大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 大阪・御堂筋でF1疾走 ギネス記録のイルミネーションも 2015年11月28日 大阪・御堂筋でF1疾走 ギネス記録のイルミネーションも 11月29日、大阪御堂筋をF1マシンが疾走し、フェラーリ100台がパレードする。午後2時から「御堂筋オータムパーティー2015」と題し、御堂筋が歩行者天国になる。本格窯で焼き上げるピザやB級グルメが楽しめるほか、ラグビー教室やジャズ、ご当地アイドルのステージも。夕方にはギネス世界記録に認定されているイルミネーションが点灯。関係者は「御堂筋から大阪の魅力を国内外に発信したい」と意気込んでいる。 2014年、淀屋橋~難波間のイルミネーションの街路樹の数で世界一に認定されたが、今年は梅田~淀屋橋間を延長し、全長約4㌔㍍となる。このイルミネーションは29日だけでなく、2016年1月17日まで楽しめる。
  • EXILEが大阪環状線をジャック JR西日本とコラボ 2015年11月28日 EXILEが大阪環状線をジャック JR西日本とコラボ 西日本旅客鉄道(JR西日本)は11月26日、人気ダンス・ボーカルグループ、EXILEとのコラボレーションで「つながる19、広がるLOOP」キャンペーンを行うと発表した。 「19」は、環状線の駅の数とKXILEメンバーの数が同じ共通点があることにちなんだもの。大阪環状線を走る電車(1編成)について、その車体側面や車内の中吊りなどキャンペーンポスターでジャック。その先頭と最後尾にオリジナルのヘッドマークを掲出するほか、大阪環状線の全駅に関連ポスターを展開する。
  • 沢井製薬 吹田市に新たに研究開発拠点設置 2015年11月27日 沢井製薬 吹田市に新たに研究開発拠点設置 大阪市に本社を置く沢井製薬が、ジェネリック医薬品の安定的な生産や供給を目指し、新たに吹田市に研究開発拠点を設けた。 日本のジェネリック医薬品の普及率はまだ低く50~60%といわれるが、2017年には70%へ、さらに近い将来には80%に引き上げていきたい-としている。 厚生労働省によると、国民の医療費は毎年増え続け約38兆5000億円で、そのうち8兆円が薬剤だ。低価格のジェネリック医薬品への切り替えで年間1兆5000億円の医療費削減が期待できるという。
  • 大阪環状線は最短15分間隔 JR西日本が大晦日終夜運転 2015年11月26日 大阪環状線は最短15分間隔 JR西日本が大晦日終夜運転 西日本旅客鉄道(JR西日本)はこのほど、京阪神地区の大晦日の終夜運転の概要を発表した。大阪環状線は0時から5時まで天王寺~京橋~大阪~西九条間が約15分間隔(一部はJRゆめ咲線へ直通)、西九条~天王寺間が約30分間隔で運転される。 JR京都線・JR神戸線の京都~西明石間は0時から5時ごろまで約30分間隔で、琵琶湖線の草津~京都間は0時から5時ごろまで約60分間隔で、JR神戸線の西明石~姫路間は0時から5時ごろまで約90分間隔で、奈良線は0時から5時ごろまで京都~城陽間は約30分間隔で、城陽~奈良間は約60分間隔でそれぞれ運転される。
  • ハルカスで「広岡浅子展」朝ドラ「あさが来た」モデル 2015年11月25日 ハルカスで「広岡浅子展」朝ドラ「あさが来た」モデル あべのハルカス(大阪市阿倍野区)7階街ステーションで11月24日、NHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなっている広岡浅子の生涯をパネルで紹介する「大阪の女性実業家 広岡浅子展」が始まった。 大同生命の創業者の一人で、明治時代に女性実業家として活躍した広岡浅子の年譜、家族らの写真などのほか、ドラマのキャストなどを紹介するパネルを展示している。 主催は大阪「あさが来た」推進協議会で、現在放送中のドラマの舞台となっている大阪を盛り上げようと大阪商工会議所、大阪観光局などで組織した。観覧無料。12月1日まで。
  • 再選の松井知事 大阪府市統合本部立ち上げを表明 2015年11月24日 再選の松井知事 大阪府市統合本部立ち上げを表明 11月22日の大阪府知事選で再選した松井一郎知事は早速、大阪府と大阪市の二重行政などを話し合う「府市統合本部」を年内にも立ち上げる考えを示した。また、大阪都構想の議論を再度スタートさせるために、議会と話し合ったうえで、府と市の職員が集まる「府市大都市局」を復活させる考えを示した。
  • 大阪市議会・西成区補選も維新の新人が当選 2015年11月24日 大阪市議会・西成区補選も維新の新人が当選 11月22日、大阪ダブル選と同時に行われた大阪市議会補欠選挙は、大阪維新の会の新人で不動産業の岡田妥知さん(46)が、自民党公認の矢田幸之助さんに1000票余りの差をつけて勝利した。この結果、維新の会は同日行われたダブル選と合わせトリプル勝利となった。
  • 大阪ダブル選で維新、松井・吉村両氏が圧勝! 2015年11月23日 大阪ダブル選で維新、松井・吉村両氏が圧勝! 11月22日投開票が行われた大阪府知事、大阪市長のダブル選挙で地域政党「大阪維新の会」が圧勝した。府知事選では現職の松井一郎氏(51)が自民推薦で民主、共産が支援した前府議の栗原貴子氏(53)ら2人に圧勝。市長選では前衆議院議員の吉村洋文(ひろふみ)氏(40)が、自民推薦で民主、共産の支援を受けた前大阪市議の柳本顕(あきら)氏(41)ら3人を破り、初当選した。この結果、松井、吉村両氏は公約に掲げた「大阪都構想」への再挑戦に向け、新しい設計図づくりに着手する。 大阪都構想をめぐる5月の住民投票での敗北、国政での維新の党からの離脱、そして橋下徹代表の政界引退も控え、今回のダブル選は大阪維新の会のまさに正念場。知事、市長どちらか1人でも負ければ維新の退潮を深く印象付け、終焉の序章にもつながりかねない闘いだった。しかし当初の劣勢から一転、終盤に盛り返し、圧勝したことで、再び大阪再生の主導的役割を担うことになった。
