上杉謙信・・・仏道に帰依し信義に厚い家風をつくった越後の国主

 上杉謙信は、自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる、戦国時代の越後国の有力武将だ。室町幕府の重職、関東管領を務めるとともに、足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大、戦国大名・甲斐国の武田信玄とともに、同時代の武名を二分した。生没年は1530(享禄3)~1578年(天正6年)。

 上杉謙信は、越後守護代、長尾為景の四男(三男との説もある)として春日山城で生まれた。近世上杉家・米沢藩の祖。本姓は平姓、長尾氏。幼名は虎千代。初名は長尾景虎。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。後に関東管領、上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職、関東管領に任命された。また、後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて、最終的には上杉輝虎と名乗った。号は宗心。渾名は越後の虎、越後の龍、聖将、軍神。1570年(元亀元年)から不識庵(ふしきあん)謙信と名乗った。

 謙信は7歳で寺に預けられ、その年に父と死別、以後7年間みっちりと禅や武道を学んだとみられる。14歳のとき初陣、15歳で元服し景虎を名乗った。19歳で兄、晴景から家督を引き継ぎ、長尾景虎として名実ともに越後の国主となった。その後、24~34歳までの10年間に川中島の合戦を五回も繰り返し、ことに四回目の合戦では武田軍と凄まじい死闘を演じ、わずか半日で双方6000人近い死者を出し、それでも勝負がつかなかったという。

 このとき、武田の軍旗“風林火山”に対して、上杉軍が掲げたのが毘沙門天の“毘”と懸乱竜の“籠”の旗だ。これは毘沙門天に代わって世の中の邪悪な者を懲らしめる正義の軍であり、一度戦えば天から風を呼ぶ竜の如く雄々しく勇ましい軍であることを示したものといわれる。

 謙信は27歳のとき出家を志して高野山に登るが、臣下に思いとどまらせられ、40歳になったとき法号「謙信」を称した。そして45歳で剃髪、法印大和尚に任ぜられるまで常に仏道を修し、その後も49歳で病に倒れるまで、生涯その道を離れることはなかった。

 織田信長が岐阜を根拠地として京都を押さえ、畿内を平定し始めたころ、彼以上の実力を持つといわれる者が、少なくとも二人いた。上杉謙信と武田信玄だ。司馬遼太郎氏は、「信長はこの二人を宥めるために人間の知恵で考えられる限りの策謀と外交の手を打ち続けた。ときには卑屈窮まる言辞をも使った」と記している。文献によると、京にいた信長は謙信に対し、あなたが京へ上ろうとなさるのなら、この信長は京を出て、瀬田のあたりまでお出迎えして、御馬のくつわを取ります-とまでの態度を取ったほど。そのころの信長にとって、謙信はそれほどに大きな、超え難い存在だったのだ。

 そのうち、二強の一角、信玄が死に、謙信が残った。当時、謙信は300万石の経済力と日本での最強の軍団を持っていた。このころ信長は、狩野永徳の作と伝えられる「洛中洛外屏風図」六曲一双を謙信に贈っている。1574年(天正2年)のころのことだ。

 謙信亡き後、上杉家は景勝が国主のとき、豊臣政権のもとで会津に移封され大身となったが、「関ヶ原の戦い」で西軍につき辛酸を舐め、米沢の地で細々と徳川幕府に仕えたが、謙信を祖とするその信義に厚い家風は代々受け継がれた。

(参考資料)海音寺潮五郎「天と地と」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」