大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 東大阪・司馬記念館で吉田松陰と高杉晋作の歩み紹介 2015年5月20日 東大阪・司馬記念館で吉田松陰と高杉晋作の歩み紹介 東大阪市下小阪3の司馬遼太郎記念館で5月19日、企画展「『世に棲む日日』-吉田松陰と高杉晋作」が始まった。10月25日まで。「世に棲む日日」は吉田松陰と後継者の高杉晋作の生涯を、司馬遼太郎が描いた小説。上村洋行館長は「幕末の動乱期のエネルギーがいかにして起こり、明治維新を迎えたのかを感じてもらえたら」と話している。入館料は大人500円、中高生300円、小学生200円。午前10時~午後5時。月曜休館(休日の場合は翌日が休館)。
  • 橋下市長「総合区」設置に向け自公・市議団と一致 2015年5月20日 橋下市長「総合区」設置に向け自公・市議団と一致 「大阪都構想」否決を受け、大阪市の橋下徹市長は5月19日、自民、公明両党の大阪市議団幹部と市役所内でそれぞれ会談し、政令市のまま区の権限を強化する「総合区」の設置に向けて検討を始めることで一致した。総合区制度は都構想への対案として両市議団が提案していたもので、橋下市長が両党に歩み寄った形だ。 総合区は2016年4月施行の改正地方自治法に基づき、政令市に置くことができる。行政区に替わるもので、総合区長(任期4年)は副市長のように議会の同意を得た特別職の職員が就く。総合区長には、一定の予算編成について市長に意見を述べる予算提案権も付与される。 自民党市議団は16年4月にモデルとして2区、最終的には11区を総合区とする案を示しており、今秋をめどに政策提言をまとめる予定だ。公明党も24区を人口20万人規模の総合区に再編する案を検討している。
  • 大阪地区百貨店売上高4月18.3%増 2カ月ぶりプラス 2015年5月20日 大阪地区百貨店売上高4月18.3%増 2カ月ぶりプラス 日本百貨店協会が5月19日発表した4月の大阪地区の百貨店売上高は、前年同月比18.3%増の601億円と2カ月ぶりプラスとなった。前年の4月は消費税増税の影響で大きく落ち込んだが、花見を目的にした訪日外国人客の増加で大幅に売り上げを伸ばした。商品別では、高額商品の美術・宝飾・貴金属が92.1%増、化粧品64.0%増、高級ブランドバッグなど身の回り品も27.5%増と好調。食料品も1.9%増と8カ月ぶりにプラスに転じた。神戸地区は12.7%増の119億円、京都地区は11.1%増の197億円だった。
  • 4月近畿マンション販売2.7%減 4カ月ぶり前年下回る 2015年5月19日 4月近畿マンション販売2.7%減 4カ月ぶり前年下回る 不動産経済研究所が5月18日発表した近畿2府4県の4月のマンション発売戸数は前年同月比2.7%減の1189戸で、4カ月ぶりに前年を下回った。1平方㍍当たりの価格が11.2%上昇し、購入が控えられるとの予想から業者が販売戸数を絞ったとみられる。単価上昇の背景には、人手不足による人件費の高騰がある。 一方、近畿全体の契約率は74.2%と好調を維持しており、担当者は「消費者の購入意欲は落ち込んでいない」と分析している。地域別の発売戸数は、大阪市が3.3%増の407戸、神戸市が81.3%増の243戸、京都市が87.9%減の43戸だった。
  • 「改革加速し、大阪発展へ具体策を」関西財界が注文 2015年5月19日 「改革加速し、大阪発展へ具体策を」関西財界が注文 住民投票での「大阪都構想」否決を受け、大阪商工会議所、関西経済同友会など関西財界は5月17日、コメントを発表した。大阪商工会議所の佐藤茂雄会頭は「大阪の統治機構については、現状維持との市民の判断が下された。賛成派、反対派がノーサイドで結束し、大阪の成長戦略に取り組むとともに、必要な改革は加速させていかなければならない」とのコメントを出した。