「奇人・怪人伝」カテゴリーアーカイブ

蘇我馬子・・・日本古代史・最大の権力者で、大和政権の実権を掌握

 日本の古代史で、まさに“怪人”と評され、巨大な権力を持ち“悪役”の烙印を押された人がいる。それは蘇我馬子だ。彼は権力への妄執に取り憑かれ、目的のために手段を選ばず、政敵ばかりか天皇まで暗殺した。そして傀儡の天皇を操り大和政権の実権を掌握。息子の蝦夷、そのまた子の入鹿まで蘇我氏は三代にわたって、その権力は受け継がれた。確かに馬子が手中にした権力は強大だった。そのことは飛鳥寺、石舞台古墳など馬子が残した史跡からもうかがえる。

また、聖徳太子を重用し、四天王寺や法隆寺の創建を通じて日本の仏教伝来を主導したのも彼だ。後世の評判はともかく、馬子が日本の古代史で決定的な役割を果たした人物なのは間違いない。まさに怪人と呼ばれる所以だ

 蘇我馬子を悪役とする歴史観は、「日本書紀」に基づいたものだ。「古事記」「日本書紀」には潤色が加えられており、すべてを事実とは見做せない。馬子の実像も近年、従来とは異なる様々な見解が提唱されている。

 蘇我馬子は572年(敏達天皇元年)、大臣(おおおみ)に就き以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛を築いた。父は稲目。姉に堅塩媛(きたしひめ、欽明天皇妃)、妹に小姉君(おあねのきみ、欽明天皇妃)、子に刀自古郎女(聖徳太子妃)、蝦夷、河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)などがいる。伝えられる馬子の生没年は551年(欽明天皇13年)~626年(推古天皇34年)だが、定かではない。

 馬子には様々な事績があるが、大きなものの一つは父、稲目と同様、日本における仏教の興隆に力を注いだことだ。百済の工人に飛鳥寺を建立させた。また、渡来人である善信尼を百済に派遣して仏教を学ばせている。善信尼は、日本で最初の尼僧となった人物だ。

このほか、聖徳太子の優れた事績となっているものの中に、馬子こそがその主体者ではなかったかと指摘されているものも少なくない。あるいは、聖徳太子のよき理解者としての馬子がいたからこそ、太子はあれだけの、様々な改革を推し進めることができたのだとみる向きもあるのだ。

 ただ、馬子は大臣として54年もの長きにわたり権勢を振るっただけに、最高権力者としての“驕り”の場面も数多かった。馬子にとっては大王=天皇も特別、畏怖しなければならない存在ではなかった。東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使っての崇峻天皇暗殺が好例であり、天皇選びの際は、有力豪族も馬子の顔色をうかがいながらしか、意見が言えない状態だったようだ。まさに、馬子は王権を無視し、政治をほしいままにしていたのだ。こうした状況が蝦夷、入鹿と三代続いたわけで、その報復として後世、蘇我氏が“悪役”に仕立て上げられた最大の要因がここにあるのではないか。
古代史で強大な権力を誇った蘇我氏だが、そもそもそのルーツが定かではない。蘇我の名に渡来人である証拠が隠されているという説があるその論者の一人が作家の松本清張氏だ。朝鮮の史書「三国遺事」によると、かつて新羅は「徐伐(そぼる)」と呼ばれたことがあった。徐(ソ)は、蘇の音に連なる。伐と我は1画しか違わず、極めてよく似ている。したがって、蘇我は徐伐が転じた名ではないかというわけだ。

さらに渡来人説に立ちながら、馬子こそ当時の天皇だったとする見方もある。馬子天皇説はまず渡来人の勢力をより強大なものだったとする視点に立つ。そして天皇の始祖を渡来氏族に求め、その直系の子孫である馬子は皇位継承権があったとするものだ。また馬子が残した飛鳥寺、そしてその墓とされる石舞台古墳も天皇説の根拠とされている。つまり、・蘇我氏が氏寺とした飛鳥寺が法隆寺や四天王寺の2.5~3倍の規模を持つ・石舞台古墳が崇峻天皇の墓より数段大きく、しかも当時の政治の中心地だった飛鳥に作られている-などから、天皇以外の誰にもそのような権力は持ち得ない、というのがその根拠だが果たして…。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「磐舟の光芒」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「崇峻天皇暗殺事件」

