藤原道長・・・「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

 これは天皇の后を三代続けてわが娘で独占した=“一家三后の栄”を実現した藤原道長が、自邸で開催された華やかな祝いの宴で、即興で詠んだといわれる有名な「望月の歌」だ。 幸せの絶頂期と思われるこの時期、53歳の道長はすでに当時の不治の病に冒されていたのだ。今日でいう「糖尿病」や心臓神経症などを患う身であった。さらに晩年には「白内障」と思われる病状にも襲われていた。

 奈良時代を代表する政治家が藤原鎌足-不比等の父子二人であったとすれば、平安時代を通しての第一人者は、その子孫、藤原道長だといっても異論はないだろう。ただ、その個性、あるいは人間性といった面ではかなりタイプが違う。新しい時代を自らの手で切り拓いていった前二者に比べ、平安朝の故実先例を尊ぶ時代の、道長の政治は受け身に終始した消極的な印象が強い。また、彼は身分の高い、年上の女性に好かれて出世の階段を昇った人でもあった。

 康保3年(966)、道長は後に摂政・関白となる藤原北家の主流、名門・藤原兼家の四男として生まれた。名門の出自だが、兄が三人(道隆・道兼・道綱)で、一族には他にも男子が多い。摂政・関白の独占は道長の後継者からで、この時点で尋常に考えれば、政権の座が道長に回ってくること自体、不可能なことだった。

 ところが長徳元年(995)、30歳の道長に将来を決定づける思いがけない異変が起こった。朝廷政治をあずかる公卿14人のうち、実に8人までが流行の麻疹にかかって、次々とこの世を去っていったのだ。この時、道長の兄三人も相次いで病死。政権を担う候補として、長兄で関白を務めていた道隆の子・伊周とともに、体力堅固な道長の存在がクローズアップされることとなる。道長は姉の詮子を後ろ楯として、伊周に打ち勝って右大臣の地位を得た。翌年7月左大臣となった道長は、一条-三条の二帝(66代、67代)の治世、あくまで最高行政官=左大臣としての地位を貫いていく。

 長保2年(1000)2月、道長は13歳になったばかりの長女・彰子を一条天皇の中宮として内裏へ送り込む。寛弘5年(1008)、彰子は待望の皇子・敦成親王を産む。3年後、一条帝が崩御し、三条帝が立つと、敦成親王は皇太子となった。道長はなお攻め手を緩めず、三条帝には次女の妍子を入内させる。孫の敦成親王を天皇とし、「みうち人」とすることで、権勢を名実ともに得ることが狙いだった。
三条帝との激しい攻防戦の末、遂に長和5年(1016)正月、三条帝は退位した。この時、孫で新帝となった後一条天皇(第68代)は9歳。道長は50歳となっていた。後一条天皇の即位から1年後、寛仁2年(1018)10月16日、道長の邸内で三番目の娘・威子が、天皇の「中宮」となったことを祝う宴が開催された。冒頭の歌はこの時のものだ。

道長は万寿4年(1027)12月、屋敷の隣に建立していた東大寺を凌ぐ規模の法成寺の阿弥陀堂の中で、その62年の生涯を閉じた。背中にできた腫れ物が悪化し、死ぬ直前までその痛さに苦しむ呻きの声が聞こえたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、永井路子「この世をば」