大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 近畿経産局 HPで「イケテル商店街」 駒川商店街など紹介 2015年10月26日 近畿経産局 HPで「イケテル商店街」 駒川商店街など紹介 近畿経済産業局は、賑わいづくりや地域交流などで成果を上げた商店街を「イケテル商店街」として選び、ホームページで(HP)で紹介を始めた。 第一弾に選んだのはイベントが多い駒川商店街振興組合(大阪市)など管内の近畿6府県と福井県の計10カ所。人口減や後継者難に悩む他の商店街の参考になるよう、成功モデルと伝える。 今回選定したのは他に、勝山本町通りの商店街振興組合(福井県勝山市)、京都向日市激辛商店街、水道筋商店街協同組合(神戸市)など。
  • 関電 16年4月に家庭大口向け料金引き下げ 2015年10月26日 関電 16年4月に家庭大口向け料金引き下げ 関西電力は電力小売りが全面自由化になる2016年4月に、電気の使用量が多い家庭の負担を軽くする新しい電気料金を導入する。 オール電化住宅といった家庭の大口の利用者の電気料金を現行より1割安くするなどで、顧客をつなぎとめる。他の電力大手や新電力も追随して、家庭向け電気料金を下げる可能性もある。 家庭の電力使用量は平均で月300KWh弱。新しい料金体系は300KWhを超えた一定段階で単価を下げる方向で、詳細を詰めている。
  • 関西の百貨店の9月免税売上高3.4倍の42億円 2015年10月25日 関西の百貨店の9月免税売上高3.4倍の42億円 日銀大阪支店が10月23日発表した9月の関西地区の百貨店免税売上高は前年同期比3.4倍の42億8000万円だった。10月初旬の中国の国慶節を控えて、8月(前年同期比4.6倍の48億7200万円)に比べると伸び悩んだが、2014年10月以降、高水準の伸びが続いている。対象は大阪、京都、神戸市内の主要百貨店。
  • 松井・栗原氏が府知事選の”前哨戦”激論 2015年10月25日 松井・栗原氏が府知事選の”前哨戦”激論 11月5日告示、22日投開票の大阪府知事選に立候補する松井一郎知事と栗原貴子府議が10月23日、府議会総務常任委員会で激戦を繰り広げた。咲洲庁舎からの撤退問題や大阪戦略調整会議などを巡り、激しい言葉が飛び交い、熾烈な選挙戦を予感させる”前哨戦”となった。両氏の直接対決は出馬表明後初めて。
  • 阪神タイガース金本監督の経済効果42億円 2015年10月24日 阪神タイガース金本監督の経済効果42億円 宮本勝浩・関西大学名誉教授は、プロ野球阪神タイガースの新監督に決まった金本知憲氏の就任による経済波及効果が、1年目で約42億6000万円に上るとの試算をまとめた。人気OBの采配に注目が集まることで観客動員やグッズ販売が伸びると想定した。試算は、途中で失速せず最後まで優勝争いに加わる-との条件付き。シーズン観客増20億984万円、周辺への波及効果11億7186万円などと見込んでいる。
  • 17年に天王寺と梅田に新ホテル JR西日本 2015年10月24日 17年に天王寺と梅田に新ホテル JR西日本 西日本旅客鉄道(JR西日本)は10月21日、ホテルを大阪・天王寺で2017年春に、梅田で同年夏にそれぞれ新規に開業すると発表した。ビジネス客に加え国内外の観光客の利用を見込む。ビジネスホテル「ヴィアイン」ブランドで展開する。この結果、同社グループのホテル数は全部で19カ所に増える。 同ホテルはテナントとして入居し、子会社のジェイアール西日本デイリーサービスネット(兵庫県尼崎市)が運営する。天王寺「ヴィアイン天王寺(仮称)」は172室、「ヴィアイン梅田(仮称)」は217室となる。両ホテルとも立地は宿泊客の利便性の高いターミナル駅の近くとした。 併せて、2016年春に大阪府吹田市にショッピングセンターを新設すると発表した。
  • 近畿4~9月期貿易黒字5595億円 2期連続 2015年10月23日 近畿4~9月期貿易黒字5595億円 2期連続 大阪税関が10月21日発表した2015年4~9月期(上期)の貿易概況(速報)によると、近畿2府4県の貿易収支は5595億円の黒字(前年同期は1481億円の赤字)だった。半期ベースで黒字となるのは、14年度下期から2期連続となる。 原油安で輸入額が減った一方、中国向けのスマートフォン部品や半導体などの輸出が増えた。輸出額は前年同期比4.2%増の8兆911億円となり、半期ベースで前年同期と比較すると5期連続で増えた。輸入額は4.8%減の7兆5316億円で、2期連続で減った。
  • 外国人観光客の宿泊先 規制緩和で確保 大商が提言 2015年10月23日 外国人観光客の宿泊先  規制緩和で確保 大商が提言 大阪商工会議所は10月20日、訪日外国人客の観光需要の促進に向けた課題をまとめた報告書を発表した。優先度の高い問題としてホテルや旅館などの不足を取り上げ、民間による宿泊施設の建設・投資を促す規制緩和や、財政支援を行政に求めた。 大商が6月に設けた観光関連企業などによる研究会が、実態調査に基づき改善策を示した。報告書によると、外国人客の増加で大阪府内の宿泊施設の稼働率は80%を超え、宿泊予約が困難だと指摘。2020年には大阪市内の外国人宿泊者数がさらに増え、対策を講じないとパンク状態になると予測している。