「新生『大大阪』の発展に向け、ビジョンと政策を行政、市民、経済界が共有し、全員参加で具体策を力強く推進することが重要」として協力を表明した。 関西経済同友会の村尾和俊代表幹事は「大阪府市が抱える諸問題への対処として、特別区の設置という方策を採らないとの民意が示された。今後こうした民意を踏まえたうえで、課題解決に向けた行政運営が行われなければならない」との声明を出した。また、「大阪の成長戦略の推進と関西全体の活性化をけん引する大阪の将来像を明確に描くことが重要であり、今回の選択が次世代の成長に資するものとなるよう取り組んでいただきたい」と求めた。
  • クルーズ船で活性化を 東横堀川に初の船着場 2015年5月18日 クルーズ船で活性化を 東横堀川に初の船着場 大阪中心部を流れる東横堀川に「本町橋船着場」が完成し5月16日、現地で開設記念式典が開かれた。東横堀川としては初めての船着場。 水の都といわれる大阪中心部では、川を巡る定期クルーズ船が人気を集めているが、これまで東横堀川には船着場がなかった。そこで、大阪商工会議所が大阪市に設置を要望。市が建設した。市営地下鉄堺筋本町駅の近くで、オフィスビルや飲食店が建ち並ぶ一角。小型船を停泊させることで、周辺の活性化に期待がかかっている。 本町橋は大正2年に完成。大商の佐藤会頭は「大阪の歴史文化を発掘し、古いものをよみがえらせることが課題だった。大阪最古の現役橋『本町橋』の横に設置された船着場は、いい先行事例になったと思う」と話している。
  • 豊能町で田植え体験 60人が泥んこで汗 2015年5月18日 豊能町で田植え体験 60人が泥んこで汗 楽しみながら農業の大切さを学ぶイベント「田んぼでお米づくり体験」が5月16日、豊能町高山の遊休農地を活用した体験型農園「悠遊ファーム」で行われた。この体験イベントには大阪市はじめ、北摂地域、兵庫県西宮市などから、約60人の家族連れが田植え作業に汗を流した。17日も行われる。同農園は農機・建機メーカーのヤンマー(大阪市北区)が、遊休農地の再利用を促進する府や豊能町と連携して整備、2012年に開園した。
  • 都構想 住民投票で否決 1万票差 橋下氏「政界引退」 2015年5月18日 都構想 住民投票で否決 1万票差 橋下氏「政界引退」 大阪市を廃止し、5つの特別区に分割・再編する「大阪都構想」の賛否を問う住民投票は5月17日、投開票された。反対が70万5585票で、賛成の69万4844票をわずかに上回り、都構想は否決された。これにより、廃止されるかどうかで揺れた大阪市は存続することになった。紆余曲折を経て直接民主制である住民投票にまでこぎつけたが、最後の舞台で敗北した。 これを受け、5年がかりで都構想を推進してきた橋下徹大阪市長(45)は記者会見で「市長の任期まではやるが、それ以降は政治家はやらない」と述べ、12月の任期満了で政界を引退する考えを表明した。住民投票の投票率は66.83%だった。
  • 一層の普及へ 高槻の精神障害者のフットサル関係者 2015年5月17日 一層の普及へ 高槻の精神障害者のフットサル関係者 全国に広がりをみせる精神障害者のフットサル。最初のチームは2006年、大阪府高槻市に発足した。それが「YARIMASSE大阪」だ。同チームは昨年、24チームが参加した全国大会で3位に食い込んだ。ただこのフットサル、競技人口は増えているが、全国障害者スポーツ大会の正式種目にはなっていない。YARIMASSE大阪のスタッフ、関係者らは競技人口や大会運営スタッフなど地盤充実に向け、一層の普及を目指している。