山東京伝 ・・・初めて職業として戯作活動を行った江戸の代表的作家

山東京伝は江戸時代を代表する戯作者だ。従来の戯作者は、そのほとんどが余技で書いており、原稿料もほとんどなかった。これに対し、彼は職業として戯作活動を行い、原稿料が支払われるようになったのは彼が最初だともいう。また、松平定信が推進した「寛政の改革」で出版取り締まりにより、彼の洒落本三部が摘発され発禁となり、手鎖(てぐさり)50日の刑に処せられたことで知られている。
山東京伝は江戸・深川木場で岩瀬伝左衛門の長子として生まれた。生家は質屋だったという。本名は岩瀬醒(さむる)。通称は京屋伝蔵。「山東京伝」の筆名は、江戸城紅葉“山”の“東”に住む“京”屋の“伝”蔵からといわれる。ほかに山東庵、菊亭主人、醒斎(せいさい)、醒々老人、狂歌には身軽折介(みがるのおりすけ)などの号がある。合巻作者の山東京山は実弟。
山東京伝は浮世絵師・北尾重寅に学び、18歳で草双紙(黄表紙)の挿絵画家、北尾政寅(まさのぶ)としてデビュー。20歳ごろから黄表紙と呼ばれる絵入り読物を書き始める。黄表紙や洒落本を数多く書き、売れっ子作家となり、とくに『御存知商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』(1782年)で一躍、黄表紙作者として脚光を浴び、恋川春町(こいかわはるまち)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの武家作者と並び、天明・寛政期(1781~1801年)の中心的戯作者の地位を占めた。
ところが、1791年(寛政3年)、洒落本三部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸(しかけ)文庫』『娼妓絹?(しょうぎきぬぶるい)』が、松平定信が推進した「寛政の改革」の出版取り締まりに触れ摘発・発禁処分となり、手鎖50日の筆禍に遭った。これに懲りたか、山東京伝は路線を変更。その後は読本作家として新境地を開き、享和・文化期(1801~1818年)には“飛ぶ鳥落とす勢い”だった曲亭馬琴に対抗し得た、ただ一人の作家だった。
そして、そのかたわら考証随筆にも名著を残した。その代表作には黄表紙に『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわさのかばやき)』(1785年)、『心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)』(1790年)、洒落本に『通言総籬(つうげんそうまがき)』、『古契三娼(こけいのさんしょう)』(ともに1787年)、『繁千話(しげしげちわ)』、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(ともに1790年)、読本に「忠臣水滸伝」(前編1799年、後編1801年)、『昔語稲妻表紙(むかしがたりいなずまびょうし)』(1806年)、随筆に『近世奇跡考』(1804年)、『骨董集』(1814、1815年)などがあり、貴重な史料として今日に残している。
門人には曲亭馬琴はじめ数人いるが、その影響は十返舎一句、式亭三馬、為永春水らにも及ぼしている。
京伝は生涯で二度結婚したが、相手はいずれも吉原の遊女上がりだった。また、京伝には尾張藩主・徳川宗勝の落胤説がある。

(参考資料)井上ひさし「山東京伝」、

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司馬江漢・・・広重の『東海道五十三次』は司馬江漢作の画帖がもと 多芸の才人

 伊豆高原美術館長の對中如雲氏は、その著書「広重『東海道五十三次』の秘密」で、安藤広重の名作浮世絵版画『東海道五十三次』は、司馬江漢(しばこうかん)作といわれる画帖をもとに描かれたものだった-と書いている。あの広重の名作が、彼自身のオリジナルと信じて疑わない人たちにとっては、かなりショッキングなことだ。司馬江漢は、それほどに様々な分野に関心を持ち、銅版画を制作し、洋風画、浮世絵などを描き、また自然科学に親しみ、地理・天文に関する書物も著す多芸・多彩の人物だった。司馬江漢こそ江戸時代を代表する奇人・怪人といっても過言ではない。

 司馬江漢の生没年は1738?~1818年。ただ、没年ははっきりしているが、そのとき彼は72歳だという説と、81歳だという説の二通りあって定かではない。江戸で生まれ、芝に住んだ。司馬という姓はそれをもじったものだという。本名は安藤峻。無言道人・春波楼と号した。

幼いときから画才があり、はじめ狩野派を学び、後に浮世絵師である鈴木春信門下となり、春重の号を与えられる。その後、宋紫石の門人となり、人物・風景・山水画に秀で画名を挙げたが、平賀源内の影響を受け、洋風画の道を志した。そして1783年(天明3年)、江漢は日本最初の腐蝕銅版画の制作に成功した。また地理・天文に関する書も著した。

 伝えられる司馬江漢の事績をみると、好奇心が旺盛で、実に幅広く様々なことに関心を持ち、様々な人物との交流もあり、作品も描き、書も著している。平賀源内とは一緒に鉱山探索のための山歩きなどもしているし、数多くの大名とも会っている。

