大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • バス事業悪化で国に健全化計画提出へ 大阪市交通局 2015年6月18日 バス事業悪化で国に健全化計画提出へ 大阪市交通局 大阪市交通局は6月17日、2014年度のバス事業会計の決算見込みを発表した。土地信託事業ビル「オスカードリーム」(大阪市住之江区)の失敗により、銀行に支払う和解金273億円を特別損失に計上したため、経営状態が悪化。資金不足比率が法定基準(20%)を大幅に上回る141%になり、経営健全化計画を今年度末に国に提出することになった。 橋下徹市長の意向を受け、市交通局は民営化を前提とした健全化計画を作る予定。民営化しない場合はバス路線が大幅に廃止される可能性があり、計画を承認する議会が紛糾することも予想される。
  • 大阪湾5カ所でアカガイ稚貝放流 水揚げ増目指す 2015年6月18日 大阪湾5カ所でアカガイ稚貝放流   水揚げ増目指す 大阪府は国産アカガイの水揚げ増加を目指して6月16日、18年ぶりに稚貝を大阪湾に放流した。順調に育てば、1年後には食卓に届くほどの大きさに成長するという。放流したのは長さ3㌢、重さ8㌘ほどの稚貝約5万個。大阪市沖から泉州沖の5カ所に放流した。アカガイはすしネタとして好まれている。
  • 復活した「天満天神の名水」に光再び だし文化支える 2015年6月17日 復活した「天満天神の名水」に光再び だし文化支える 大阪天満宮(大阪市北区)の境内で、かつて名水といわれた地下水「天満天神の水」が2014年復活し、老舗のすし店などで使われ、大阪の「だし文化」を支えた名水が再び注目を集めている。 大阪天満宮によると、境内の井戸水は江戸時代から付近の造り酒屋などで使われていた。参勤交代で訪れた大名に供された記録もある。近年の都市開発の影響などで井戸水は枯渇したが、地元の天神橋筋商店連合会や関西大学(大阪府吹田市)の協力により、境内の別の場所で新たな井戸が掘られ14年7月、地下約70㍍から地下水のくみ上げに成功した。この復活した新しい「天満天神の水」、天満宮参拝者にも「まろやかな口当たりで、おいしい」と好評だ。 この復活した名水、伝統の大阪の味づくりに一役買っている。箱寿司をつくり続ける1841年(天保12年)創業の老舗、吉野寿司(大阪市中央区)は5月からこの水を料理に使い始めた。創業当時使っていたが、40年ほど前に地盤沈下などを考慮し利用をやめた同社。再び今、1日40㍑の水で昆布のだしを取り、すし飯を炊くなどしている。また、近くの老舗料亭などでも、この水が使われ始めている。
  • 5月近畿マンション発売戸数2割増 2カ月ぶりプラス 2015年6月17日 5月近畿マンション発売戸数2割増 2カ月ぶりプラス 不動産経済研究所が6月16日発表した近畿2府4県の5月のマンション発売戸数は、前年同月比で20.9%増の1920戸で、2カ月ぶりに前年実績を上回った。大阪市、京都市など都市部が伸びをけん引した。契約率は75.2%で3カ月連続で70%を超えた。
  • 釣り場の水利用しマイクロ水力発電 千早赤阪村 2015年6月16日 釣り場の水利用しマイクロ水力発電 千早赤阪村 自然エネルギーの普及を目指す市民団体「金剛・葛城自然エネルギーの会」が5月から、千早赤阪村の「千早川マス釣り場」でマイクロ水力発電の実験を始めた。 千早川にはかつて発電所が2カ所あり、付近の家庭に電力を供給していたが、約50年前に施設の老朽化とともに姿を消していた。6月10日の公開実験では88㍗の電力が得られた。LED電球を点灯させ、見学者から歓声が上がっていた。 マイクロ水力発電は一般的に、出力が100㌔㍗以下と定義されている。ダムなど大規模な設備を必要とせず、電力消費地の近くでつくれる「地産地消型」エネルギーだ。 10日の実験では、上流側の釣り場の水を下流側の釣り場にホース(直径5㌢)を通して落とした。高低差は18㍍。ホースの先端には発電用タービンが取り付けられており、1秒当たり2.2㍑の水を通すと、タービンが勢いよく回転した。 発電用タービンを製作した関西外国語大学(枚方市)青木豊明教授は「取水口とタービンの落差を大きくすれば、より多くの電力を得ることができる」と説明し、今回の実験が千早川での水力発電復活のきっかけになればと期待している。
