坂本龍馬・・・少年時代は劣等性 勝海舟と出会い開眼 第一級の人物に

 坂本龍馬は土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中・海援隊」の結成、「薩長連合」の斡旋、「大政奉還」の成立に尽力するなど、志士として目覚しい活躍をしたといわれる。しかし、龍馬は生前より、むしろ死後に有名になった人物だ。とりわけ司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』で、新たなヒーロー、龍馬像がつくり上げられたようで、それまでの龍馬研究者からは本来の龍馬とは遊離している部分もあるとの指摘も出ている。ここではできるだけつくられたヒーローではない、実像の龍馬を取り上げてみたい。龍馬の生没年は1836(天保6)~1867年(慶応3年)。

 龍馬は土佐20万石の城下、高知に生まれた。諱は直陰(なおかげ)、のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。本家は才谷屋といって、本町三丁目に広く門戸を張る豪商だった。才谷屋が城下へ出てきた頃は一介の商人に過ぎなかったが、富裕になるに従って郷士の株を買い、二本差しの身分となり、殿様の拝謁を受けるまでになった家筋だ。龍馬はその才谷屋から出た坂本八平の二男三女の子女の中の末子として生まれている。次男で末子ということも彼の活躍を自由にしたのだろう。

 龍馬の少年時代は、あまり芳しいものではない。12歳のとき、小高坂の楠山塾で学ぶが、「泣き虫」と呼ばれ、「寝小便たれ」とからかわれて、遂に抜刀騒ぎまで引き起こし、そのために退塾している。そんな少年龍馬を一所懸命に教え導いたのが、姉の乙女だった。この姉は世にありふれた女性とは異なり、「お仁王様」と呼ばれたほどの女で、学問より武芸のほうが好きだった。龍馬はこの姉を家庭教師に、世間一般の少年が学ぶ課程を終えたのだ。

この点、長州などの勤皇の志士らと随分違うことが分かる。吉田松陰はじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠など大体は難しい中国の典籍を読み、漢詩などもつくれるというのが相場。土佐勤王党の領袖、武市瑞山も単なる剣術使いではなかった。だが、龍馬にはそれがなかった。だから、少年時代を武張った稽古を中心に育った龍馬には、そうした学問に関する基礎的な知識は遂に身につかなかったのだ。

 龍馬が曲がりなりにも自信を持ってきたのは、学問や知識ではなく、剣道だった。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、彼はここで並ぶ者なき剣士として成長した。しかし、所詮は田舎でのものだ。そこで、1853年(嘉永6年)剣術修行のため江戸へ出て、北辰一刀流剣術開祖、千葉周作の弟、「小千葉」といわれた千葉定吉の道場(現在の東京都千代田区)に入門した。17歳のときのことだ。佐久間象山の私塾にも通い、砲術を学んでいる。この年は、ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航、世情が騒然としてきた時期でもあった。

 1854年(安政元年)、龍馬は高知に帰郷。画家で、学者としても知られていた河田小龍(しょうりょう)を訪ねた。小龍は1852年(嘉永5年)ころ高知へ帰ってきた中浜万次郎(ジョン万次郎)から米国の事情など世界認識の眼を大きく開いた人物だった。このとき龍馬は小龍から開国必然説と、後の海援隊につながるビジョンを説かれ、構想を膨らませていったのだ。

 1856年(安政3年)龍馬は再び江戸・小千葉道場に遊学。江戸で武市半平太(瑞山)らと知り合ったことが彼の運命を大きく変える。武市を指導者とする土佐勤王党の一員となるからだ。江戸で2年間の修行を終えた龍馬は北辰一刀流の免許皆伝を得て帰郷した。しかし、河田小龍に会って気付かされた大きな夢は、直面している現実とはかけ離れていた。そのため、龍馬は尊王・攘夷に凝り固まった人物たちとの交流を持つことにうんざりしたのだろう。彼の心は土佐勤王党とも離別、土佐という一国の地を離れて、もっと自由な境を求めて翔んでいたのかも知れない。

 1862年(文久2年)、龍馬は土佐藩を脱藩。千葉定吉の息子、重太郎の紹介で幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、勝海舟に面会して弟子となったのだ。龍馬が抱いてきた大きな夢が果たせるようになったのは、何といっても勝海舟との出会いだった。蒸気船で太平洋横断の壮挙を成し遂げ、米国に渡って使命を果たしてきた勝は、そのころ軍艦奉行並として第十四代将軍家茂の側近に仕えていた。すでに米国を見てきた男は、開国の思想を抱いていた。

 龍馬にとって勝は、日本第一の人物であり、天下無二の軍学者だった。驚くことにその勝に、少年時代“劣等生”に近かった龍馬は認められるのだ。剣術家・坂本龍馬は、いつのまにか世界の情勢にも明るく、軍艦操練の実際にも触れ、軍艦の運航にも詳しい知識人として頭角を現してくる。そして、幕末の政局を海の男として存分に闊歩するのだ。薩長の連合も、龍馬がいてこそ成立したものだ。さらに大政奉還の“大芝居”も龍馬が画策したのだ。こうした世間の意表を突くような大事件が次々に実行された背景には、龍馬の自由にして雄大な夢がいつもついて回っていたといえよう。

 龍馬になぜ、これほど大きなことができたのか。やはり、龍馬の陽気な性格、雄大な志、そして真っ直ぐな行動力を備えていたことに加え、勝海舟の門弟だったことが何より大きな要因だ。そして龍馬自身、海軍操練所の運営を任されるほどの成長を遂げていたからだ。勝が背後についていたからこそ、龍馬は西郷隆盛と会い、木戸孝允とも知り合うことができた。越前福井藩の松平春嶽や大久保一翁と言葉を交わすこともできたのだ。幕末における第一級の人物と、彼ほどに多く言葉を交わした男は少ないだろう。第一級の人物を相識(あいし)ることで、彼もいつのまにか第一級の人物と世間で認められるようになっていたのだ。

 龍馬は1867年(慶応3年)、京都河原町の寄宿先、醤油商・近江屋で来合わせていた中岡慎太郎とともに、京都見廻組-佐々木唯三郎一派に暗殺された。近江屋の主人、井口新助は龍馬が刺客に狙われているのを気遣い、裏庭の土蔵に密室をこしらえ、万一の場合には裏手の梯子を下りて、誓願寺の方へ逃れるよう準備していた。これは近江屋の家の者にも秘密としてあった。

ところが、不運にも遭難の当日、龍馬は前日から風邪気味で、裏庭の土蔵にいては用便などに不自由だからということで、主家の二階へ移っていたのだ。不便さを我慢して土蔵で会っていれば、中岡慎太郎ともどもこの危難に遭うことはなかったのではないか。龍馬は頭と背に重傷を受けて即死、中岡慎太郎は全身に11カ所に重軽傷を受けており、2日後、絶命した。

(参考資料)平尾道雄「坂本龍馬 海援隊始末記」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、安部龍太郎「血の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、宮地佐一郎「龍馬百話」、豊田穣「西郷従道」