大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 波瑠さん「あさが来た」ラッピング地下鉄・バスと対面 2016年2月9日 波瑠さん「あさが来た」ラッピング地下鉄・バスと対面 NHK連続テレビ小説「あさが来た」のヒロイン・あさを演じる女優の波瑠(はる)さん(24)が2月8日、ドラマの登場人物などがあしらわれた大阪市営地下鉄のラッピング電車・バスと対面した。 地下鉄四つ橋線西梅田駅では、ドラマの中で加野銀行を運営する洋装姿のあさ(広岡浅子)こと波瑠さんと、夫・新次郎役の玉木宏さんの2人の姿が あしらわれている車両を見学。波瑠さんは「想像していたより細かく再現されていて少し驚いた」と語っていた。 また、波瑠さんは「あさが来た」がラッピングされた市営バスも見学した。このラッピング電車・バスの運行は、最終回が放送される4月2日まで続けられる。
  • 関空が大阪・なんばに「空港型免税店」17年春開業 2016年2月8日 関空が大阪・なんばに「空港型免税店」17年春開業 新関西国際空港会社はこのほど、訪日外国人の利便性をより一層高めるため、ロッテ免税店と協力し、大阪市内のビックカメラなんば店において「空港型免税店」を展開することで合意した。2017年春をめどに開業し、初年度130億円を見込む。 顧客は免税店舗のビックカメラなんば店6~7階(約4400平方㍍)で商品を購入し手ぶらで移動、空港で受け取ることができる。商品構成はラグジュアリーブランドのファッション商品、化粧品、香水を中心に時計、宝飾品、その他和雑貨品、日本土産品など。
  • 舞洲をスポーツ拠点に 大阪市がセレッソらと包括協定 2016年2月7日 舞洲をスポーツ拠点に 大阪市がセレッソらと包括協定 大阪市は市内に拠点を置くサッカーJリーグのセレッソ大阪などとスポーツや地域振興で連携する包括協定を結んだ。 今回、大阪市が包括協定を結んだのは、此花区の舞洲を練習の拠点としている「セレッソ大阪」と、バスケットボールのプロチーム「大阪エヴェッサ」。 大阪市がスポーツチームと協定を結ぶのは初めてで、今後は両チームが市内の小中学校でスポーツ教室を行う機会を増やすなど、スポーツや地域振興で連携を深めていく。 舞洲には2017年、プロ野球のオリックスも2軍の練習拠点を移す予定で、舞洲はプロスポーツチームの拠点となりつつある。
  • 鴻海、シャープ買収に優先交渉権?双方の認識に相違 2016年2月6日 鴻海、シャープ買収に優先交渉権?双方の認識に相違 経営再建中のシャープ買収を目指している台湾の鴻海精密工業の郭台銘会長は2月5日午前、大阪市のシャープ本社を訪問。高橋興三社長らと同日夕まで約8時間にわたり会談し、最終的な契約に向けて協議するための合意書を交わした。 2月末の締結を目指す。合意書では鴻海精密工業提案の有効期限を2月29日まで延長することで一致した。 郭会長は会談後「シャープから優先的な交渉権を得た」と記者団に語った。ただ、これに対しシャープは「優先交渉権を与えた事実はない」と発表。最終契約を前に、認識の違いを露呈した形となった。
  • 地下鉄民営化へ大阪市が方針案 市営バスも 2016年2月5日 地下鉄民営化へ大阪市が方針案 市営バスも 日本初の公営地下鉄である大阪市営地下鉄の民営化論議が本格化する。大阪市は2月3日、吉村洋文市長や市幹部らが集まる戦略会議で、市営バスも含めた民営化に向け、新会社などの基本方針案などを決めた。 2月16日開会の2月議会に提出し、最速で2017年春の民営化移行を目指す。しかし自民党や公明党内には、未着手の延伸計画が進まなくなるなどと慎重論が根強い。
