橋本左内・・・幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー

 橋本左内(景岳)は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本彦也 長網の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7日、「安 政の大獄」により江戸伝馬町の獄舎で斬首された。その生涯は、わずか26年で ある。そして、藩主・松平慶永(春嶽)の命を帯びて、水戸、薩摩など雄藩と 朝廷の間を駆け巡った期間はほんの1~2年位にすぎない。にもかかわらず、 彼は偉大な足跡を遺したと言わざるを得ない。
 左内は早熟の天才だった。幼少時の彼は父の志士的気概の影響を多分に受け て育ち、7歳の時から漢籍・詩文・書道などを学び始めるとともに、12歳で藩 立医学所済世館に入学した。これは医家の子弟としては予定されたコースだが、 その傍ら武芸の稽古にも熱心だったというところに、父の影響がはっきり表れ ている。15歳の時、左内は藩儒吉田東篁に師事して経書を学んだ。彼はよほど 傑出した学問的能力に恵まれていたようで、ここでも高い評価を得ている。
 嘉永元年(1848)、数えで15歳の左内は感興の赴くままに『啓発録』と題す る手記を著した。この中で彼は、武士であった7、8代前の祖先と同じく士籍 に列し、堂々と政治の世界で腕を振るってみたいが、医家の長男に生まれたこ とで、自分の志を成し遂げることができないことを嘆いている。
左内が大坂・適々塾に入門したのは、嘉永2年(1849)、主宰者の緒方洪庵が 種痘事業に本腰を入れ始めた前後のことだった。その当時、同塾の塾頭は大村益次郎だったが、残念なことに左内と益次郎の交遊に関しても詳らかでない。察するに、同塾での左内はひたすら勉学に打ち込んだようだ。福沢諭吉の『福翁自伝』などに記された、自由闊達でいささか放恣な塾風に対しても左内は同化せず、終始批判的な態度を取り続けた。

彼は同塾所蔵の原典をことごとく読破し、原典の筆写の誤謬を訂正できるほどの学力を備えるまでになった。その精進ぶりは、洪庵からも高く評価され「いずれわが塾名を上げるものは左内であろう、左内は池中のこう竜である」との褒詞を授けられたという。「池中のこう竜」とは、やがて時を得れば天下に雄飛するに違いない英雄・豪傑のことをさす。

 適々塾での修学は、左内に福井藩第一号の給費生という栄誉をもたらしたが、何とか医家から武士身分に取り立てられたいという彼の切なる期待も虚しく、2年と3カ月ほど後にピリオドが打たれる。嘉永5年(1852)閏2月、父の病臥の報を得たからだ。父が左内の治療の甲斐なく没したことで、藩命により橋本家を相続。父と同じく藩医に任じられて職務に精励する。とはいえ、藩医の地位に安住する日々の過ごし方は、彼にとっては不本意だった。

 安政元年(1854)、彼は藩当局に江戸遊学を願い出る。江戸の土を初めて踏み、坪井信良、次いで杉田成卿・戸塚静海に師事して蘭学を究めようとした。彼はこの江戸でまた学問上の頭角を現し、幾人かの人々から賞賛を浴びる。その結果、安政2年(1855)、「医員を免じて士分に列す」という藩命が下り、遂に晴れて藩士の身分を獲得したわけだ。

 安政4年(1857)正月、左内は藩校明道館の学監心得となって、藩校の教育体制改革の中心的地位に昇りつめる。左内23歳のことだ。さらに、藩主春嶽はこの青年を国事周旋の場における己の片腕とすることに決める。同年8月、左内は春嶽の侍読兼御用掛に任命され、以後、一橋慶喜を推す将軍継嗣に関する春嶽のブレーンとして、一橋派の雄藩(薩摩・土佐・宇和島・水戸)への周旋や大奥、そして京都・朝廷に対する工作のため、精力的に入説してまわった。

その結果、いったんは幕閣内でも一橋慶喜こそ次期将軍に相応しいといわれた。だが、井伊直弼の大老就任で事態は急転、紀州藩の慶福を推す南紀派が勝利。一橋派に厳しい処分を下されることになる。井伊直弼による「安政の大獄」の幕が切って落とされるのだ。

 左内は1年余りの取り調べの結果、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎刑場で斬罪に処された。数えの26歳だった。島流しに遭い、南の島でこれを聞いた西郷隆盛は「橋本さんまで殺すとは、幕府は血迷っている。命脈は尽きた」と嘆息したという。同じ獄舎につながれた吉田松陰の刑死に先立つこと、ちょうど20日前の処刑だった。両者は互いにその名を知り、同じ獄舎にあることを知りながら、遂に相まみえる機会を持てなかった。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、橋本左内/伴五十嗣郎全訳注「啓発録」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」