していないのだ。

少なくとも田沼意次の後任として、“寛政の改革”を指揮した老中・松平定信は、宣以を田沼の「補佐役」の一人とみて、便利使いした挙句、使い捨てにしている。幕閣のトップ=老中の信任次第で、勢いのある「補佐役」のポジションも大きく変わってしまうという好例だろう。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、池波正太郎「鬼平犯科帳」