渋沢栄一・・・ 「一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし」

 これは渋沢栄一が生涯の信条とした家憲三則の「処世接物の綱領」の条のごく一部の言葉だ。主な部分を抜き出してみよう。

一. 凡そ一事を為し、一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし。瑣事(さじ)たりとても之をゆるかせ(おろそか)に付すべからず。
一. 富貴に驕るべからず、貧賤を患(うれ)うべからず、唯知識を磨き徳行を修め          
  て、真誠(まこと)の幸福を期すべし。
一. 口舌は禍福の因って生ずる処の門なり、故に片言隻語と雖も、必ずこれをみだりにすべからず。
一. 人に接するには必ず敬意を主とすべし、宴楽遊興の時と雖も、敬礼を失うこ          
  とあるべからず。
一. 益友を近づけ、損友を遠ざけ、苟(いやしく)もおのれにへつろう(諂う)者を友とすべからず。

 渋沢栄一は天保11年(1840)2月、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれた。本家では、当主は代々市郎右衛門と名乗った。父の市郎右衛門美雅は晩香と号するような雅人だったから、子供の教育には熱を入れた。物心がつくと栄一はこの父から孝経、小学、大学、中庸、そして論語を学んだ。7歳になると、父は栄一の従兄弟に当たる尾高惇忠という学者に学問を習わせた。惇忠は、福沢諭吉と同じように「士農工商」という身分制に激しい怒りを抱く、かなり激しい思想の持ち主で、単なる学者ではなかった。論語をテキストの中心に置いていたが、頼山陽の『日本外史』など日本の歴史に関する本も副読本として使っていた。

 栄一は24歳のとき、尾高惇忠と従兄弟の渋沢喜作とともに69人の同士を集め武装蜂起して「高崎城乗っ取り、横浜焼き打ち」の一大攘夷計画を企てる。が、幕吏の知るところとなり、計画は頓挫。彼は血洗島村を出奔、江戸に向かう。この後、彼は人生の大転換を迎える。一橋家の用人、平岡円四郎の勧めで攘夷論を捨てた栄一は、一橋慶喜の御用談下役として出仕するが、たちまち算勘の才を認められ一橋家の財務を預かる御勘定組頭となる。2年後の慶応2年(1866)一橋慶喜は徳川宗家を継ぎ十五代将軍に。家臣の栄一もまた幕臣となる。

翌年、慶喜の命を受けた栄一は、パリ万国博に向かう慶喜の弟、徳川昭武に随行して欧州各国を巡歴することになった。この西欧視察の旅で栄一は、攘夷思想の無意味さと、欧州の工業や経済制度の重要さを、嫌というほど思い知らされた。そして、これからの日本は「一に経済、二に経済」だと、経済の仕組みや金融制度、株式制度の知識の吸収に没頭する。こうして明治元年(1868)11月、徳川昭武一行は帰国。が、この間、日本は大きく変わっている。徳川幕府はすでに瓦解し、将軍慶喜は静岡の地で謹慎の身だった。

その静岡藩に勘定組頭として出仕した渋沢栄一は、わが国最初の「共力合本法(株式会社制度)」組織の商事会社、商法会所(取引所)を設立した。この成功がやがて明治新政府の知るところとなり、大蔵省に招かれた栄一は、租税正(局長クラス)として大蔵省の実力者、井上馨の右腕となって活躍する。が、政府内部の各省と意見が合わず、井上とともに辞職し、野に下った。以来、60年、合本主義の旗手として実業界に乗り出し「経営の指導者」「会社づくりの名人」として彼が果たした役割は極めて大きい。

第一国立銀行を設立し頭取となり、続いて国立銀行条例の改正、銀行集会所の設立、日本銀行の設立…。彼が着手した事業で成功しなかったものはないといわれたくらい、経営の世界における彼の洞察力と指導力は卓絶していた。渋沢栄一が関わった業種は500余り、日本の産業すべてが網羅されているといっても言い過ぎではない。
 
(参考資料)城山三郎「雄気堂々」、童門冬二「渋沢栄一 人間の礎」、神坂次郎「男 この言葉」