大鳥圭介・・・適塾出身ながら佐幕の道を突っ走り、戊辰戦争を転戦

 人の運命を決定づける要因の一つとして出身地を挙げるなら、大鳥圭介の場合、まさにその典型といっていいのではないだろうか。分かりやすい例を挙げると、大鳥圭介は適塾の先輩、大村益次郎と同じく村医者の子だった。蘭医方を学ぶうちに西洋兵学へ転じたという経歴も共通している。ところが、時勢はその後の両者の進路を正反対のものとし、幕末の政局が決定的な段階を迎えたとき、益次郎が倒幕派の軍事指揮官の地位にあったのに対し、圭介は歩兵奉行として幕府陸軍の要衝を占めていた。

両者の運命がこれだけ分かれたのは、出身地の違いを主要因の一つに挙げていい。圭介がもし倒幕派雄藩の出身だったら、益次郎と倒幕作戦を主導していたかも知れない。だが、現実の圭介は幕府の登用を受けると、中央政権の備える圧倒的な吸引力に巻き込まれ、佐幕の道を突っ走った。生没年は1832(天保3年)~1911年(明治44年)

 大鳥圭介は播州赤穂の北方、岩木七カ村のうちの一番奥の細念(さいねん)村、村医者大島直輔の長男として生まれた。幼少時の圭介は、初め祖父純平にについて四書の素読などを受けていたが、1845年(弘化2年)、細念村に隣接する岡山藩の名君池田光政が創設した閑谷(しずたに)学校に入学。圭介はここで足掛け5年間勉学に努めた。授業の内容は漢籍で朱子学だった。成績も良く、父親からは跡継ぎとして医業の勉強をせよとせきたてられた。そんなとき、父と懇意の町医者中島意庵から、蘭学こそこれからの時代に必要とされる学問だと教えられ、一大決心する。

こうして勇躍、圭介は大坂に向かった。1852年(嘉永5年)のことだ。この年、適塾には圭介を含めて34名が入塾している。住み込みの内塾生は60名に近かった。同年、橋本左内が退塾しており、圭介の入門はそれと入れ替わりといった形だ。塾頭は伊藤慎蔵だった。適塾で2年、原書を読みふけって語学は上達したものの、肝心の医業の方は全くおろそかにしていて、家業を継ぐなどとてもおぼつかない状況だった。

そこで、圭介は1854年(安政元年)、親には無断で適塾を退き、江戸へ出た。あてなどない、若さに任せたずいぶん乱暴な江戸行きだった。そして、浜松町の坪井忠益塾に入門した。坪井忠益は元の姓を大木といい、師事した坪井信道に見込まれてその養子となった人物だ。かつて緒方洪庵もその下で学んだことがあった。そうした縁で圭介は入門するとすぐ、塾頭に挙げられた。適塾のレベルがそれほど高かったのだ。
 当時は欧米列強の開国要請を受けて、軍備を洋式に改めるべく、坪井塾にも洋式兵備に関する調査依頼が、諸藩江戸屋敷からたびたび持ち込まれるようになった。その場合、適塾で兵書に親しんでいた圭介の右に出る者はいなかったから、それらの調査以来を取り仕切ったのは塾長の圭介だった。こうして西洋兵学に深入りするにつれ、圭介の医学に対する関心は急速に薄れていった。圭介の内部において、医学から兵学への転身が決定的となったのは、江戸に出て3度目の春が過ぎた1857年(安政4年)のことだった。

 この年、圭介は西洋兵学の分野で先覚的な役割を果たした江川太郎左衛門が開いた「江川塾」から、西洋兵学の教授に就任してほしいとの招聘を受けた。このことで圭介は自信を得て、これからの人生は医者ではなく西洋兵学者として生きることを決心する。彼は江川塾が用意した長屋に移り住み、講義のかたわら、自らも砲術などの学習に勤しんだ。圭介の講義を受けていた人々の中には後年、薩閥の有力者となる黒田清隆や大山巖らの顔も見えていた。いまや新進の西洋兵学者として圭介の名は高まるばかりだった。

 1866年(慶応2年)、遂に幕府から開成所の洋学教授として召し出された。圭介34歳のことだ。それからまもなく、幕府内開明派の小栗上野介らの発議に基づき、幕府陸軍にフランス式操練を施すことが決まり、圭介は募集に応じて集まった1000人ほどの一隊を機動力ある精兵に鍛えあげた。これがいわゆる伝習隊だ。

 時勢は急テンポの展開をみせ、慶応4年、鳥羽伏見の戦いが勃発。この後、幕府の大勢が恭順に傾き、佐幕派諸藩ないし親幕府派諸藩が新政府軍と対峙。各地で戊辰戦争に敗れ、函館・五稜郭戦争に至る。圭介は江戸を脱出、旧幕府艦隊の総帥榎本武揚らと合流。北海道に渡り、「蝦夷共和国」の陸軍奉行に就任したが、6カ月後あえなくその幕を閉じた。

 圭介は2年有余、獄舎にあったが、明治5年罪を解かれ、開拓使御用掛として明治政府に出仕。以後、学習院校長、朝鮮公使、枢密院顧問官などを歴任した。

(参考資料)百瀬明治「『適塾』の研究」