「悲劇の貴人」カテゴリーアーカイブ

安積親王・・・藤原一族による“排除の標的”となり、毒殺?される

 安積親王(あさかしんのう・あさかのみこ)は、都が奈良・平城京にあった時代、皇太子の基皇子が亡くなった年に生まれ、聖武天皇の唯一の皇子で皇太子の最有力候補のはずだった。だが、当時権勢を誇った藤原氏によって退けられ、あっけなく17歳の若さで死去した。死因は定かではなく、藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。いずれにしても、藤原氏の意向がその死と深く関わり、その背景にあることだけは確かだ。安積親王の生没年は728(神亀5年)~744年(天平16年)。

 安積親王は聖武天皇の第二皇子として、幼少の皇太子・基皇子が亡くなった年に生まれた。そのため聖武天皇の唯一の皇子であり本来、彼は皇太子の最有力候補のはずだった。ただ一点、問題があった。わずか一点だがそれが極めて大きな、死命を制する問題だった。彼の母が県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)で、当時、揺るぎのない権勢を誇った藤原四卿(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の氏族の出ではなかったことだ。

 当時、藤原氏の権勢がいかに強大だったか。臣下の身分で異例にも皇后となった光明皇后との間にもうけられた聖武天皇の第一皇子、基皇子は生まれて間もなく立太子している。その基皇子は夭折したが、738年(天平10年)、光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されたのだ。史上初の女性皇太子の誕生だ。藤原氏にはそれまでのルールや慣例を無視し、あるいは覆して、内親王をゴリ押しで立太子させるだけの権勢があったわけだ。唯一の皇子=安積親王の存在も容易に退け、有無を言わせないだけの、圧力をかける力があったといわざるを得ない。

 とはいえ、藤原氏にとって安積親王の存在は目障りだったことは間違いない。それまでのルールや慣例に従うならば当然、唯一の皇子(安積親王)が即位することになる。それでは、藤原氏の血をひかない天皇が誕生することになる-との思いだ。そうした心配のタネは、一日も早く摘み取っておかなければならないというわけだ。

それだけに、藤原一族は虎視眈々と安積親王を“始末”する機会を狙っていたのだ。744年(天平16年)閏1月11日、聖武天皇は安積親王を伴って難波宮に行幸する。その際、安積はその途中に桜井頓宮で脚病になり、恭仁京(くにきょう)に引き返すが、2日後の閏1月13日、17歳の若さでその生涯を閉じたとされている。詳細は定かではないが、そのとき恭仁京の留守を守っていたのが藤原仲麻呂であり、その仲麻呂に毒殺されたという説もある。それほどあっけない死で、いずれにしても藤原氏がその死にからんでいる可能性が高い。

 藤原氏の謀略で起こされた冤罪事件「長屋王の変」、そして大宰で起こった「藤原広嗣の乱」など血なまぐさい権力闘争が繰り広げられた時代。次代を背負う存在だったはずの安積親王の実像は、なかなか見えにくい。史料そのものが少ないのだ。『大日本古文書』によると、736年(天平8年)、すでに斎王になっていた姉の井上内親王のために写経を行い、743年(天平15年)には恭仁京にある藤原八束の邸で宴を開いていることが記されている。この宴には当時、内舎人だった大伴家持も出席し、そのとき詠んだ歌が『万葉集』に残されている。

(参考資料)杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」

大伴家持・・・藤原氏との対立の中で死後も含め時代に翻弄された人生

 大伴家持は「万葉集」の編纂に大きく関与し、「万葉集」に収められた作品も最も多い奈良時代後期の代表歌人・政治家だ。半面、彼の生涯は時代に翻弄される、波乱に満ちたものだった。家持の赴任地の足跡をみると、南は薩摩から北は陸奥多賀城まで、当時の日本国のほぼ両辺に及ぶ。いかに地方生活が長かったかを物語っている。

名門大伴氏の家名を挽回しようと意欲に満ちた、誇り高い青春時代から、大伴・藤原両氏対立の中で政争に巻き込まれて、失意の中年期を経て、晩年の復活と、死後の一族の悲惨-。信じがたいことだが、死後、家持はある事件に連座させられて、806年(大同1年)まで官の籍を除名されていたのだ。生没年は718(養老2)~785年(延暦4年)。古代、名門豪族だった大伴氏の本拠地は、大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)だったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。

