第十三回 貝原益軒・・・ 『養生訓』は幸福な長寿を楽しむ人の大きな指標

 実証医学の祖といわれる貝原益軒。彼が今から300年ほど前、死の前年、実に84歳で書き著した『養生訓』は、高齢者問題が重大となってきた今日、幸福な長寿を楽しもうとする人々にとって、大きな指標となっている。

 『養生訓』には飲食物の食べ方、飲み方、体のいろいろな器官の働き、住まいや衣料のあり方、排泄から入浴の注意、病時の心得、医者の選び方、薬の飲み方、鍼灸の用い方から、高齢者や幼児の養い方に至るまで-今日でいう予防医学を内容として、心と体の安定法を懇切丁寧に説いている。

 とくに老年にある人の健康法として『養生訓』の多くの部分は、今日も役立つ。何よりも精神の平静を保つことに心がけること、日々楽しみを見つけて生きること、日常の起居に激動を避けながらも、体を動かすように努めること、大食しないこと、食事を淡白にすること、熱い湯には入らぬこと、少量の酒をたしなむこと、病気になってもいきなり薬をのまないこと-などは、多くの高齢者にあてはまる。

 益軒が『養生訓』を著した当時は、体は精神の奴隷みたいなもので、心さえしっかりしていればいいなどという考え方が横行した時代だ。そんな時代に益軒は一人の人間の命は大事である。絶対にこれが人間社会の基本である-といったわけだ。体を精神と同じレベルに持っていく。そして精神と体を一つにした、一人の人間の持って生まれた体を大事にして、どこまでも健康で長生きしていく。そして本当の幸福な老後というか、一生を送らなければならないという。益軒は人生の楽しみとして、健康と長生きと、人に気を使ったりしないで自由に生きること、この三つを挙げている。これが、いろいろな項目に分かれてかかれているのが『養生訓』なのだ。

 貝原益軒は江戸時代の本草学者、儒学者。筑前国(現在の福岡県)の福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれた。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。生没年は1630(寛永7年)~1714年(正徳4年)。

 福岡藩に仕えたが、二代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送る。三代藩主光之に赦される。藩費による京都留学で本草学や朱子学などを学ぶ。この頃、木下順庵、山崎闇斎、松永尺五らと交友を深める。帰藩後、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂した。

 益軒は幼少の頃から読書家で、非常に博識だった。ただし、書物だけにとらわれず、自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っていた。
 70歳で役を退き、著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』『和俗童子訓』『五常訓』。思想書の『大擬録』。紀行文には『和州巡覧記』がある。
 
(参考資料)貝原益軒/松田道雄訳「養生訓、」杉靖三郎「日本史探訪/国学と洋学」