江漢の周囲の人物が弾圧を受けていた最中、時の老中、松平定信を公然と批判している。江漢は定信に自作の地球儀を贈っているし、江漢の西洋画に対して定信は批評したりしているから、お互いに見知っていたはずだが、それでいて江漢は少しも弾圧を受けなかった。また、当時キリスト教は禁制だったが、江漢は絵の参考としてと言いながら使徒、聖パウロ像を持ち歩いていたという。それでも、何故か全く咎めを受けていない。

 この他、幕府の隠密だったといわれている間宮林蔵が、樺太探検から江戸へ戻ってすぐに江漢宅を訪れている。また、ロシアに漂着して帰国した大黒屋光太夫にも会っているのだ。鎖国下で外国に行った人間は、一種の軟禁状態にあり、普通の人間には会うことができないはずだが…。不可解で、どうしてそんなことができたのか?と首を傾げることはかなり多い。だから彼自身が隠密だった、隠れキリシタンだった、物凄いハッタリ屋だった-などと、いろいろ酷評もされている。

 まだまだある。自分でコーヒーを挽き、器を工夫してコーヒーを飲み、地球儀や補聴器、老眼鏡も作った。自分の年齢を詐称し、途中から実年齢に9歳加算した年齢を作中に書くようになった。友人や知人に偽の死亡通知を送り付けることもした。訳の分からない人物、奇人・怪人の面目躍如といったところだ。

 江漢は晩年著した随筆「春波楼筆記」の中で奇人を返上するような、優れた言葉を残している。それは「上、天子将軍より、下、士農工商非人乞食に至るまで、皆もって人間なり」というものだ。この人間平等観は優れているといわざるを得ない。単なる奇人や“皮肉屋”ではとても発せられる言葉ではない

(参考資料)高橋嗔一・細野正信「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

シーボルト・・・長崎・鳴滝塾で西洋医学を教え、多くの俊秀を輩出

 シーボルトといえば長崎・鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)教育を行い、ここから高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介ら俊秀が育ち、後に日本を代表する医者や学者として活躍している。しかし、シーボルトがオランダ人ではなくドイツ人であることも、そしてその人となりや、そもそもの来日の目的については意外に知られていない。果たしてシーボルトとはどんな人物だったのか…。シーボルトの生没年は1796~1866年。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは神聖ローマ帝国がまだ存続していた当時のドイツの司教領ヴュルツブルク(現在のドイツ連邦バイエルン州)に生まれた。名前は標準ドイツ語読みではジーボルトだが、本人は自らを「シーボルト」と発言していた。シーボルト家はドイツ医学界の名門だった。父はヨハン・ゲオルク・クリストーフ・フォン・シーボルト、母はマリア・アポロニア・ヨゼファー。姓の前のフォンは貴族階級を意味し、祖父の代から貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で医者や医学教授を多数輩出している。

 両親は二男一女をもうけるが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人した。フィリップが1歳1カ月のとき父が亡くなり、母方の叔父に育てられた。1815年、ヴュルツブルク大学に入学したシーボルトは家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授デリンガー家に寄寓し、医学をはじめ動物、植物、地理などを学んだ。

ただ彼は常に、自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かったから卒業後、彼に町の医師で終わる道を選ばせなかった。彼は東洋研究を志し、1822年オランダのハーグへ赴き、国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、オランダ領インド陸軍病院の外科少佐となった。

 オランダ・ロッテルダムから出港し、喜望峰を経由して1823年4月にジャワ島へ、そして6月に来日。鎖国時代の日本の対外貿易の窓口だった長崎の出島のオランダ商館医となった。出島内において開業。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)を講義した。代表的な塾生に高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介らがいる。塾生は後に医者や学者として活躍している。

 シーボルトは日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1823年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行。この際、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭した。地理や植生、気候や天文などを調査した。1826年には十一代将軍徳川家斉に謁見。江戸においても学者らと交友。蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や幕府天文方・書物奉行の高橋作左衛門景保らと交友した。その間、楠本瀧との間に娘、後に日本初の女医となる楠本いねをもうけている。

 1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、シーボルトは1829年国外追放のうえ再渡航禁止の処分の処分を受けた。後に「シーボルト事件」と呼ばれ、高橋景保ら十数名処分され、高橋が獄死した(その後、死罪判決を受けている)不幸な事件だ。これはシーボルトからクルーゼンシュテルンによる最新の世界地図をもらう見返りとして、高橋が伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図を贈ったとされるもの。当時この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。

 シーボルトは1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約締結によって、追放処分が取り消され、翌年オランダ商事会社の顧問として再来日し、長崎で楠本瀧・いね母娘と再会、江戸幕府の外交にも参画した。1862年(文久2年)帰国、4年後ミュンヘンで亡くなった。