  • 梅田スカイビル北側で泥んこ田植え 大淀小児童 2015年6月16日 梅田スカイビル北側で泥んこ田植え 大淀小児童 都会のど真ん中、大阪市北区大淀中の梅田スカイビル北側にある田んぼで6月15日、市立大淀小学校の児童61人が田植えを体験した。今後、草取りをし、秋には収穫もし、自分たちが育てたお米を味わう。 同ビルに本社のある積水ハウスが、同小学校の5年生を招いて2007年から毎年実施している。児童らは総合学習の時間に、お米の勉強をしてこの日に備えた。児童たちは、手足を泥だらけにしながら、教えられた通りに3000株の苗を植え付けた。秋には15~20㌔のお米が収穫できる見込み。
  • 16年3月 関空~NY線が1年半ぶり復活 デルタ航空 2015年6月16日 16年3月 関空~NY線が1年半ぶり復活  デルタ航空 新関西国際空港は6月15日、デルタ航空が関西国際空港から成田を経由し、米ニューヨークを結ぶ路線を2016年3月28日から毎日運航すると発表した。経由便を含む関空~ニューヨーク線の定期便は1年半ぶりの復活。関西からのビジネス利用などを見込む。 関空~成田をボーイング757-200型で就航し、すでに運航している成田~ニューヨーク線につなげる。他社便から乗り換える場合と比べて接続が良く、待ち時間を短縮できる。デルタ航空は成田からニューヨークを含む米国の7都市へ直行便を運航しており、関空から各都市へのアクセスが便利になる。
  • 橋下氏、安倍首相と都内で3時間会談、意見交換 2015年6月15日 橋下氏、安倍首相と都内で3時間会談 意見交換 維新の党、最高顧問の橋下徹大阪市長は6月14日夜、都内のホテルで安倍晋三首相と約3時間にわたり会談した。菅義偉官房長官、維新の党、顧問の松井一郎大阪府知事も同席した。住民投票で否決されたが、「大阪都構想」に一定の理解を示してきた首相らに謝意を伝え、維新の党が賛同する憲法改正や国会運営についても意見交換したとみられる。 橋下、松井両氏は会談に先立ち、維新の党の松野頼久代表、柿沢未途幹事長とも会談した。出席者によると、橋下氏は維新の党が与党と歩調を合わせる現在の国会運営について異論をはさまなかったという。
  • 道頓堀商店会がギネス記録に挑戦 3000人で盆踊り 2015年6月14日 道頓堀商店会がギネス記録に挑戦  3000人で盆踊り 同時に盆踊りをした人数のギネス世界記録を更新しようと、大阪ミナミの道頓堀で8月16日、3000人が参加する盆踊りを道頓堀商店会が企画している。豪商・安井道頓による道頓堀開削400年という節目を祝うイベント。 現在の記録は2001年8月に栃木県茂木町で踊った1932人という。同商店会によると、今年で4回目の「道頓堀盆踊りインターナショナル」で挑戦する。2014年は約1000人が参加した。 ギネス記録に挑戦する今年の会場は、道頓堀橋から日本橋までの川沿い遊歩道約500㍍。細長い輪になり、歌手の嘉門達夫さんが歌う「道頓堀へいらっしゃい!音頭」に合わせて約5分間踊る。