  • 公共交通の空白地域解消へ大阪・河南町が実証実験 2016年2月4日 公共交通の空白地域解消へ大阪・河南町が実証実験 大阪府河南町は2月2日、公共交通の空白地域解消などを目指し、循環バスとタクシーを運行する実証実験を始めた。 バスは大人100円、子供50円、タクシーは大人200円、子供100円。実証期間は1年で、効果をみて本格導入するか決めるが、町は「町民の足」として定着させたいとしている。 運行を始めたのはマイクロバス2台とタクシー1台。路線バスが通らないルートなどを結び、町北部と南部に分かれている。タクシーは町東部と南部を運行。町が運営し、民間事業者に委託する。 河南町は人口約1万6000人で府南東部に位置し、富田林市と奈良県葛城市に接する。 府内では堺市が大人300円の乗り合いタクシーを運行、岬町でも空白地域を結ぶ100円のバスを運行しているが、採算面など課題もある。
  • 春節 関空国際線旅客 最多の30%増の55万人見込む 2016年2月3日 春節 関空国際線旅客 最多の30%増の55万人見込む 新関西国際空港会社は、中華圏の旧正月「春節」を含む2月5~14日の国際線旅客数が前年比30%増の54万9200人、1日当たり5万4900人になるとの予想を発表した。 前年と同じ伸び率での増加であり、年間のピーク期で過去最高だった2015年お盆期間(2015年8月7~16日)は1日当たり5万3520人で、これを上回る規模となる見込みだ。 方面別旅客数をみると、韓国(6万6000人)、中国(6万2700人)、台湾(5万1300人)、東南アジア(3万2900人)、香港・マカオ(2万9600人)の順。
  • 中村芝雀一門招き大阪・通天閣で恒例「節分福豆まき」 2016年2月2日 中村芝雀一門招き大阪・通天閣で恒例「節分福豆まき」 大阪・通天閣(大阪市浪速区)で2月1日、節分を前に恒例行事「節分福豆まき」が行われた。「大阪府市民の繁栄と幸福」を祈願することを目的に、1957(昭和32)年から続く行事。 毎年各方面で活躍している人を招くが、今年は3月に5代目中村雀右衛門を襲名する歌舞伎役者の中村芝雀さんのほか、芝雀一門の中村京純さんと中村京由さんを招いた。 2015年12月に誕生した特別展望台「展望台パラダイス」と1階正面玄関前で、約300人の一般客に向け「福は内、鬼は外」の掛け声とともに、豆をまいて盛り上げた。
  • 大阪・難波で真田幸村ら戦国武将コスプレパレード 2016年2月1日 大阪・難波で真田幸村ら戦国武将コスプレパレード 大阪・なんばウォークで1月30日、現在同地で開催している「大坂夏の陣」にちなんだ謎解きイベント『大坂なぞの乱 なんば隠れ城下町からの脱出~徳川来襲編~』の一環として、『戦国コスプレコンテスト&パレード』が行われた。 手づくりの衣装などで真田信繁(幸村)や猿飛佐助をはじめ、戦国武将に成りきった参加者らは赤備えに身を包み、時代劇さながらに声を挙げ、館内をパレードした。完成度、パフォーマンス度などをもとに審査が行われ、奈良在住の木下文香さん(22)が優勝した。 この謎解きイベントは今回の1月30~31日に続き、2月27~28日、3月19~20日に開催。人気ゲーム『戦国BASARA』のブースも登場する予定。
  • 大阪市の助成復活で新たにミナミの映画祭スタート 2016年2月1日 大阪市の助成復活で新たにミナミの映画祭スタート 「日本の映画興行発祥の地」で、かつて映画の街として隆盛を誇った大阪・ミナミで映画祭が復活する。2月9~15日、千日前のトリイホールで開催される「精華千日前キネマ映画祭」だ。 このミナミの映画祭は平成7年から毎年開催されていたが、橋下徹・前大阪市長時代の25年、実行委員会の中心メンバーだった市が脱退したため、継続断念を余儀なくされた。だが、今回新たに市に申請した助成金の交付が決定。これにより新たなスタートを切ることになった。 期間中は日替わりで5人の弁士による無声映画を10本以上上映する。15日は坂東妻三郎出演の「雄呂血(おろち)」(大正14年)を上映する。弁士を第一人者の澤登翠(さわと・みどり)さんが務めるのも見どころ。11、13日は浪曲師の春野恵子さん、12、14日は講談師の旭堂南海さんも弁士として登場する。料金は1回1000円。各日午前11時~と午後3時~の2回上映。完全入れ替え制。 日本映画興行発祥の地となった「南地演舞場」は明治21年、現在の南海難波駅前にある商業施設「なんばマルイ」の場所の設立。同30年2月15日、フランス人のリュミエール兄弟制作の映画が上映されたのが、日本初の映画興行となった。