 ところで、シーボルトの来日の目的は何だったのか?プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説がある。オランダから何かの密命を受けていたのか?定かではない。ただ彼はオランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として日本および蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島などに関する記録集全7巻を刊行し、その名を世界に知らしめた。それにより、「日本学」の祖として名声が高まり、故国ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれている。なぜか、その招聘には応じていないが…。招聘されたことで、誇りと自尊心が満たされ、自分の人生の目的は達成されたと納得できたのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村昭「間宮林蔵」杉本苑子「埠頭の風」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

高山彦九郎・・・吉田松陰ら多くの幕末の志士に影響を与えた勤皇思想

 戦後、勤皇の価値は堕ち、今は高山彦九郎を顧みる人はほとんどいないが、彦九郎の勤皇思想は後世、吉田松陰はじめ幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた。また、彦九郎は林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」の一人で、戦前の修身教育で二宮尊徳、楠木正成と並んで取り上げられた人物だ。

 高山彦九郎は江戸時代後期の尊皇思想家で、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の郷士、父高山良右衛門正教、母繁(しげ)の次男として生まれた。名は正之。彦九郎は通称。彼には、新田義貞に従ったその郎従の中でも新田十六騎といわれた高山遠江守の子孫だという歴とした家系が、犯すべからざる威厳のようなものとして備わっていたという。

彦九郎は13歳のとき、『太平記』を読み、「建武の中興」の忠臣の志に感動。生地が新田氏ゆかりの地であることもあって、その報いられざる忠節を捧げた対象を、いつのまにか彼自身の理想に育て上げていたのだ。つまり、そのころの常識だった幕府、いや将軍家を中心として物事を考えるのではなく、天皇というものを中心として物事を見るようになっていたのだ。

18歳のとき、遺書を残して家を出た。京都に出て学問を修め、中山愛親(なるちか)らの公卿や多くの有志の知遇を得た。さらに忠君仁義の人を訪ねて各地を遊歴、勤皇論を説いた。藤田幽谷や立原翠軒を訪ねて水戸へ行き、仙台では林子平のもとを訪れて海防の話を聞いた。長久保赤水、簗又七、江上観柳らと心を許した交友があったほか、前野良沢、頼春水、柴野栗山、細井平洲といった当時第一級の学者が、その理解者として江戸にはいた。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより、光格天皇にも拝謁した。

 1789年(寛政元年)、江戸へ行き、翌年には水戸から奥州を経て松前まで足を伸ばしている。その後、さらに山陽から九州へ入り、小倉、中津、久留米、長崎、熊本、鹿児島などを遍歴し、生涯で30数カ国を歴遊した。

こうして全国を歴遊して勤皇論を説く彦九郎の存在が、幕府にとって都合の悪い、批判分子として映るようになる。尊号事件とからみ公卿、中山愛親の知遇を得たこと、さらには京都朝廷の権威回復を唱える人たちとの交友が、彦九郎自身を追い込んでいく。すでに宝暦のころ、竹内式部は京都朝廷の権威を回復しようとする考えに立って、公卿の間にその講義を行っていた。しかし、そのことが幕府に聞こえると、幕府は一挙にその弾圧に乗り出したものだ。彦九郎が京都にきて中井竹山らを説いて歩いたのは、まさにそのことによって廃絶した禁中の講義を再開させようとしたのだ。

彦九郎のこうした行動に加え、竹内式部の事件で罰せられた岩倉卿の邸での半年間にわたる滞在などが、“要注意人物”として老中の松平定信など幕府の警戒を呼び、彼は幕吏の監視下におかれることになる。そのうちに、幕吏は公然と彼の行く先を求めて姿を現すようになって、自分の行動が常に監視されていることを知る。親友・旧友を訪ねても、訪ねた相手も幕吏から疑いの眼をかけられているようで、自分が追い詰められてゆく感じを味わう。

1793年(寛政5年)、彦九郎は筑後国久留米の友人、森嘉膳の家を訪れた。彼を迎え入れた嘉膳は、何か思いつめた様子が彦九郎に感じられるので、努めて気の安まるような話題を選び歓談、夕食を摂った。そして、しばらくして彦九郎は与えられている部屋へ入って自刃する。47歳の生涯がここに終わった。

 京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。

(参考資料)吉村昭「彦九郎山河」、奈良本辰也「叛骨の士道」、梅原猛「百人一語」

天武天皇・・・現人神になった独裁的専制君主だが、実は謎だらけの人物

日本の古代史には謎の部分が極めて多い。ここに取り上げる天武天皇などその最たるものだ。例えば歴代天皇の中で唯一、生年が不明な天皇なのだ。生年だけではなく、前半生すら全く闇に隠されたままだ。なぜなのか?

