高 師直・・・足利尊氏の弟、直義と対立、引退に追い込み、幕政の実権握る

 高氏(こうし)はその系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋という関係にあった。師直(もろなお)はこのような名家の一族であり、後年、足利尊氏が幕府を開いてからは、並みいる守護大名も畏怖するような権勢を振るった。そして、こうした権勢をやっかんだ氏族たちが流布したものなのか、古典「太平記」や後世の創作などにより、師直は“悪逆非道”の烙印を押された人物として記されている。また、とくに天皇家の権威・権力を軽んじる傍若無人な人物としても記されたものがある。果たして、師直の実像は?

 高氏は公家の高階氏(たかしなし)の分かれで、成佐(なりすけ)という者の代に下野に土着して、武士への道をたどった。成佐の子は惟章(これあき)といったが、子供に恵まれず、八幡太郎義家の孫、惟頼(これより)を養子に迎え、家を継がせた。惟頼には何人かの兄弟がおり、そのうち義重は新田氏の、義康は足利氏のそれぞれ祖となっている。つまり、高氏はその系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋という関係にあったわけだ。
 鎌倉時代の高氏の動向ははっきりしないが、あるいは足利家と同格の御家人ではなかったかとも考えられている。足利家に臣従していたとしても、その地位は極めて高く、足利家の家宰(家老)職を占めていたようだ。いまひとつ足利家との近い関係を裏付けるものがある。足利家では尊氏の祖父家時が、子孫三代の間に天下が取れることを願い、置文(おきぶみ=遺言状)を残して自殺するという事件が起きており、その置文は師直の祖父師氏(もろうじ)に宛てられていたのだ。このことからみて、足利氏と高氏がかなり早い時期から単に親密であるという以上の特別な関係で結ばれていたことは、まず確実といっていい。

 高師直の生年不詳、没年は1351年(正平6年/観応2年)一般的に名字の「高」と諱の「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。高師重(もろしげ)の子として生まれた。別名は五郎右衛門尉(通称)、道常(号)。兄弟に高師泰がいる。足利尊氏の側近として鎌倉(幕府)討幕戦争に参加。1338年、尊氏が征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開くと将軍家の初代執事として絶大な権勢を振るった。

 室町幕府内部は将軍尊氏と、政務を取り仕切る直義(ただよし)の足利兄弟による二頭制となっていたため、やがて両者の間に利害対立が頻発。師直は直義と性格的に正反対だったこともあって直義との対立が次第に深まっていき幕府を二分する権力闘争に発展していく。やがて直義側近の上杉重能・畠山直宗らの讒言によって、執事職を解任された師直は師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃。さらに直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲して、尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求する抗争に発展した。尊氏の周旋によって和議を結んだものの、直義を出家させて引退へと追い込み、幕府内における直義ら反対勢力を一掃した。そして、直義の出家後、師直は将軍尊氏の嫡子、義詮を補佐して幕政の実権を握った。実質上、No.2に昇りつめたのだ。

 1350年(正平5年/観応元年)師直は直義の養子の足利直冬討伐のため尊氏とともに播磨へ出陣する。この際、直義は出家した身ながらウルトラCの奇策に出る。京を脱出して南朝に降参、南朝・直冬とともに師直誅伐を掲げて挙兵したのだ。あくまでも兄、尊氏・師直(北朝)に対抗する策だ。

そして1351年(正平6年/観応2年)、摂津国打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れた尊氏は、師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦する。これで師直vs直義の対決も収拾されたかにみえた。ところが、師直は摂津から京への護送中、待ち受けていた上杉能憲によって武庫川畔(現在の兵庫県伊丹市)において、師泰ら一族とともに処刑された。直義方に謀られたのだ。尊氏と直義兄弟の仲に割って入り、室町幕府の実権を握り、まさに権勢を振るった高師直も、源氏の貴種という“血”には勝てず、権勢をほしいままにし過ぎたためか、“悪逆非道”の人物というレッテルを張られ、あっけない末路となった。

(参考資料)百瀬明治「軍師の研究」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」