玄ホウ・・・橘諸兄政権の担い手として出世したが、やがて排除、左遷される

 玄ホウは奈良時代の法相宗の僧で、聖武天皇の信頼が篤く吉備真備とともに、橘諸兄政権の担い手として出世した。だが、彼の人格に対して人々の批判が多く、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、“君側の奸”として排除され、筑紫に左遷され、任地で没した。玄ホウの生年は不詳、没年は746年(天平18年)。

 玄ホウの俗姓は阿刀氏で阿刀阿加布の子。出家して義淵(ぎえん)に師事。717年(養老元年)、遣唐使に留学僧として随行。入唐して智周に法相を学んだ。在唐は18年に及び、その間当時の皇帝だった玄宗に才能を認められ、三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。18年後の735年(天平7年)、遣唐使に随って経論5000余巻の一切経、仏像などをもって吉備真備らと帰国。

 玄ホウは736年(天平8年)、封戸を与えられた。737年(天平9年)、僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し、仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母=皇太夫人・藤原宮子の病気を祈祷により回復させることに成功、賜物を受けた。これを機に聖武天皇の篤い信頼を得て、幸運にも吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世した。まさに異例のスピード出世だ。ただ、こんな玄ホウも人格的には問題があったようで、人々の批判も強かった。

そのため、740年(天平12年)には大宰少弐・藤原広嗣が上表して、時の政治の得失を論じ、この玄ホウと吉備真備の追放を言上した。そして翌年には反乱の兵を挙げた。「藤原広嗣の乱」だ。これにより西海道はにわかに戦場と化したが、ほどなく平定され、広嗣は捕らわれて処刑された。これによって、世情の批判をいったんはかわした形だった。玄ホウは741年(天平13年)千手経1000巻を書写供養している。玄ホウが得意の絶頂にあったのは、このころまでだった。

聖武天皇はこの頃、平城京を発ち恭仁京、紫香楽京、難波京と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返した。また、玄ホウの意見により諸国の国分寺の建立や、盧舎那仏の造顕の詔を発して、鎮護国家思想を体現したとされるが、天皇の情緒不安定は大きく、政治の方向を見失わせた。

 藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、玄ホウも天皇の側から徐々に遠ざけられるようになった。そして玄_にとって黙ってみていられない事態が起こる。745年(天平17年)、行基が前例のない大僧正に任じられたのだ。僧正である玄_の上位に、文字通り仏教界の最高職が設けられ、そこに行基が就いたわけだ。玄ホウのプライドは完全に潰されたてしまった。

そんな心穏やかではない玄ホウだったが、さらに追い討ちをかけられるように彼は、遂に筑紫観世音寺別当に左遷された。観世音寺とは、天智天皇が筑前で亡くなった母の斉明天皇のために飛鳥時代に造り始めた寺だが、80年経過したこのときでも、まだ完成のメドも立たない寺だった。左遷に伴って、玄ホウは朝廷から賜っていた封物も没収された。そして746年(天平18年)、任地で没した。亡くなったとき、741年(天平13年)、玄ホウと吉備真備を朝政から排除するよう言上し、大宰府で乱を起こしたが失敗し、失意のうちに処刑された藤原広嗣の怨霊に殺されたのではとの噂が立った。
 玄ホウの弟子に慈訓(じきん)、善珠(ぜんじゅ)らがいる。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」