 大伴家持は大納言大伴旅人の長男、大納言大伴安麻呂の孫。母が旅人の正妻ではなかったが、大伴の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻、大伴郎女(いらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられた。だが、その郎女とは11歳のとき、父の旅人とは14歳のとき死別。さらにたった一人の弟、書持(ふみもち)とも29歳のとき死別している。いずれにしても、大伴氏の跡取りとして貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけさせられていた。

しかし、出世の道は遠かった。745年(天平17年)にやっと従五位下。751年(天平勝宝3年)少納言。その後、長い地方生活を経て770年(宝亀1年)民部少輔、左中弁兼中務大輔、21年ぶりで正五位下に昇叙した。そして諸官を歴任して781年(天応1年)、右京大夫兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦4年)中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍となった。長かった不遇の時代を経て、家持にもようやく春が巡ってきたかにみえた。しかし、彼にはもう残された時間はなかった。同年、任地先の陸奥で、68歳で病没したのだ。

 ところが、これで終わりではなかった。死者に鞭打つ残酷なできごとが起こったのだ。家持の死後20日、葬儀も終わらぬうちに、彼は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が跡取りの永主とともに隠岐に流されるという事態に発展したのだ。無茶苦茶な裁きだったといわざるを得ない。冤罪などというものではない。藤原氏の謀略にはめられてしまったわけだ。そして、家持が晴れて無罪として旧の官位に復したのは、21年後の806年(大同元年)のことだ。

 「万葉集」の中で、大伴家持の作品は最も多く、長歌46、短歌425(合作首を含む)、旋頭歌1首、合計472首に上り、万葉集全体の1割を超えている。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。防人歌(さきもりのうた)の収集も彼の功績だ。平安時代の和歌の先駆を成す点が少なくない。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

足利義昭・・・うぬぼれ、過信が招いた足利最後の将軍のヘマ人生

 自分の力を過信し、オレが指示すれば世の中どうにでもなる-と思い込み、天下の策士を任じているが、実はその実力はゼロに近い。悲劇といえば悲劇、いや傍からみれば喜劇というべきかも知れない。そんな、うぬぼれの強かった人物が足利家の最期の将軍、足利義昭だ。

 足利義昭は、室町幕府の第十二代将軍足利義晴の次男として生まれた。母は近衛尚通の娘で、この女性は義昭の兄、義輝も産んでいる。父義晴は、義昭を仏門に入れることにした。仏門に入れば俗世との縁は切れるが、貴種として尊重され出世も早い。まして大寺院の勢力は、衰えた将軍家よりはるかに強かったといっても過言ではない。そこで、義昭は関白・近衛植家の猶子(養子扱い)として、奈良興福寺の一乗院門跡、覚誉(かくよ)の弟子として入門した。6歳のときのことだ。彼の弟、妹も後に仏門に入っている。こうして彼は覚慶(かくけい)と名を改め、30歳まで僧侶として日々を送ることになった。

 そんな彼の一生を一変させる事件が起こった。1565年(永禄8年)、29歳のときのことだ。父の後を継いでいた兄の第十三代将軍・足利義輝が松永久秀や三好三人衆のために暗殺されたのだ。覚慶は強大な力を持つ興福寺の保護下にあったからか、幸い殺されずに済んだ。しかし、彼は一乗院に監禁状態となり、行動の自由を奪われることになった。

 その後、義昭は前将軍の近臣だった細川藤孝らの手で救い出され、あちこち放浪の末、織田信長の支援を受けて、やっと都に戻って第十四代将軍となった。ところが、将軍になった彼は途端に、自分はオールマイティな人間だと思い込んでしまう。自分のことを都入りさせてくれた織田信長とも、瞬く間に仲が悪くなる。というのも信長は恩人だが、彼の態度からは将軍である自分に絶対服従してくれないと感じたからだ。

 そこで、義昭は信長を凌ぐ実力を持つ上杉謙信や武田信玄に、上洛して織田信長を討て-と頻繁に手紙を書くのだ。全く勝手気ままな人物としかいいようがない。ただ、こんな手紙が届いたからといって、海千山千の上杉や武田がそう簡単に動くはずもないのに、自分自身としては大いに権謀術数を尽くしたつもりになっているのは、少しこっけいでもあり、哀れでもある。

