『I f 』⑭「菅原道真が学者の分を守っていたら」

『I f 』⑭「菅原道真が学者の分を守っていたら」
 どんな人間にも出世欲・名誉欲はあるものです。それが後世、神として祀
られるような人物であっても変わらないようです。菅原道真は周知の通り、
学問の神様の天神様として祀られ有名です。京都の北野天満宮は、受験シー
ズンともなると、道真のご利益に与ろうと毎日、参拝客が後を絶たないとい
われ、今もって篤い信仰に支えら、民衆に親しまれている神様です。

大宰府への左遷には藤原氏の思惑に加え、道真にも非が
 菅原道真といえば、異例の出世で藤原氏の妬みを買い、事実無根の罪を着
せられ九州・大宰府に左遷・幽閉された悲劇の主人公です。ただ、道真だけ
が是で、藤原氏だけに非があってこの悲劇が生まれたのではないのです。実
は多くの場合見落とされがちですが、道真にも非を攻められても仕方がない
部分があったようです。
 基経の嫡子・時平が899年(昌泰2年)、左大臣兼左大将に任じられたと
き、道真が右大臣兼右大将に任じられ、ライバルとして拮抗する形になりま
した。しかも、道真は長女の衍子(えんし)を宇多天皇の女御に入れ、名前
の伝わらないもう一人の女を斎世(ときよ)親王の妃に入れています。まさ
に、このころが道真の絶頂期でした。

藤原氏と同様、天皇との姻戚関係づくりに走った道真
 しかし、冷静になって考えてみれば道真は、藤原氏がやることと同じよう
に閨閥、天皇との姻戚関係づくりに走りすぎました。右大臣に昇り詰めたの
は良しとしても、道真は学者です。父・是善(これよし)も、祖父・清公
(きよきみ)も、学者として最高位であり、誇りでもある文章博士(もんじ
ょうはかせ)となっています。あくまでもトップクラスの学者として、ポス
トに固執する姿勢などは持たず、まして娘を宇多天皇の女御に入れるなど
は、藤原氏の神経を逆撫でするに等しいことで、決してやるべきではありま
せんでした。

文章博士として異例の速さでの昇進に学者仲間から妬み
 道真自身、23歳で文章特業生となり、877年(元慶元年)33歳で式部少
輔・文章博士に任ぜられ、その異例の速さでの昇進に学者仲間から白い眼で
みられ、妬みの対象になっているのです。そんな学者仲間の妬みに拍車をか
ける事態が進行していきます。880年(元慶4年)、父の是善が亡くなったの
です。父の跡を継いで、彼は菅原氏の私塾「菅家廊下(かんけろうか)」、
現代風に表現すれば、超一流私立大学の理事長兼総長に就任しています。36
歳のときのことです。
 学者たちは、羨望の眼差しといった生易しいものではなく、道真に嫉妬し
始め、彼を引きずりおろそうとし出したのです。その結果、886年には式部
少輔・文章博士を解任され、讃岐守に任ぜられているのです。つまり、讃岐
国の国司へ左遷されたのです。

阿衡事件の収拾、橘広相弁護の論陣張り、都に復帰
 したがって、道真はそのまま一生を讃岐国の国司として送らざるを得なか
ったかも知れません。ところが、讃岐国の国司在任中の887年、一つの事件
が起こったのです。阿衡(あこう)事件です。阿衡の紛議(ふんぎ)ともい
います。このとき、天皇は宇多天皇で、藤原基経を関白にしようとして、橘
広相に基経を関白に任ずるための詔を起草させました。問題はその詔に、
「阿衡に任ず」と書かれていたことでした。基経は、「阿衡は位のみで、職
掌を伴わないから、政治をやる必要はない」といって、完全なサボタージュ
を決め込んでしまったのです。政治が混乱したことはいうまでもありませ
ん。
 このとき、基経に対し意見書を提出し、橘広相弁護の論陣を張ったのが道
真でした。基経のやった無理が通れば、今後、学者の書く文章は萎縮してし
まう-という、学者の使命感のようなものが恐らくあったのでしょう。基経
をはじめとする藤原一族は、田舎国司の意見など無視していたようですが、
宇多天皇は道真の行為を重く受け止めていたのです。そこで、道真は幸運に
も国司の任期切れを待って、都に呼び戻されることになったのです。

学者が政治家に 若年の”蹉跌”の教訓は全く生かされず
 以後、道真は再びトントン拍子の出世をすることになります。しかし、
今度は学者としてではなく、宇多天皇は藤原氏の対抗勢力となることを期待
して、政治家として道真を遇しだしたのです。すると、学者仲間が「学者が
政治家になるとは何事か」と今度も攻撃し出したのです。
 ここで、道真は36歳のとき讃岐国の国司に左遷されたときの経緯を思い起
こすべきでした。自分だけが飛びぬけて昇進すれば、周囲の妬みが生まれ、
やがて自分に跳ね返ってくることを肝に銘じておくべきでした。
 若い時代の“蹉跌”の教訓は全く生かされませんでした。出世しても、政
治家・藤原一族とは一線を画し、道真自身が皇位をめぐる争いなどには一切
口をはさむような言動を慎み、学者の“分”を意識し守っていたら、最後の
大宰府への左遷は回避できたのではないでしょうか。