徳川宗春・・・独自の藩“経営”ビジョンで将軍吉宗に目一杯反抗

 尾張藩七代目藩主・徳川宗春は、御三家の立場にありながら、「享保の改革」を断行した徳川幕府八代将軍・徳川吉宗に、目一杯反抗した稀有な藩主だ。そのため、吉宗の逆鱗に触れ、最終的に宗春は監禁され、死後、墓石にまで金網がかけられた。そして尾張藩藩祖の義直(家康の九男)の血筋は絶えて、吉宗の子孫が藩主になった。そうした事実をつなぎ合わせていくと、宗春には当然バカ殿のレッテルが張られ、愚かな主君だったと思われ勝ちだが、果たしてどうか?生没年は1696(元禄9年)~1764年(明和元年)。

 尾張藩藩祖・徳川義直は、二代将軍秀忠の三男・忠長が自害して、三代家光の長男・家綱が生まれるまでは、将軍後継候補No.1だった。また、六代将軍家宣は家継という実子があるにもかかわらず幼少だったため、尾張藩四代目の吉通に将軍位を譲ろうとしたほどだ。ところが、吉通は七代将軍になった家継より先に死んだので、八代将軍に経験豊かな紀州藩の吉宗がなってしまったという経緯があるのだ。それだけに、宗春には吉宗に対して様々に含むところがあったわけだ。

こうした背景もあって宗春は、幕府財政を立て直すためとはいえ、家財道具から衣服、それに祭礼などの行事、賭博や男女関係の乱れに対してまで、こと細かく藩士・領民に“強いる”だけの吉宗の倹約令に対抗。彼らを精一杯働かせるためには、ストレスを発散できる場や施策も必要と判断。吉宗の倹約令を無視して自らも範を示すべく贅沢な生活をし、藩士にもそれを許し、規制を緩和し、遊興も奨励した。

したがって、宗春は表面的にはバカ殿呼ばわりされるが、事実は違ったのだ。吉宗とは異なった、独自の藩経営ビジョンを持っていた藩主だったといってよい。その証拠に、彼は死刑の執行を停止するというユニークな政策も実行している。宗春の考え方を記したものに「温知政要」という本がある。この中で「慈」「忍」について説いている。これが彼の藩政を与かる根本の思想だった。この思想自体は当時、儒教を学んだ者が考え得るものだったかも知れないが、彼が他の人々と違っていたのは、この思想を人間尊重の最も深いところで捉えていたということだろう。

この結果、名古屋の町には倹約令にあえぐ三都から芸人や遊女たちが流れ込み、活況を呈した。名古屋が東京、大阪とは異なる、独自の気風を持ち、大消費都市として三都に続く存在になったのは、ひとえにこの宗春の時代の遺産なのだ。また、名古屋城の天守閣は、1657年に江戸城の寛永年間建造の天守閣が明暦の大火で焼亡してから、1931年に大阪城天守閣が鉄筋コンクリートで再現されるまで、274年もの間、日本最大の城郭建築だったのだ。

時の為政者(吉宗)からは完全に異端児と見做され、屈辱的とも思える“バカ殿”のレッテルを張られ、成敗の対象となった宗春だが、その実、お仕着せの政策を排除し、藩士・領民に極めて近い感覚を持った名君だったのかも知れない。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」
      奈良本辰也「叛骨の士道」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」