一般に天武天皇はそれまで、大和朝廷を組織していた畿内の大豪族主導による合議制政治を否定。壬申の乱に勝利し、この戦いで有力豪族の多くを滅ぼしたことで、権力を天皇家に集中し「皇親政治」を実現した、賢君のイメージが強い人物と思われている。現実に『万葉集』などで天武天皇は、「大君(おおきみ)は神にしませば…」と詠われ、その政権は独裁的専制君主の地位に達していた。そんな現人神(あらひとがみ)になった天武天皇の生年が、また前半生がなぜ闇の中にあるのか。そこには、オープンにできない、奥深い事情があるのではないか。まさに謎だらけの人物といわざるを得ない。

天武天皇は名を大海人(おおあま)皇子といい、父は舒明天皇、母は皇極天皇で、正史では天智天皇(中大兄皇子)の弟とされている。しかし、最近の説では天智天皇とは兄弟ではなかったとか、兄弟にしても大海人皇子の方が兄だったとか、大海人皇子は渡来人だったといった説まで生まれている。中大兄皇子とは父が異なり、大海人皇子が年上だったからこそ、生年を明記できなかったのであり、大海人皇子に対する天智天皇の遇し方も尋常ではなかったのではないだろうか。

天智天皇にとって、大海人皇子は単なる兄弟の一人というわけにはいかない、“賓客”に相当する存在だったのではないか。そうでなければ、4人もの自分の娘を大海人に嫁がせる理由がない。これらの真偽はさておき、大海人皇子が天智朝の皇太子として、一時は政権の中枢にいたことは事実だ。「皇太弟」と表現されることもあったのだから、この点は間違いない。

ところが、幼少だった大友皇子の成長に伴い、天智天皇が皇太子=大海人ではなく、わが子大友に皇位を譲りたいと思うようになったことで、状況が激変する。天智天皇は、皇太子の大海人皇子の地位を奪い、671年(天智天皇10年)、大友皇子を太政大臣に任命し、政権のトップの座に就かせたのだ。太政大臣が官職として正式に登場するのは、これが初めてのことだ。天智天皇はわが子を皇位に就けるため、新しいポストを作ってまで大友皇子を政治の中枢に置いたのだ。大友皇子23歳のときのことだ。

そして、天智天皇が大友を後継者にするために謀った最後の機会が、病の床に就いた天智が、病気が全快しないのを予感し、大海人を招いたときだった。671年のことだ。天智は「私の病気は重い。お前に後を譲ろうと思う」といった。大海人は一瞬、真意を図りかねたが、即座に「いや、結構です。皇位は倭姫(やまとひめ)皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子にお任せください。私は出家し、天皇の病気治癒を祈りましょう」と答えた。とっさに大海人は天智天皇の言葉が、自分に仕掛けられた罠だと察したのだ。事実、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)は、大海人が承知すれば、その場で暗殺しようと狙っていたともいわれる。危機一髪、僧形となった大海人皇子は吉野に逃れた。

後の歴史に即していえば、こうして大海人皇子による皇位奪取計画の火ぶたが切って落とされたのだった。天智天皇亡きあと近江京の総帥・大友皇子と、吉野で密かに態勢を立て直した大海人皇子、甥・叔父の戦い=古代史上最大の内乱「壬申の乱」はこの翌年、672年のことだ。この戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇となった。

(参考資料)黒岩重吾「天の川の太陽」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、関裕二「大化の改新の謎」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」

種田山頭火 ・・・妻子を捨て行乞の人生を送り自由に一筋の道を詠い続ける

 種田山頭火は生きている時には、ほとんど無名で、その一生を終えたが、死後、評価され「自由律俳句」の代表の一人となった。妻子を捨て、世間を捨て、行乞(ぎょうこつ=修行僧が各戸で物乞いをして歩くこと)の人生を送り、自然と一体になり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠い続けた山頭火は、生涯に約8万4000句を詠み捨てたという。生没年は1882(明治15)~1940(昭和15年)。

種田山頭火は現在の山口県防府市に、父竹次郎、母フサの長男として生まれた。本名は正一。種田家はこの付近の大地主で、父は役場の助役なども務める顔役的存在だった。その父の、妾を持ち芸者遊びに苦しんだ母が、自宅の井戸に身を投げて死んだ。山頭火11歳の時のことだ。この母の自殺が彼の生涯に大きな衝撃を与えた。

