角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商
 京都市を北から南へ流れる鴨川。これと平行に、その少し西を走る細い1本の運河がある。森鷗外の「高瀬舟」で知られる高瀬川だ。今は高瀬舟の影もないが、鷗外が記したこの高瀬川は370年の昔、河川開鑿に賭けた一人の京都の大商人によって造られた。角倉了以だ。彼は戦国末期から江戸初期に生きた大事業家だが、大堰川(桂川)、富士川、天竜川など、とくに日本の水運に力を尽くした人だ。
 角倉家はもともと吉田姓をとなえ、室町幕府に医師として仕えていた。この一族が発展する貨幣経済の先端、土倉(一種の金融業)として巨大になるのは、了以の祖父、宗忠の代である。角倉家には二つのはっきりした異質の血が流れている。一つは医者としての、もう一つは代々、土倉業を行ってきた商人としての血だ。医師としての家系は、了以の弟、宗恂に伝えられ、彼は医術をもって徳川家康から禄を受けている。了以は実業家、企業家としての血が、非常に色濃く流れていた
 了以が京都の高瀬川を開き「高瀬舟」を走らせるのには、実は他で見た情景がヒントになっており、彼のオリジナルではない。彼が交易品の調達のため倉敷を訪れその際、親戚を伴って岡山に遊びに行った。陽気のいい時期だったので、親戚は彼を近くの高梁川の水遊びに誘った。そこで彼は乗った船の脇を底の浅い船がしきりに行き交いするのを見た。それが、海や平野部の品物を山に運び、山から山の産品を積み下ろしてくる「高瀬舟」だと知る。これが彼に転機を与えた。
 二条で樋口を設け鴨川の水を取り、九条で鴨川を横切り、伏見で淀川に接するという大工事を数期に分けて、“高瀬川開鑿プロジェクト”を計画した。全長10㌔、川幅8㍍、舟入れ9カ所、舟回敷2カ所、工費7万5000両という大工事が完成したのは、慶長19年秋である。この完成によって、大坂から伏見まで三十石船で運ばれた物資は、伏見で高瀬舟に積み替えられ、京の市中に運ばれた。この運河ができたことにより、京都の経済はこれまで以上に潤うことになった。
 上りの高瀬舟を引く綱引きのホイホイという掛け声が、明治の頃まで両岸数㌔にわたり聞こえた。その高瀬舟159艘。運賃は1回2貫500文。うち1貫文は幕府に、250文は船加工代に、残り1貫250文が角倉家に入った。この開通により京の物価が下がったという。
 角倉了以の仕事の特色は公共性の強い土木や海運、異国交易、河川の開鑿だ。そのうえ了以の性格もあって、自ら陣頭に立って仕事の指揮をした。ただ、ここで忘れてはならないのが、息子の角倉与一(素庵と号す)の存在だ。了以と素庵との仲は、年が17歳しか離れていないこともあって、半ば兄弟のような関係だった。家業の中での役割分担で一番重要なことは、幕府との折衝だった。朱印状や河川開鑿許可など外交的な折衝はすべて素庵の仕事だった。だから了以がやった偉大な事業のほとんどが、この親子の共同事業といっていい。
 了以は宇治・琵琶湖間の疎水計画を幕府に願い出た。これは琵琶湖・宇治川間に運河を引くだけでなく、これにより琵琶湖の水位を下げ、6万石ないし20万石の上田を作るという雄大な計画だった。家康も承諾したが、彼はそれを知ることなく、慶長19年(1614)7月12日、世を去った。

(参考資料)日本史探訪/江戸期の豪商「角倉了以 高瀬川を開いた京の豪商」(辻邦生・原田伴彦)、童門冬二「江戸のビジネス感覚」、童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、邦光史郎「物語 海の日本史 角倉了以・素庵父子」