  • 観光庁 近畿「美の伝説」周遊4ルート認定 2015年6月14日 観光庁 近畿「美の伝説」周遊4ルート認定 観光庁が6月12日発表した外国人旅行客向けの7つの広域観光周遊ルートに、近畿では日本海沿岸や紀伊半島を巡る「美の伝説」4ルートが認定された。関西広域連合、関西経済連合会、関西地域振興財団が共同で申請していた案で、3団体を中心に今後1カ月で事業計画をつくる。京阪神に集中しがちな外国人客を近畿全体に分散させる狙いだ。 美の伝説は近畿6府県と福井、鳥取県にある5つの世界遺産と7つの絶景を周り、日本の美意識を知ってもらう旅を提案している。世界遺産は姫路城、紀伊山地の霊場と参詣道などがあり、絶景に天橋立、鳥取砂丘、神戸の夜景、三方五湖などを選んだ。 4ルートには天橋立、鳥取砂丘などを周る北地域周り(5泊6日)、紀伊山地の霊場、法隆寺周辺などを周る南地域周り(同)などを挙げた。
  • 関西発の商品 仏パリで販路開拓支援 近畿経産局 2015年6月14日 関西発の商品 仏パリで販路開拓支援   近畿経産局 近畿経済産業局はフランス・パリで関西発の販路開拓を支援する取り組みを始める。公募で選んだ関西企業の商品を、日本人がパリで運営する常設展示場で半年間陳列し、欧州各地の百貨店などに向けた供給販売につなげてもらう。 第1弾として6月下旬まで公募し、10点程度を8月ごろからパリで展示する予定。
  • 近畿の景況感 2四半期連続のマイナス 近畿財務局 2015年6月13日 近畿の景況感 2四半期連続のマイナス  近畿財務局 近畿財務局が6月11日発表した4~6月期の近畿の法人企業景気予測調査によると、前3カ月と比べて景気が良くなっているか銅貨を示す指数はマイナス8.5だった。マイナスは2四半期連続。円安や原材料高に加えて、電気料金の値上げによるコスト増を心配する声が多いという。ただ、今年10~12月期の見通しは中小企業を含めて全業種でプラスだった。
  • 5月大阪中心部のオフィス空室率5カ月ぶり低下 2015年6月13日 5月大阪中心部のオフィス空室率5カ月ぶり低下 オフィスビル仲介の三鬼商事(東京都中央区)が6月11日に発表した5月末の大阪中心部のオフィス空室率は前月比0.30㌽低い8.47%と5カ月ぶりに低下した。新築ビルの供給や、オフィス集約に伴う大型解約が一服した。今後も大型新築物件が少なく、空室率は徐々に低下する見込み。梅田や淀屋橋・本町など主要なオフィス街の空室率が低下した。 大阪中心部の平均賃料は1坪(3.3平方㍍)当たり1万1131円と前月比8円下がった。前年同月比では36円安い。
  • ニュートラムに25年ぶり新型車両導入16年4月から 2015年6月13日 ニュートラムに25年ぶり新型車両導入 16年4月から 大阪市交通局は6月12日、来年度から南港ポートタウン線でニュートラムの新型車両「200系」を7編成導入すると発表した。費用は1編成(4両)につき約4億3000万円。外観はそれぞれ異なる青、ピンク、赤、オレンジ、黄、緑、紫の7色。同線での新型車両導入は25年ぶり。2016年4月に青色の1編成が運航を開始し、他のカラーも順次お目見えする。
  • オリックス・仏バンシ連合1次通過 関空・伊丹運営 2015年6月13日 オリックス・仏バンシ連合1次通過 関空・伊丹運営 新関西国際空港会社は6月12日、5月22日に締め切った関西国際空港と大阪(伊丹)空港の運営権売却(コンセッション)の1次入札で、オリックスとフランスの空港運営大手「バンシ・エアポート」の企業連合が審査を通過したと発表した。 また、企業連合側が事業計画を練る十分な時間を確保するため、2次入札の審査書提出期限を従来から3カ月延期し、9月18日にすると発表。民間企業への運営権移管も従来の2016年1月ごろから同3月末となることを明らかにした。これに伴い、空港の運営期間は44年となる。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。