  • 大阪桐蔭など近畿から7校 センバツ出場32校決まる 2016年1月31日 大阪桐蔭など近畿から7校 センバツ出場32校決まる 第88回選抜高校野球大会(3月20~12日間、甲子園球場)の選考委員会が1月29日、大阪市内で行われ、近畿勢7校を含め出場32校が決まった。 大阪からは大阪桐蔭が2年連続8度目、兵庫から春夏通じ初出場となる明石商が選ばれたほか、21世紀枠で同じように春夏通じ初出場となる長田が選出された。京都からは4年連続40度目という古豪、龍谷大平安、滋賀からは選抜初出場の滋賀学園、奈良からは2年ぶりの10度目の智弁学園、和歌山からは11年ぶり5度目の市和歌山がそれぞれ選ばれた。
  • 阪堺電車「住吉公園」駅、103年の歴史に幕 2016年1月31日 阪堺電車「住吉公園」駅、103年の歴史に幕 大阪唯一の路面電車を運行する阪堺電気軌道(阪堺電車)の上町線、住吉~住吉公園間の軌道事業廃止に伴い1月30日朝、「住吉公園」駅発着の運行が終了し、103年の歴史に幕を下ろした。 1913(大正2)年に開業した同駅は、2014年のダイヤ改正で天王寺駅前~住吉公園間(約200㍍)の運行のほとんどを天王寺駅前~我孫子道間に変更したことで、朝7・8時台(平日上下5本・土休日4本)のみの運行となり、平日の終電が8時24分発で日本一早い終電の早い駅となった。 廃止後は我孫子道発着に変更し、隣接する「住吉鳥居前」駅を利用することで輸送量は保たれる。
  • 大阪は年間41億円で過去最悪 15年特殊詐欺被害 2016年1月30日 大阪は年間41億円で過去最悪 15年特殊詐欺被害 警察庁によると、2015年の全国の振り込め詐欺はじめ特殊詐欺の認知件数は1万3828件で、被害額は476億8000万円と前年比約89億円減少した。 こうした中で、全体と異なった結果を示したのが大阪府の動向だった。大阪府の特殊詐欺の認知件数は1170件、被害額は約41億4000万円で、ともに過去最悪となり、兵庫県や京都府でも認知件数が前年より増加した。大阪では高齢の助成が名義貸しトラブルの解決金名目で2億円を超える現金をだまし取られる事件が2件あった。
  • 15年大阪の百貨店売上高3年連続増加 東京に次ぐ増加率 2016年1月29日 15年大阪の百貨店売上高3年連続増加 東京に次ぐ増加率 日本百貨店協会によると、2015年の大阪地区の百貨店売上高は前年比1.6%増の7883億円となり、3年連続で前年実績を上回った。東京に次ぐ増加率だった。免税品目の拡大により、訪日外国人客による旺盛な買い物需要に支えられた。
  • 109年前の最古級の木造駅舎閉鎖 南海「浜寺公園」 2016年1月28日 109年前の最古級の木造駅舎閉鎖 南海「浜寺公園」 109年前に建設され、日本最古の木造建築の一つとされる南海電鉄「浜寺公園」駅の駅舎が閉鎖されることになり1月27日、セレモニーが行われた。堺市西区にある同駅は1907年、東京駅などを手掛けた著名建築家、辰野金吾氏らが設計し完成。現存する最も古い木造駅舎の一つとされている。 駅舎はいったん別の場所に移され、11年後に完成予定の新しい駅舎の玄関部分として活用されることになっている。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。