江藤新平・・・ 新国家の骨格・近代司法体制づくりに大きな役割果たす

 江藤新平は1874年(明治7年)、西日本で起こった不平士族の反乱の一つ、「佐賀の乱」の首領として不本意にも斬罪されたが、彼がわが国の近代司法体制づくりに果たした役割は大きい。江藤の先見性と理論性は黎明期にあった新政府にとって必要欠くべからざる才能であり、明治初期の混乱期にあたり、とくにその才能は新国家の骨格づくりや民法、憲法など法令の整備に遺憾なく発揮された。生没年は1834(天保5年)~1874年(明治7年)。

 江藤新平は佐賀藩下級武士、江藤助右衛門の長男として生まれた。名は胤雄(たねお)、号は南白(なんぱく)。16歳で藩校弘道館に入学して猛烈に勉強に励んだ。副島種臣の兄で尊王攘夷論を唱道していた国学者、枝吉神陽(えだよししんよう)に師事。神陽が結成した「義祭同盟」に大隈重信(後に内閣総理大臣を2回歴任、早稲田大学創設者)、副島種臣(後に外務卿)、大木喬任(後に初代文部卿、第2代司法卿)らとともに参加した。

その後、時勢の変遷を的確に見据えた江藤は開国通商による富国強兵を主張するに至り、23歳のときに作成した意見書「図海策」では、民衆生活の尊重を立論の根拠とした意見を理路整然と展開した。その後、時局が混乱を極める中、1862年(文久2年)脱藩して京に上り、桂小五郎や伊藤博文、公卿姉小路公知、三条実美(さねとみ)らと交わり、積極的に京都の情勢視察を行い「京都見聞」を著した。28歳のときのことだ。しかし、結局帰藩を命ぜられ、永蟄居に処せられた。

ところが、江藤は幸運にも1867年(慶応3年)、大政奉還を機に直ちに赦免されて郡目付となり、明治政府に登用された。戊辰戦争では東征軍に軍艦として従軍した。江戸遷都を強く主張した。その後は江戸府判事、江戸鎮台判事として民政兼会計営繕の任にあたり、1871年(明治4年)文部大輔、次いで左院副議長の座を手に入れた。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの信任を得た結果だった。ここで、江藤新平のその後の進路を決定づける業務に就く。

 江藤はフランス流の民法典編纂に従事、1872年(明治5年)現行の法務大臣・最高裁長官・国家公安委員長に相当する権限を持つ初代司法卿に就任。行政から独立した全国統一の司法権を構築。また警察制度の統一に尽力、「改定律例」(明治初年のころの刑法典)の制定を実現した。以後、江藤は司法制度を整備するとともに、司法権の自立と法治主義確立のため奔走した。

だが、江藤は1873年(明治6年)その任を解かれ、参議に任ぜられ、新政府の中心で働くことになった。そして西郷隆盛、板垣退助らとともに征韓論を主張して敗れ、下野した。1874年(明治7年)、「民撰議院設立建白書」には板垣退助、副島種臣らとともに署名している。

 江藤は副島、後藤象二郎らの帰郷を思いとどまるようにとの説得にもかかわらず離京。ほどなく佐賀へ向かい憂国党の島義勇と会談し、佐賀征韓党首領として擁立された。数日後、憂国党が武装蜂起し、士族の反乱「佐賀の乱」が勃発する。しかし、やがて大久保利通が直卒する東京、大阪の鎮台部隊が続々と九州に到着し、佐賀軍は敗走に次ぐ、敗走を重ねる。

 江藤は密かに戦場を脱出し、征韓論で同様に下野した同志、鹿児島・鰻温泉に湯治中の西郷に会い、薩摩の旗揚げを請うが断られ、次いで高知の林有造、片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くが、いずれも容れられなかった。このため、江藤は最後の手段として岩倉具視への直接意見書陳述を企図して、東京への上京を試みる。

しかし、その途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され、佐賀へ送還された。手配写真が出回っていたために速やかに捕えられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が1872年(明治5年)に確立したもので、皮肉にも制定者本人が被適用者第1号となった。
数日後、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下だった河野敏鎌によって裁かれ、数日後処刑、梟首された。梟首された際の写真は全国の県庁に掲示された。これは、司法卿としての江藤が禁じたはずの刑罰だった。その後、江藤系の人物はことごとく司法省を追われた。

 江藤新平は「人民の権利を守り、弱き民のために改革する」精神をもって近代的な法体系の導入や、地代、家賃の値下げ、問屋仲買の独占の廃止など民衆の要求を反映した近代化政策を推進した。こうした考え方のもとに、彼は身内の西南雄藩の出身政治家・官僚たちにも厳しくメスを入れた。山県有朋、井上馨の二人の汚職事件を糾明、彼らを辞職に追い込んだのも彼だ。裏表のない彼の性格が“裏目”に出た。新政府の中には汚職に狎れた官僚も少なくなかったから、厳しすぎる江藤のやり方が反感を招いた部分もあったに違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「歳月」