大阪 本町橋・松竹座の資料発見 戦前の上方寄席

大阪 本町橋・松竹座の資料発見 戦前の上方落語

戦前、大阪・生國魂(いくくにたま)神社の分社・御旅所(おたびしょ)=大阪市中央区本町橋=境内にあった寄席「松竹座」の建築許可証や見取り図が、経営者の遺品から見つかった。
当時、大阪の中心部には二十数軒の寄席があったとされるが、その多くは太平洋戦争の空襲で罹災(りさい)しており、専門家は「当時の寄席の見取り図は大変珍しい。全体像がよく分かる貴重な資料」と話している。
松竹座は1911(明治44)年開場。経営者の飯沼梅吉さんと妻タケさんの名前が「松竹梅」にちなむことから命名した。見つかったのは「建築許可証」(大正10年大阪府発行)や「興行場検査証」(大正11年同)と、それぞれに添付された見取り図。「検査証」によると、戦況が悪化した昭和19年、「大阪府貨物自動車運送事業組合」に貸与され、同20年の空襲で焼失した。
見取り図などによると、2階建てで総面積約200平方㍍。1階中央は「平場(ひらば)」と呼ばれる畳席で79人収容。ほかに1階左右と2階正面、左右に桟敷席があり、計187人収容した。