『I f 』⑫「島津斉彬が急死していなかったら」

『I f 』⑫「島津斉彬が急死していなかったら」
 幕末の薩摩藩主・島津斉彬は開明派の名君の一人で、西郷隆盛、大久保利
通ら幕末から明治維新にかけて活躍する人材を育てました。

薩摩藩を産業国家に改造すべくいち早く着手した島津斉彬
 ペリーが浦賀に来航したとき、彼は欧州の近代文明の根源が、この半世紀
前から起こった産業革命にあると見抜き、薩摩藩を産業国家に改造すべく手
をつけ始めたのです。
まず幕府に工作して巨船建造の禁制を解かせ、国許の桜島の有村と瀬戸村
に造船所をつくり、大型砲艦十二隻、蒸気船三隻の建造に取り掛かり、そ
のうちの一隻、昇平丸を幕府に献上しています。また、彼は藩政を刷新し
殖産興業を推進。城内に精錬所、磯御殿に反射炉、溶鉱炉などを持った
近代的工場「集成館」を設置しました。この集成館では大小砲銃、弾丸、
火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造していました。

最新鋭の軍事力を装備、将軍後継問題で一橋派を推した斉彬
斉彬は当時、薩摩藩に富国強兵策を導入、軍事力を整備。同藩は西南雄藩
の中でも最新鋭の軍事力を備えていました。海外列強が日本に開国を迫る
中、幕府内は病弱の第十三代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で紀州藩の
徳川慶福(よしとみ)を推す紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派とが朝廷を
も巻き込み対立していました。幕府の老中首座・阿部正弘と合議のうえ
斉彬は、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊
信、慶喜の実父・徳川斉昭らと強力に一橋派を推していました。斉彬は、
公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願していたともいわれます。

大老井伊直弼の裁断で紀州派が勝利し開明派が敗北
ところが、1857年(安政4年)老中・阿部が急死すると事態が大きく変わっ
ていきました。急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の裁断で紀州派
が勝利。大老・井伊はその地位を利用して強権を発動し、反対派(=一橋
派)の大弾圧を開始します。「安政の大獄」(1858年)です。
敗れた斉彬は、抗議のため藩兵5000人を率いて上洛することを計画してい
ました。海外列強が日本への攻勢を強めている状況下、もはや旧来の幕府
の御法優先の対応では早晩、日本が侵略されてしまいかねないという危機
意識の下に、斉彬は朝廷を動かし、幕府に揺さぶりをかける腹づもりだっ
たのです。そんな斉彬の計画に期待する諸大名も少なくなかったのです。
しかし、そんな期待はその直後、見事に裏切られてしまうことになりまし
た。悲劇的な結末が待っていました。

反転攻勢へ軍事行動の直前、変死した斉彬
斉彬は上洛を前に7月8日、炎天下、鹿児島城下で大軍事訓練を敢行。陣頭
指揮した場面もあったといわれています。いずれにしても、斉彬はその閲
兵中、にわかに体調を崩し発病。高熱や下痢が続き、重篤な状態が続いた
後、7月16日、あっけなく亡くなったのです。まさに不可解な死でした。
西郷や大久保ら、さらに側近、開明派の幕府方官僚たちをも含め、周囲を
悲嘆にくれさせる死でした。享年50(満49歳)。死因は、薩摩藩医の診断
ではコレラと記録されているようですが、毒殺説も囁かれました。
 とにかく、斉彬にこのまま軍事行動されては困る幕府側の“闇”の力が働
いたのではないか。あるいは幕府の強い意思・意向を受けた勢力が、密かに
斉彬の抹殺に動いたとも考えられるのです。それほど、幕府側にとって斉彬
は、影響力の大きい怖い存在だったのです。また、斉彬にこのまま藩を委ね
たら、薩摩藩の行く末が危ういと考えた藩内部の保守勢力が、斉彬の上洛を
阻止するために毒殺したとの見方もあります。

斉彬健在なら、その後の幕末史はかなり変わっていた
 もし、この危機を乗り越えて斉彬が健在なら、その後の幕末史はかなり変
わったものになっていたのではないでしょうか。斉彬が藩兵5000人を率いて
上洛、大デモンストレーションを敢行していたら、合流する藩や脱藩志士た
ちが加わり、反幕勢力となっていた可能性があります。これに朝廷の意向が
乗ってしまうと、幕府にとっては大きなプレッシャーとなって、早晩、幕府
が瓦解に向かっていたかも知れません。一気にそこまでいかなくても、幕閣
が弱腰の対応に変わっていたことは十分考えられます。