山頭火は1902年(明治35年)、早稲田大学文科に入学したが、2年後、神経衰弱のため退学して帰郷。その後、隣村の大道村で父と酒造業を営む。1909年(明治42年)佐藤サキノと結婚、翌年長男健が誕生。1911年(明治44年)、荻原井泉水主宰の自由律俳誌「層雲」に入門した。この頃から「山頭火」の号を用いる。29歳のことだ。狂った人生の歯車は順調に回りかけたかに見えたが、そうではなかった。1916年(大正5年)、家業の酒造業に失敗し、家は破産したのだ。家業を省みない父の放蕩と、度を過ぎた父子の酒癖が原因だった。父は他郷へ、山頭火は妻子を連れて句友のいる熊本へ引っ越す。

熊本へ移った山頭火は額縁店を開くが、家業に身が入らず結局、1920年(大正9年)、妻子と別れて上京する。その後、父と弟は自殺する。東京での山頭火は定職を得ず、得るところもないまま1923年(大正12年)、関東大震災に遭い、熊本の元妻のもとへ逃げ帰る格好となった。

不甲斐ない自分を忘れようと、酒におぼれ生活が乱れた。そして、生活苦から自殺未遂を起こした山頭火を、市内の報恩禅寺の住職、望月義庵に助けられ寺男となった。1924年(大正13年)、出家した。法名・耕畝(こうほ)。市内植木町の味取(みどり)観音の堂守となった。

1925年(大正15年)、寺を出て雲水姿で西日本を中心に行乞の旅を始め、句作を行う。1932年(昭和7年)、郷里の山口の小郡町に「其中庵(ごちゅうあん)」を結んだ。その後も行乞、漂泊することが多く、諸国を巡り、旅した。1939年(昭和14年)、松山市に移住し、三度目の庵である「一草庵(いっそうあん)」を結び、翌年この庵で波乱に満ちた生涯を閉じた。隣室で句会が行われている最中に、脳溢血を起こしたものだったという。

季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる、前衛的な「自由律俳句」。山頭火はその自由律俳句の代表として、同じ荻原井泉水門下の尾崎放哉(ほうさい)と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって、生計を立てているところは似通っている。しかし、その作風は対照的で「静」の放哉に対し、山頭火の句は「動」だ。

どうしようもないわたしが歩いている
山頭火の句には「近代人の自意識」がある。この句の中には二人の山頭火がいる。一人は、どうしようもない心を抱いて歩いている山頭火であり、もう一人はそれをじっと見ている山頭火だ。この自意識は小説分野の「私小説」にも通じるものだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

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東洲斎写楽・・・10カ月間に140数点の作品を残し、忽然と姿を消した作家

 東洲斎写楽は江戸中期の浮世絵師で、1794~95(寛政6~7年)の約10カ月間に140数点ものおびただしい役者絵などの作品を残したが、その後は忽然と歴史から姿を消してしまった。写楽は歴史を通じて日本美術を代表する作家の一人といっていいだろう。

ところが、意外なことにその実像は謎に包まれている。浮世絵師に記された落款とわずかな史料以外、写楽について伝える記録は残されていないのだ。この完璧なまでの歴史的空白は、まるで当時の関係者たちが意図的に“演出”して、作り出しているかのような印象さえ受ける。果たして、謎に包まれている写楽の実像は?その正体は?

 1794年(寛政6年)5月、写楽は28点の大判錦絵をひっさげて華々しくデビューした。「寛政の改革」を実施した松平定信は老中を辞したものの、引き続き贅沢は厳しく取り締まられていた時代のことだ。当時江戸で上演されていた歌舞伎に登場する役者たちを描いた28点の「大首絵」は写楽の代表作であり、その構図や独特のタッチはそれまでにないものだった。

その異様なまでの迫力に満ちた人物描写がヨーロッパ人にも高く評価され、20世紀初めに写楽を西欧へ紹介したドイツ人研究家、ユリウス・クルトはベラスケス、レンブラントとならぶ三大肖像画家の一人に数えたほどだ。

 謎の第一は活動期間の短さだ。写楽の作品が初めて世に出たとされるのは1794年(寛政6年)5月。ところが、翌1795年(寛政7年)2月以降の作品は1点も見つかっていない。活動期間わずか10カ月間だ。この10カ月間に140数点もの傑作を残したわけで、大雑把に計算すれば、2日に1点という大変な制作スピードだ。

 謎の第二はデビューの仕方だ。通常、絵師は読本や黄表紙の挿絵から描き始め細判、小判という小さいサイズを経て、初めて大判の絵を描くチャンスを与えられる。しかし、写楽はいきなり大判を描いている。謎の第三は最初から、絵のバックに高価といわれる雲母摺(きらず)りを使っていることだ。当時、雲母摺りを使えたのは歌麿と栄松斎長喜くらいだった。したがって、「写楽」とは無名の新人ではなく、名のある浮世絵師の別名(ペンネーム)ではないかという見方が生まれてきた。