  • 国際線の冬期ダイヤ 関空便数は開港時94年の3倍 2015年10月22日 国際線の冬期ダイヤ 関空便数は開港時94年の3倍 新関西国際空港会社は10月20日、国際線の冬期ダイヤ計画(10月25日~16年3月26日)を発表した。訪日外国人の増加を背景に、国内外の格安航空会社(LCC)を中心とした増便が続き、16年1月のピーク時は週1215.5便で、1994年の開港時の3倍となる見通し。 計画によると、貨物便を除いた旅客便は週1069便、14年より267便増加。うちLCCは前年同期比79%増の週339便と初めて3割を超え、就航社数や都市数も過去最高となった。LCCは9割がアジア便で、16社が25都市に就航する。 方面別では、中国は前年同期比54%増の441便、韓国はウォン高の影響で44%増。一方、北米や欧州は円安の影響で、日本人旅行客が減るためやや減少している。
  • 外国人客増で9月大阪地区百貨店売上高6カ月連続プラス 2015年10月22日 外国人客増で9月大阪地区百貨店売上高6カ月連続プラス 日本百貨店協会が10月20日発表した9月の大阪地区の百貨店売上高は、前年同月比3.8%増の579億円と6カ月連続でプラスとなった。大型連休大型連休「シルバーウイーク」期間中に好天に恵まれたことや外国人観光客の来店増が寄与した。 商品別では、高級腕時計など高額品を中心とした「美術・宝飾・貴金属」が28.2%増と、全国で最大の伸び率となった。化粧品も28.0%増と引き続き好調だった。
  • 「やってやろう」金本阪神新監督 勝ちながら再建 2015年10月21日 「やってやろう」金本阪神新監督 勝ちながら再建 来季からプロ野球の阪神を率いることが決まった金本知憲(ともあき)・新監督(47)が10月19日、大阪市内で就任記者会見を開いた。2012年に現役引退後は野球評論家として活動。指導経験はないだけに、金本監督は「不安と希望が入り混じっていたが、今はやってやろうという強い気持ちがある」と語った。背番号は未定。計画期間は3年で、年俸は1億2000万円(金額は推定)。 3位に終わった今季の阪神について「勝つんだという気持ちが欠けていた印象」と分析。そのうえで「時間に甘えないように、できるだけ早く、結果を出せるように勝ちながら再建できるようにしたい」と基本的なチーム作りの考え方を示した。 会見に同席した坂井信也オーナーは「『鉄人』『アニキ』として03、05年の優勝に貢献してくれた。記憶、記録に残る大選手。チームに金本イズムを指導者として注入してほしい」と期待を寄せた。
  • 「関西・大阪を元気に!」大阪観光局理事長が講演 2015年10月20日 「関西・大阪を元気に!」大阪観光局理事長が講演 関西プレスクラブの定例会見が10月19日、大阪市内であり、大阪観光局の溝畑宏理事長が「関西・大阪を元気に!」と題して講演した。2019年にラグビーW杯、20年に東京五輪が開催されることについて、「大阪にとって大きなチャンスが待ち構えている。観光客受け入れを図っていくべきだ」と述べた。「滞在日数や1人当たりの消費額を増やす余地はまだまだある。ただ、ホテル不足が深刻」と指摘し、ホテル誘致を急ぐ考えを示した。
  • 秋の和泉路1335人満喫「和泉弥生ロマン・ウオーク」 2015年10月19日 秋の和泉路1335人満喫「和泉弥生ロマン・ウオーク」 和泉市の和泉中央駅に隣接するアムゼ広場を主会場に、10月17日開幕した「第17回和泉弥生ロマン・ツーデーウオーク」。全国から1335人が参加し、山道が多くて難易度が高い40㌔や、仮装して歩ける2㌔のコースが設けられ、それぞれの楽しみ方で秋の和泉路を歩いた。18日は和泉市北部に向かって出発する22㌔、17㌔、10㌔の3コースがある。10㌔コースには元サッカー選手の森島寛晃さんがゲストで参加する。
  • 関空 運営権売却 オリックス・仏バンシ連合に内定 2015年10月19日 関空 運営権売却 オリックス・仏バンシ連合に内定 新関西国際空港会社は関空と大阪国際(伊丹)空港の運営権売却の優先権交渉権をオリックスと仏空港運営大手バンシ・エアポートの企業連合に付与することを内定した。9月に締め切られた運営権売却の最終入札に応募したのは同連合のみ。国土交通省の承認を得て、2016年3月末に運営権が移管される。 新関西国際空港会社は今週開く取締役会でオリックス・バンシ連合を優先交渉権者に選ぶことを正式に決める。11月をめどに国交相の承認を得て、運営権売却の基本協定を結ぶ。運営権の総額は約2兆2000億円となる見込み。
  • 金本氏 阪神監督に決定 球団要請を受諾 2015年10月19日 金本氏 阪神監督に決定 球団要請を受諾 プロ野球の阪神は10月17日、次期監督に就任を要請していたOBで野球評論家の金本知憲氏(47)から受諾の連絡があったと発表した。契約期間などは、19日以降の記者会見で明らかにされる見通し。 阪神は今季、セ・リーグで優勝争いを演じたが、シーズン最終盤に失速。3年ぶりに負け越しての3位に終わった。優勝の可能性が消えた直後の9月30日には就任4年目だった和田豊・前監督(53)の退任を発表。この直後から球団は、金本氏に絞り就任要請していた。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。