後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

 日本では、古代には6人8代(推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称徳)の女帝が在位したが、江戸時代に入っても2人の女帝が誕生した。一人は徳川将軍家を外戚に持った第百九代・明正天皇であり、もう一人がここに取り上げた第百十七代・後桜町(ごさくらまち)天皇だ。この後桜町女帝は当初、中継ぎとして即位した。だが、後事を託した天皇が若くして崩じたため、結局2代にわたる幼帝の即位を受けて、上皇となっていたこの女帝が、院にあって表舞台に立って王権を支えた。後桜町天皇の生没年は1740(天文5)~1813年(文化10年)。在位は1762(宝暦12)~1771年(明和7年)。

    後桜町天皇は百十五代・桜町天皇の第二皇女。幼名は以茶宮(いさのみや)、緋宮(あけのみや)、諱(いみな)は智子(としこ)。母は関白左大臣・二条吉忠の娘で、桜町女御天皇女御の藤原舎子(青綺門院)。姉に早世した盛子内親王、異母弟に第百十六代・桃園天皇がいる。1762年、後桜町天皇は異母弟の桃園天皇が22歳の若さで崩じ、残された皇子たちも5歳と3歳と幼すぎるため、中継ぎとして即位した。女帝23歳のときのことだ。女帝と第百十六代・桃園天皇の父、第百十五代・桜町天皇がすでに崩御していたため、即位と同時に、幕府の存在により限られた王権ではあるものの、奈良時代の称徳天皇以来の朝廷の主である女帝が誕生することになった。

    ちなみに、徳川三代将軍家光の時代に、家光の妹・東福門院和子の娘、明正天皇が即位している。ただ、この女帝は朝廷と幕府の関係を改善させるという重要な狙いがあったものの、父帝の後水尾(ごみずのを)天皇が上皇として院政を執っていたため、明正天皇自身が朝廷の主となることはなかった。

    こうして即位した後桜町天皇は、中継ぎの女帝として皇嗣の甥の英仁親王の教育に大変熱心で、政務においても大事に際しては摂政に自らの意見を示して、再考を求めることもあったといわれる。1770年、すでに2年前に立太子していた英仁親王(13歳)に譲位して上皇となり、女帝の中継ぎとしての役割は無事終えるはずだった。

    ところが、甥の後桃園天皇が1779年、不幸にも父帝と同じ22歳の若さで崩じてしまった。しかも、後桃園天皇の遺児が1歳にもならない欣子内親王のみで、後桃園天皇の弟皇子は7年前に早世していることから、当時の正統とされた皇統、第百十四代・中御門天皇の血統の男子は途絶える事態となってしまったのだ。そのため、上皇となっていたこの女帝が再び表舞台に立たなければならなくなった。

   後桜町上皇は、桃園天皇の女御で後桃園天皇の皇太后の一条富子と協議し、上皇の従弟の閑院宮家の祐宮を選び、この傍系からの継承という弱い立場にある天皇の基盤を強めるため、祐宮を後桃園天皇の女御の近衛維子の養子とし、後には後桃園天皇の遺児で皇統の継承者の欣子内親王を立后させ中宮とした。このとき即位させた祐宮が現在の皇統の祖となる光格天皇だ。光格天皇は朝権再興の中核となる英明な君主といわれているが、その天皇を即位させ、育て上げた人こそ後桜町上皇だった。

    女帝の誕生は多くの場合、皇位継承予定者が幼年のため、直ちに即位できないといった事情が存在し、いわば“中継ぎ”的な意味で女帝(中天皇=なかつすめらみこと)が即位して皇位継承予定者の成長を待つケースが多い。明治以降は戦前の旧皇室典範と戦後の現皇室典範において、皇位継承資格者は男系の男子に限定されたことから、女帝が即位する可能性は失われており、この後桜町天皇がいまのところ最後の女帝ということになっている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」