写楽別人説は大きな謎を投げかけている。いうまでもなく、それは写楽は誰かという謎だ。これまで写楽ではないかいわれた絵師は喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川豊国、鳥居清長、栄松斎長喜、司馬江漢、円山応挙など数多い。また、画家以外の名を挙げる説も多い。例えば「東海道中膝栗毛」で知られる戯作者の十返舎一九、同じく戯作者兼浮世絵師の山東京伝、そして能役者の斎藤十郎兵衛なども有力な写楽候補だ。さらに問題を複雑にしているのは、写楽は何も1人に限らないという視点だ。つまり、写楽とは2人あるいは数人による共同ペンネームだとする説も提唱されている。これなら、謎の第一に挙げた2日に1点という制作スピードも、少しは納得できるのだ。

謎の第四は無名の役者も描いたという点、140余点の版元がすべて蔦屋という点も、当時の常識からは考えられないことだ。

 写楽別人説の多くは、どれもそれなりの根拠を構えている。しかし40人を超える候補の乱立は、裏を返せば大半が決め手に欠けていることの証といってもいい。果たして写楽は誰か?

(参考資料)梅原猛「写楽 仮名の悲劇」、高橋克彦「写楽殺人事件」、歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

玉松 操・・・王政復古の勅を起草、「錦旗」をデザインした岩倉具視の謀臣

 玉松操(たままつみさお)は幕末・明治維新期の国学者・勤皇家で、岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名だ。本名は山本真弘(まなひろ)。参議侍従、山本公弘の次男。京都生まれ。生没年は1810(文化7年)~1872年(明治5年)。

 8歳のとき京都・醍醐寺無量院において出家得度し、法名を猶海とした。修行・精進の末、大僧都法印に至る。だが寺中の綱紀粛正を強く主張するなど、僧律改革を唱えたため、反発を買い、30歳で下山。還俗して山本毅軒(きけん)と号し、のち玉松操と改めた。京都で国学者、大国隆正に師事し国学を学んだが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江に隠棲。のち和泉や近江坂本で私塾を開いた。

 1867年(慶応3年)、門人、三上兵部(みかみひょうぶ)の紹介で、蟄居中の岩倉具視の知遇を受け、その腹心となった。以後、王政復古の計画に参画するなど幕末維新期の岩倉具視と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。とりわけ有名なのは、小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことだ。さらに、玉松は早晩、幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための「錦旗」のデザインを考案するなど、官軍勝利に貢献した。

 日本の歴史にとって実に奇妙な日がある。1867年(慶応3年)10月13日と14日に全く矛盾する朝廷の勅命が出されているのだ。10月13日には薩摩藩に対して討幕の密勅が出され、同時に長州藩に対して、失われていた藩主の官位を復旧する宣旨が出されている。そして翌14日には長州藩に討幕の密勅が下された。

ところが、この14日には徳川十五代将軍慶喜が提出した「大政奉還」の願いが上表されている。翌日許可された。討幕の密勅というのは、その徳川慶喜を賊と見做し、これを討てという天皇の密命だ。討幕の密勅と大政奉還許可は、朝廷の行為としては全く矛盾する。なぜこんなことが行われたのだろうか?

 実はこの討幕の密勅、玉松操の画策だった。討幕の密勅には・天皇の直筆ではない・副書している中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の3人の公家の花押がない・3人の公家の署名が、すべて同一人の筆ではないか思われる-などから、従来から偽書だという説が強かったのだ。この画策=密勅こそ不発に終わったが、玉松操は討幕へ向けて次々と手を打ち出していく。

 玉松操はたとえ多少の血を流しても、徳川幕府は徹底的に武力で叩き潰さなければならないと考えていた。それだけに玉松にとって、大政奉還の起案者だった坂本龍馬が暗殺され、邪魔者が失くなった感があった。そのため、その後の玉松の行動に弾みがついた。錦の御旗をデザインし、岩倉具視が蟄居していた岩倉村の家に、薩摩藩の大久保一蔵(後の利通)とともに出入りしていた長州藩の品川弥二郎に「宮さん 宮さん…」の軍歌を作詞させ、その歌詞に品川が祇園で馴染みの芸者に節をつけたといわれる。すると、今度は一室にこもって、王政復古の詔勅づくりに取り組み始めた。岩倉を京都朝廷に推しだすためだ。

