大塩平八郎・・・民衆とともに蜂起するも、組織の巨悪にはめられ自決

 大塩平八郎は天保の大飢饉の際、貧困に苦しむ人たちを救うためとはいえ、門人、民衆とともに武装蜂起した犯罪人だ。だが、奉行所与力時代の功績や、武装蜂起に至る経緯を詳細に検証すると、奉行所与力時代に彼が行った摘発に対する逆恨みや、奉行所の組織=巨悪にはめられ、潰された側面が強い。彼の清廉潔白さが災いしたのだ。

 大塩平八郎は陽明学を学び、理論と実践、知行合一を信奉した江戸時代後期の儒学者で、大坂町奉行所与力を務めた。代々与力として禄を受け、彼の父も与力を務め、初代の六兵衛成一から数えて八代目。生没年は1793(寛政5年)~1837年(天保8年)。

奉行所時代は清廉潔白な人物として不正を次々と暴き、とくに西町奉行同心弓削新左衛門の汚職事件では、上司の東町奉行・高井実徳の強力なサポートもあって内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集め、その後も活躍した。しかし1830年、上司の恩人、高井の転勤とともに、38歳という働き盛りの若さで奉行所を辞職。養子の大塩格之助に跡目を譲った。この後、平八郎は自宅で「洗心洞」という私塾を開き、引き続き頼山陽などとも交際を持った。

徳川時代を通して、米の生産力が一番高い時期は元禄時代だ。その元禄の頃を中心として年貢が考えられる。一番上昇期に達した水準で年貢を考えているわけで、ちょっと不作になると、すぐそれが百姓の生活に降りかかってくるのだ。四公六民、あるいは五公五民の年貢を取られると、飢饉になるとたちまち多くの人間の死に直結する。

南部藩などは24万人の人口のうち、天明の飢饉で6万4000人、約4分の1が死んでいる。その後にもう一度飢饉に襲われて、同じくやはり6万人ぐらい死ぬ。だから人口がたちまち半分ぐらいに減ってしまった。そうなると結局、生産力ががたっと下がってしまう。

1836年(天保7年)の頃は、飢饉で米が入ってこない。とくに京都はひどかったようだ。当時の記録をみると、京都では米一升250文とある。平年だったら大体60文から70文だ。70文としても3倍以上だ。しかも死者は毎日70人に上るありさまだ。丹波からは例年の5分の1程度、亀山(亀岡)からは40分の1程度しか米が入ってこない。大坂からは全く入ってこない-とある。これは大坂の城代、あるいは町奉行が禁止しているからだ。こうしたことが、平八郎が乱を起こす原因になっていく。

平八郎は天保の大飢饉の際、幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価吊り上げを狙った米の買い占めによって大坂の民衆が飢饉にあえいでいることに心を痛め、当時の東町奉行、跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請した。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商・鴻池善右衛門に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と20数名の門人の禄米を担保に1万両を貸してほしい」と持ちかけた。だが、鴻池善右衛門に相談された東町奉行の跡部が、平八郎に含むところがあるだけに、「断れ」と命令したため、平八郎の救済策は実現しなかった。

そうした中、飢えた人々を救う手はほとんど打たれなかったから、大坂や京の街には餓死者の数が日に日に膨れ上がっていった。平八郎はその後、蔵書を処分するなどして得た、金600両の私財を投げ打った貧民救済活動を行うが、万策尽きたことを実感。「仁・義のすたれた世をこのまま傍観してはおられぬ。陽明学を学んだものの宿命として、起つ時がきた。もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に、根本的解決は望めない」と判断。

門人に砲術を中心とする軍事訓練を行った後、1837年(天保8年)に門人、民衆とともに蜂起した。これが大塩平八郎の乱だ。しかし、門人の密告(奉行所が送り込んだスパイという説もある)によって奉行所に発覚、すぐ鎮圧された。

逃亡生活中、四ツ橋あたりで刀を捨て、靱のとある商家の蔵に隠れていたが、数カ月の後、所在が発覚、養子の格之助とともに火薬を用いて自決した。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、童門冬二「私塾の研究」、安部龍太郎「血の日本史」