大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

 大原孫三郎は、倉敷を拠点に倉敷紡績、倉敷銀行、倉敷電灯(後の中国電力)など数々の事業を育て上げた人物だ。その一方で、学術、美術など様々な社会事業に先鞭をつけ、一貫してその財を人に投じた。それは生きた金となって、今日なお社会に大原美術館をはじめ2つの大企業(倉敷紡績、クラレ)、7つの研究所(大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原農業研究所など)、倉敷中央病院が残され、いまも社会に貢献している。大原孫三郎の生没年は1880(明治13)~1943年(昭和18年)。

 倉敷という街は、大原孫三郎がいなければごく普通の地方の中都市に終わっただろう。一例を挙げると、孫三郎が画家・児島虎次郎に命じて印象派の名画を買い集め、大原美術館をつくった。倉敷の持つその文化性のお陰で、この街は空襲を免れているのだ。また、こんな逸話がある。明治40年、岡山に師団が設けられ倉敷にも連隊が置かれることになった。日露戦争直後、軍国主義のみなぎる時代、街を挙げて快哉を叫ぶはずだ。連隊を置けばカネが落ち、消費が活発になる。いまならGDP換算いくらくらいと、そのあたりの研究所が試算するだろう。経済的にみてこんなおいしい話を、当時まだ30歳に満たぬ孫三郎が先頭に立って反対したのだ。理由は「風紀が乱れる」ということだった。倉敷紡績は若い女子工員を大勢雇用している。若い男と女が集まれば…というわけだ。いずれにしても、倉敷は軍都を免れ、空襲にも遭わず廃墟とならずに済んだ。

 大原孫三郎は、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は文久年間、村の庄屋を務め、明治中ごろで所有田畑約800町歩の大地主となった豪家だった。二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。1902年(明治35年)、21歳で父・孝四郎の経営する倉敷紡績に入った孫三郎が、真っ先に手を着けたのは1000人を超す女子工員の労働環境改善だった。1888年(明治21年)の工場開設以来、少女らは12時間交代の徹夜労働を強いられていた。2階建ての大部屋に閉じ込められ、万年床で寝起きする毎日。伝染病の集団感染も起きた。

 孫三郎は、こうした劣悪な環境で睡魔と闘いながら働く従業員の幸福を保証してこそ、事業の繁栄があると考えた。そこで、幹部の反対を押し切り、敷地を購入し平屋の「家族式寄宿舎」を建設した。後にJR倉敷駅の北側に新しく、孫三郎自身が設計した、2棟が向かい合って中庭を持つ「分散式寄宿舎」のある万寿工場をつくっている。孫三郎はまた「飯場(はんば)制度」も廃止した。請負業者が炊事一切、日用品の販売を仕切り、工員の口入れ手数料などでピンハネ商売などが行われていたからだ。こうした工場内で隠然とした力を持つ業者を締め出したのだ。外出や面会を見張る守衛もやめた。細井和喜蔵の『女工哀史』が出版される10年も前の改革だった。

 孫三郎の生家は倉敷一の大地主。何不自由なく育った。が、生来の癇(かん)性と病弱で学校に馴染めず、いじめに遭って、不登校を決め込んだこともあった。東京に遊学するが、勉強に身が入らない。富豪の息子に悪友が群がった。高利貸から借りた金で吉原通いの生活。こうして放蕩息子の借財は利息も合わせて1万5000円に上ったという。今なら億単位の金額だ。

 こうした破天荒で度外れた放蕩生活が実家に知れ、父に1901年(明治34年)在学中の東京専門学校(後の早稲田大学)を中退のうえ、倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。しかし、孫三郎はこの謹慎を機に生まれ変わり、この後、既述した様々な近代的かつ先進的な事業経営に乗り出していくのだ。

(参考資料)城山三郎「わしの眼は10年先が見える 大原孫三郎の生涯」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 大原孫三郎」