有名な小御所会議は慶応3年12月9日に開かれた。この日、天皇の命によって、今までの謹慎を解かれた岩倉具視は、自分が主宰する形で小御所会議を招集した。大政を奉還した徳川慶喜の官位と領地を剥奪するという内容を伴う「王政復古の大号令」を出すためだった。会議は騒然となった。だが、西郷隆盛や大久保一蔵らから、文句をいうものがいれば誰にしろ…、と武力行使をほのめかされていた岩倉のすさまじい“熱”が会議を主導、慶喜の官位剥奪、領地没収が決まった。やがて、この決定に憤慨した旧幕臣たちが、鳥羽伏見戦争を起こす。薩長軍は応戦、このとき翻ったのが、玉松操がデザインした錦の御旗だ。この旗によって薩長軍は官軍に変わった。天皇の親兵になった。そして新政府が樹立された。

 王政復古の後は、内国事務局権判事となり、矢野玄道(はるみち)、平田銕胤(てつたね)らと組んで、大学官(皇学所)、大学寮(漢学所)を皇学所への一本化や尊内卑外政策の実施を求めるなど、極めて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。1870年(明治3年)、東京で大学中博士兼侍読(じどく)に任ぜられたものの、新政府の欧化政策に基づいた文教政策を批判して、1871年(明治4年)、官職を辞し京都に帰って隠棲したが、翌年病没した。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、司馬遼太郎「加茂の水」

徳川家斉・・・17人の妻妾を持ち53人の子をもうけた子持ちNo.1将軍

徳川第十一代将軍家斉は、50年もの長期にわたって将軍職にあった異例の将軍で、生涯に特定されるだけで17人の妻妾を持ち、男子26人、女子27人の子をもうけた歴代将軍の中では、いや歴史上日本人の“子持ち”No.1の記録男だ。複数の女性を妻に迎えることは、例えば平安時代でも宮廷の高位を占める高級貴族の間では珍しいことではなかった。しかし、これだけ多くの妻となると、稀有なことと言わざるを得ない。また相当傑出した、強靭な体力がなければできることではない。こうしてもうけられた、これら子供たちの膨大な養育費が、逼迫していた幕府の財政をさらに圧迫することになり、やがて幕府財政は破綻へ向かうことになった。“お騒がせ”いや“オットセイ”将軍、家斉の生没年は1773(安永2)~1841年(天保12年)。

徳川家斉は、第二代一橋家当主・治済(はるさだ)の子として生まれた。幼名は豊千代、後に家斉。だが、第十代将軍家治の世嗣・家基が急死したため、父と老中首座にあった田沼意次の裏工作、そして家治にほかに男子がいなかったこともあって、幸運にも家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。そして、家治が1786年(天明6年)、50歳で急死したため、1787年(天明7年)、家斉は15歳で第十一代将軍に就いた。以後、50年もの長きにわたって将軍の座にあって、65歳で将軍職を家慶(第十二代)に譲ってからも、「大御所」として幕政の実権は握り続けた。

官位も太政大臣に上った。生前に太政大臣に上ったのは、徳川家の将軍では初代家康、二代秀忠以来のことだ。位人臣を極めたというべきか。体も丈夫だった。冬でも小袖二枚と肌着のほかは着たことがなく、こたつにもあたらず、手あぶりだけで済ませた。現代のように冷暖房完備とはいかない江戸城の中で、この薄着でいられたのは、よほど体の芯が丈夫だったのだろう。

家斉は将軍職に就いた年に第一子、淑姫(ひでひめ)をもうけ、54歳のときの最後の子、泰姫(やすひめ)まで、約40年間に53人の子供をもうけたのだ。これらの子の縁組先は6人が御三家、4人が御三卿、7人が家門(越前家諸家・会津松平家などの徳川家一門)など、計19人までが徳川家の近い親類に縁付いている。それらを除いた7人が外様大名に縁付いているが、2人が養子、5人が娘(姫)だ。これら家斉の子供のため、徳川家一門は御三家筆頭の尾張徳川家を始めとして、家斉の血縁の者が跡を継ぐケースが頻出し、幕末の大名家当主は多くが家斉の血縁の者になった。

家斉には17人の特定される妻妾以外にも妾がいたとも伝えられ、一説では40人ともいわれる。とはいえ、これらの側室が常時、彼のハーレムに侍っていたわけではない。周知の通り、徳川時代には大奥制度が厳然としてあり、加えてこれらの側室たちも30歳になると、「お褥(しとね)お断り」といって、その座を降りるしきたりになっていた。

それにしても、この側室の多さはマイナスでしかなかった。大奥の費用はかさみ幕府財政は極度に悪化したのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子「続 悪霊列伝」、「にっぽん亭主五十人史」、南条範夫「夢幻の如く」