聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

 聖武天皇を「悲劇の貴人」として取り上げることに、少し違和感を抱かれる人もあるかも知れない。何しろ当時、権勢を誇った藤原氏に引きずられることが多く、結果として時の朝廷の首班・長屋王さえ葬る片棒を担いだくらいだ。その意味では“暗愚の帝王”と評してもいいのかも知れない。ただ、この天皇は哀れにも「藤三娘(とうさんろう)」を名乗る妻・光明皇后に頭が上がらず、裏切られても家出をすることでしか、妻の不倫を咎めることができなかったのだ。しかし、家出したのがただの人ではなく天皇だったので、それは目まぐるしい「遷都」ということで後世、語られることになった。人騒がせだが、その実、現実からの逃避でしか、癒やしや救いを求めることもできない、悲しい生涯を送った人物といえよう。聖武天皇の生没年は701(大宝元)~756年(天平勝宝元年)。

 聖武天皇は、文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘(養女)、宮子(藤原夫人、ぶにん)。名は首(おびと)皇子。714年(和銅7年)に立太子し、716年(霊亀2年)不比等と橘三千代との間に生まれた安宿媛(あすかひめ、光明子)を妻とした。驚くべき近親結婚ということだ。それだけに、藤原氏に丸抱えにされていた境遇というものがよく分かる。ただ、妻を娶ってもまだ即位は時期尚早と判断され、立太子から10年間皇位に就かず、その間、元明・元正の二女帝が在位した。そして724年(神亀元年)、首皇子は元正天皇から禅譲され大極殿で即位した。

 聖武天皇が即位してまもなく直面したのが藤原宮子大夫人称号事件だ。これは天皇が勅して藤原夫人を尊び、「大夫人(だいぶにん)」の称号を賦与することとした。ところが左大臣、長屋王らが公式令(くしきりょう)をタテに、それは本来、「皇太夫人(こうたいぶにん)」と称することになっているはずと問題視する奏言を行ったのだ。そこで、天皇は仕方なく文書に記すときは皇太夫人とし、口頭の場合は大御祖(おおみおや)とする旨を詔した事件だ。この事件が当時、天皇と藤原氏に対抗していた長屋王らの勢力との間での、遺恨を産むきっかけとなったことは確かで、後の「長屋王の変」(1729年)の伏線となった。

 聖武天皇の即位に際して左大臣に任命された長屋王は、天皇を支える藤原氏にとって侮り難い存在だった。加えて、天皇自身が統治に十分な自信をもっていなかったことも政情不安の大きな要因となり、藤原氏勢力の焦りを誘っていたとみられる。『続日本紀』によると、727年(神亀4年)、天皇が詔して百官を集め、長屋王が勅を述べるところによると、「この頃天の咎めのしるしか、災異がやまない。政が道理に背理し民心が愁いをもつようになると、天地の神々がこれを責め鬼神が異状を示す。朕に徳が欠けているためか」とあるのだ。天皇自身が認識していたのだ。

 「長屋王の変」の首謀者は藤原氏だったが、聖武天皇もこの計画の賛成者だったに違いない。天皇が賛成しなかったら、舎人親王以下の皇族が積極的に参加しなかったろう。では、聖武天皇はなぜ賛成したか。この点、梅原猛氏は「(母親の宮子が)海人の娘の子としての彼(聖武天皇)のコンプレックスにあったと思う」と『海人と天皇』に記している。天武天皇の長男であり、「壬申の乱」での戦功著しいものがあった高市皇子を父に、天智天皇の皇女、御名部皇女を母に持つ長屋王がそれに気付かなかったとしても、長屋王に対する血脈のコンプレックスが厳然としてあり、「聖武天皇にはどこかで心の奥深く長屋王に傷つけられた自尊心の記憶が数多くあったに違いない」と梅原氏。

 讒言で、長屋王を死に追い込んだ後も、災害や異変が発生し、また疫病も流行。737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いでこの流行病、天然痘で亡くなったことが、聖武天皇および光明皇后を困惑させた。そして、唐より帰朝した玄●(昉、ボウ、日へんに方、以下同)を通じて、天皇は次第に仏教への帰依を強めていった。そこで、一応、光明皇后の異父兄・橘諸兄を右大臣に就けたものの、諸兄は実務的政治能力に欠け、政治の実権は天皇や皇后の信任の厚い、留学帰りの玄●(ボウ)と下道真備(しもつみちのまきび、後の吉備真備)にあった。

 740年(天平12年)、大宰少弐・藤原広嗣が時の政治の得失を論じ、玄●(ボウ)と吉備真備の追放を言上して、反乱の兵を挙げた。天皇は大野東人(おおのあずまひと)を大将軍にして討伐軍を九州に送り込んだが、九州で激しい戦闘が繰り広げられている最中、聖武天皇は平城京を捨て、伊勢へ出かけてしまう。この後、天皇はそのまま平城京に戻らず、山背(やましろ、山城)国相楽郡恭仁(くに)郷(現在の京都府相楽郡)に遷都することを命じ、恭仁京をつくらせている。この後、さらに紫香楽宮、難波宮と短期間に何度も都を変えており、この異常な行動が何のためなのか分からない部分が多い。

 正史『続日本紀』にははっきり記されていないが、後世の史書には、このとき玄●(ボウ)と光明皇后との間にスキャンダルがあったことが記されている。とすれば、藤原広嗣は暗に「あなたの奥さんは不倫をしているが、それでいいのですか」と責めているわけだ。そして、それに対する聖武天皇の答えが、都からの逃亡なのだ。妻の不倫を告げられて家出するほど、なぜ弱腰なのか。

  道成寺に伝わる伝承によれば、聖武天皇の母、宮子は道成寺のある紀伊国日高郡の九海士(くあま)の里の海人の娘だった。だが、その稀代の美貌に目をつけた藤原不比等は、彼女を養女にし、文武帝の妃とした。そして、宮子は首皇子、後の聖武天皇を産んだ。しかし、故郷を思う宮子の憂愁は深く、それを慰めるために道成寺は建てられたという。つまり、聖武天皇は本来、藤原氏の血を受けていない人物と考えると、妻の光明皇后に頭が上がらず、長屋王に抱いた強いコンプレックスの謎が解けてくるのだ。

 聖武天皇は奈良・東大寺に巨大な毘廬遮那仏をつくり上げることで、ようやく不安を癒やすことができ、都は無事、元の平城京に戻ったのだ。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇 日本とは何か」、梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」