細川勝元 名門出身の若き陰謀家で、室町・幕政に影響力を及ぼし続ける

細川勝元 名門出身の若き陰謀家で、室町・幕政に影響力を及ぼし続ける

 細川勝元は13歳で家督を継承、16歳で管領職に就任、以後3度にわたり、通算23年間も管領職を歴任し、室町幕府の幕政に影響力を及ぼし続けた人物だ。また、彼は京の地を焦土と化した、不毛の戦役、「応仁の乱」の東軍の総大将だったことは周知の通りだ。細川勝元は、三管領の一つ、細川氏嫡流の父・細川持之の嫡男として生まれた。幼名は聡明丸。通称は六郎。正室は山名宗全の娘、春林寺殿。勝元の生没年は1430(永享2)~1473年(文明5年)。

 細川氏は初代、義秀が三河国額田郡細川郷(現在の岡崎市)に居住したところから、地名を氏とした。足利尊氏に従って軍功があり、とくに六代・頼春は尊氏の側近となり、阿波、備後の守護に任命された、以後、細川氏は阿波、讃岐、摂津、丹波など畿内周辺と四国7~8カ国の守護職となり、惣領家は室町幕府の三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)の筆頭となった。

 勝元は1442年(嘉吉2年)、父が死去したため13歳で家督を継承した。このとき室町幕府の第七代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護職となった。1445年(文安2年)、畠山持国に代わって16歳で管領職に就任すると、以後3度にわたって通算23年間も管領職を歴任した。勝元が管領職にあったのは1445年(文安2年)から1449年(宝徳元年)、1452年(享徳元年)から1464年(寛正5年)、1468(応仁2年)から死去する1473年(文明5年)までだ。

 勝元は当初、山名宗全(持豊)の女婿となることで、宗全と結んで政敵・畠山持国を退けるなど、宗全との協調によって細川氏の勢力維持を図り、幕政の実権を掌握した。しかし、「嘉吉の乱」(1441年)で没落した赤松氏の再興運動が起こると、勝元はこれを支援したため、赤松氏と敵対関係にある宗全とも対立するようになった。また、勝元は畠山政長と畠山義就による畠山氏の家督争いには政長派を、斯波義廉と斯波義敏の家督争いには義敏派を支持するなど、宗全とことごとく対立。さらには足利義視と足利義尚の、八代将軍・足利義政の後継争いにおいて、勝元は義視を支持。山名宗全は義尚とその母・日野富子に与したため、両派の対立は一層激化した。

 これらは、すべて名門出身の若き陰謀家・細川勝元が、山名宗全の勢力拡大を抑えるため、実は意識的に取った戦略だった。そして、この対立が、やがて有力守護大名を巻き込み、「応仁の乱」を引き起こしたことは周知の通りだ。いずれにしても、1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の11年間にわたる「応仁の乱」により、京の都は廃墟と化した。義理の父親で、26歳年上の山名宗全に対しては、徹底して陰謀家あるいは策謀家の顔をみせた勝元だが、禅宗に帰依し、京都に龍安寺、丹波国に龍興寺を建立している。また、和歌・絵画などを嗜む文化人でもあった。医術を研究して医書『霊蘭集』を著すなど多才だったという。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」、童門冬二「日本史に刻まれた最期の言葉」