  • あべのハルカス来場者 予想より半年早く300万人突破 2015年5月17日 あべのハルカス来場者 予想より半年早く300万人突破 高さ300㍍と日本一高い「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)の展望台「ハルカス300」の来場者が5月16日午前、300万人を突破した。2014年3月7日のオープン当初は15年末の達成を見込んでいたが、大阪の新名所として国内外から多くの観光客を集め、予想より半年早い1年2カ月余りで達成した。 300万人目は、家族6人と訪れた堺市の会社員、上松弘幸さん(37)。上松さんには展望台に何度でも無料で上れる特別パスなどが贈られた。展望台は最上階層(58~60階)にあり、天気が良ければ京都や六甲山まで一望できる。
  • 全国からグルメ130店集結し万博公園で「うまいもん市」 2015年5月16日 全国からグルメ130店集結し万博公園で「うまいもん市」 全国のグルメが集まる食のイベント「うまいもん市 in 万博2015」(北おおさか信用金庫、大阪彩都総合研究所主催)が5月15日、大阪府吹田市の万博記念公園「お祭り広場」で始まり、来場者らは”ご当地グルメ”を堪能した。同イベントは16日まで。 「高槻バーガー」や「箕面ソーセージ」など北大阪のグルメのほか、焼きイカを丸ごと乗せた兵庫県の「香住イカ焼きそば」や宮崎県の「宮崎肉巻きおにぎり」など全国から約130店が終結した。特設ステージでは、なにわジャズ大賞スペシャルユニットの演奏もあった。
  • 訪日外国人観光客活況で関西私鉄4社増益を確保 2015年5月16日 訪日外国人観光客活況で関西私鉄4社増益を確保 関西の大手私鉄4社の2015年3月期連結決算が5月15日、出そろった。急増する訪日外国人観光客らの鉄道やホテルなどの利用が好調に推移し、消費税増税に伴う定期券の駆け込み購入の反動で収入が減る中でも、全社が増益を確保した。 近鉄グループHDは売上高1兆2337億円(前年同期比1.0%減)、営業利益564億円(同3.3%増)、阪急阪神HDは売上高6859億円(同1.0%増)、営業利益940億円(同2.4%増)、京阪電気鉄道は売上高2949億円(同2.0%増)、営業利益294億円(同17.4%増)、南海電気鉄道は売上高2109億円(同6.8%増)、営業利益281億円(同21.9%増)。
  • 勢い増す期日前投票26.7万人 有権者の1割強 2015年5月15日 勢い増す期日前投票26.7万人 有権者の1割強 「大阪都構想」の賛否を問う住民投票で、期日前投票者数の伸びが勢いを増している。投票率が40年ぶりに60%を超えた2011年の大阪府知事・大阪市長ダブル選の期日前投票者数をすでに上回った。5月14日までの期日前投票者数は26万7404人に上り、有権者約211万人の1割以上が投票を済ませている。 周知のとおり、今回の住民投票は投票率にかかわらず、結果に法的拘束力がある。大阪の将来に大きく関わる”審判”まであと2日。
  • 遠藤湖舟さんの「ゆらぎ」シリーズが話題に 2015年5月15日 遠藤湖舟さんの「ゆらぎ」シリーズが話題に 大阪市中央区の大阪高島屋で開かれている遠藤湖舟さんの写真展「天空の美、地上の美。」で、道頓堀の水面に揺らぐ大阪・ミナミのネオンを映した不思議な作品が話題を呼んでいる。「Yuragi(ゆらぎ)-1504210089-Tonbori(とんぼり)」はミナミの顔・グリコの看板を題材にした。「ゆらぎ」シリーズは水上の光を捕らえ、空や星など身近な「美」を独自の感性で切り取る遠藤さんの人気シリーズ。18日まで。
  • 新代表幹事に蔭山氏を選出 関西経済同友会 2015年5月15日 新代表幹事に蔭山氏を選出 関西経済同友会 関西経済同友会は5月14日、大阪市内で総会を開き、新しい代表幹事に蔭山秀一・三井住友銀行副会長(58)を正式に選出した。関西経済同友会の代表幹事は2人体制で、蔭山氏は昨年就任した村尾和俊・NTT西日本社長(62)とコンビを組み、関西経済の活性化に取り組む。蔭山氏は①関西経済の活性化②各地の経済団体と連携③会員の満足度の向上–の3つを自身のテーマに掲げた。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。