  • グリコ看板に綾瀬はるかさん「お疲れさまです!」 2015年11月22日 グリコ看板に綾瀬はるかさん「お疲れさまです!」 大阪・道頓堀のグリコ看板に11月21日夕方から、綾瀬はるかさんが「頑張った人」を労(ねぎら)う応援メッセージ映像が投影されている。これは11月23日の勤労感謝の日にちなみ、21日17時30分から23日23時45分まで、15分ごと(毎時00分、15分、30分、45分)に投影される。江崎グリコの「ジャイアントコーンのブランドメッセージである「お疲れさまです!」を発信するもの。
  • 地下鉄堺筋線で「どうぶつデザイン列車」運行開始 2015年11月22日 地下鉄堺筋線で「どうぶつデザイン列車」運行開始 大阪市交通局は11月20日、地下鉄堺筋線で「どうぶつデザイン列車」の運行を開始した。天神橋筋六丁目駅(大阪市北区)~天下茶屋駅(同西成区)を結ぶ堺筋線。沿線には開園100周年を迎える天王寺動物園があり「路線の特徴・魅力を表現し、お客様に楽しんでもらえる車両にしたい」との思いから企画された。 乗降ドアはヒョウ柄、車両の連結部分のドアにはシマウマ、フラミンゴ、キリン、ライオン、サイ、ゾウのシルエット、運転席の仕切り戸にサルとカバがそれぞれ描かれている。
  • 南海電鉄 新作「スターウォーズ」仕様の特別車両公開 2015年11月21日 南海電鉄 新作「スター・ウォーズ」仕様の特別車両公開 南海電鉄は11月20日、南海電鉄・住ノ江駅で映画「スター・ウォーズ」の新作とタイアップした特別車両を公開した。名称は特急ラピート「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」号。 映画が12月18日に公開されるのに合わせて11月21~2016年5月8日の期間限定で運行する。運行区間は難波駅~関西空港駅間で、特急ラピート1編成(50000系6両1編成)が1日4~8往復する。関西空港駅を生かしてインバウンド事業の拡大を目指す。
  • 11/19待望のオープン”EXPO CITY”大賑わい 2015年11月20日 11/19待望のオープン”EXPO CITY”大賑わい 万博記念公園(大阪府吹田市)の一角、旧エキスポランド跡地に建設が進められていた大型複合施設「EXPO CITY」が11月19日、オープンした。甲子園球場5個分以上という広大な敷地に、「海遊館」監修の施設をはじめ8つの大型エンタテイメント施設とレストランや体験型ショップ、305の店舗が集まった。 この日は早くは深夜、そして夜明け前から、ショップが企画した限定グッズなどを目当てに約4000人が列をつくりオープンを待つ盛況ぶりだった。
  • ボージョレ・ヌーボー 阪神梅田店に「解禁隊長」登場 2015年11月20日 ボージョレ・ヌーボー 阪神梅田店に「解禁隊長」登場 阪神百貨店梅田本店(大阪市北区)地下1階和洋酒売り場で11月19日、ボージョレ・ヌーボー解禁日限りの1日キャラクターが現れ、じゃんけんに勝った顧客にワイン1本を振る舞った。 幕末の志士、坂本龍馬が結成した「海援隊」をもじった「解禁隊」は今回限り、この日だけのキャラクター。隊長は和服姿に模造刀を腰にさして登場し、じゃんけんに勝った先着50名に解禁したばかりのボージョレ・ヌーボー1本を気前よく進呈した。当日は朝から約30人の行列ができ、和洋酒売り場は朝からにぎわっていた。
  • 長居植物園でガーデンイルミネーション始まる 2015年11月20日 長居植物園でガーデンイルミネーション始まる 長居公園(大阪市東住吉区)内の長居植物園で11月20日、夜間に臨時開園するイルミネーションイベント「長居植物園ガーデンイルミネーション~花と光のハーモニー~」が始まる。同イベントは6回目。 今年のテーマは「心あたたまるイルミネーション」で、木々や草花などを幻想的にライトアップする。12月27日までの期間中、連日クラシック音楽やゴスペルなどのコンサートを開く。土・日・祝日とクリスマス期間(12月23~25日)はナイトトレイン(4歳以上、1回300円)が運行する。なお11月24、30日、12月7、14、21日は休園。
  • 大阪・城東区で「猿楽祭」パフォーマンスで地域振興 2015年11月19日 大阪・城東区で「猿楽祭」パフォーマンスで地域振興 大阪市城東区の蒲生公園で11月23日、区民らが歌や踊りのパフォーマンスを披露する「第4回城東区SARUGAKU祭」が開催される。同イベントは、区民で構成されている「城東区ゆめ~まち~未来会議」のプロジェクトの一環で、「音楽・芸術による潤いのあるまちの実現」を目指した取り組みの一つ。 同区の野江から関目一帯は1030年ごろまで「榎並荘(えなみのしょう)」と呼ばれる法隆寺の荘園だったことが判明している地域。その後、室町時代には荘名にちなんだ「榎並座」と呼ばれる猿楽集団が隆盛を誇ったという。 イベント当日は、「よさこい」を踊る地域のグループをはじめ、太鼓・歌・ダンスなど様々なパフォーマンスを披露する団体・グループ40チーム余りが出演予定。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。