 結局、義昭は画策した“手紙”作戦が明るみで出て、怒った信長に都を追い出されることになる。そして、信長の在世中はとうとう帰京できなかった。柄にもない小細工をしたのが祟ったのだ。しかし、困ったことに彼自身は、案外そうは思っていない。自分が信長を制圧できなかったのは、頼みにしていた武田信玄、上杉謙信らが次々死んで、計画が実行に移せなかったからだ-としか考えない。だから、性懲りもなく別の大名に働きかける“手紙”作戦をやめなかった。

 怒った信長は遂に実力行使に出る。義昭は亡命した。いったんは紀州に逃れたが、やがて備後(広島県)鞆の港に落ち延びた。鞆の港は父祖尊氏が京都から追われたときに、院宣を得て南朝の新田義貞に対する討伐軍を挙げたところだ。いってみれば都落ちする足利家が再興のきっかけにした地域だ。義昭もそのことを知っていた。

 このうぬぼれやの、ほとんど実力のない将軍だからか、どうにもやること成すこと、少しずつピントが外れているのだ。だが、この義昭は強運の持ち主でもあった。“宿敵”信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺されたために、彼は自分で手を下さずに、憎い信長を討つという望みを達したのだ。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、

有間皇子・・・中大兄皇子の謀略にはめられ、謀反人に仕立てられ抹殺

 有間皇子は父・孝徳天皇の死後、次の天皇の候補者として浮かび上がり、結果的に「大化改新」の立役者であり、当時の事実上の最高権力者、中大兄皇子と対立。有間は謀略にはめられ、19歳の若さで処刑され、その生涯を閉じた。中大兄皇子の存在に脅威を覚え、狂人のふりをしてまで皇位継承争いから降りようとした有間だっただけに、狡猾に人を配して謀反人に仕立て上げられ、抹殺された最期は悲しく哀れをさそう。

 有間皇子は孝徳天皇の皇子で有力な皇位継承者の一人だった。孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係だった。640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。有間皇子の生没年は640(舒明天皇12年)~658年(斉明天皇4年)。

 悲劇の序章は、中大兄皇子の強引な遷都要求を聞き入れなかった孝徳天皇および息子の有間皇子の一族だけを難波宮に残して、飛鳥に戻ってしまったことにあった。653年(白雉4年)、中大兄皇子が奏上して都を大和に遷そうとしたが、孝徳天皇は前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を放棄しようとせず、これを拒否した。

ところが、皇太子の中大兄は引き下がるどころか、母の皇極前天皇、妹・孝徳天皇の間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に遷った。そして、驚くことに公卿、百官らはみなこれに随行したのだ。皇太子・中大兄の独断専行に業を煮やした孝徳天皇が、威信をかけて拒否したわけだが、公卿・官僚たちは天皇ではなく、中大兄の顔色だけをうかがっていたのだ。

 孝徳天皇が無念の思いを抱き、寂しくこの世を去ってから、いよいよ孝徳天皇のたった一人の遺児、有間皇子に刻一刻、危機が迫る。そのため、18歳の有間は周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。日本書紀にも記されていることだ。

 そして、運命の歯車が動き出す。658年、斉明天皇が中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に行幸中のことだ。都に残って留守をあずかる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、天皇の失政をあげつらい、挙兵、謀反するようそそのかす。これに対し、有間はこの謀略を見抜けず、赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときがきた」などと応じた。そのため、赤兄に言質をとられる格好となり捕えられて、天皇のいる牟婁の温泉へ送られてしまった。

 紀の国へ護送される途中、有間皇子が詠んだ有名な句が二首ある。

 家にあれば 笥に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(歌意は、我が家にいれば器に食べ物を盛るのに、今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)

磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(歌意は、磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたら、またこれを見よう)

 しかし、有間は藤白坂(和歌山県海南市藤白)で処刑された。19歳の若さだった。
 遠山美都男氏は、有間皇子を謀略に陥れられた哀れなプリンスと見做すのは大いに疑問として、実は有間皇子の大胆な挙兵計画があったとの説を打ち出している。斉明天皇らに牟婁温泉行きを勧め、天皇一族が都を留守にするという状況を意図的に作り出そうとしたのは有間自身だったという。そして、母の出身、阿倍氏が「軍拡」を推進し、有間皇子の背後にその勢力が結集していた。したがって、有間の挙兵計画も、船団を組織して淡路海峡を封鎖し、天皇一族の帰路を遮断するという大規模で実に用意周到なものだった-とかなり踏み込んだ説を提起している。こうして有間皇子は軍事行動を起こして、ライバルの中大兄皇子を倒し、斉明天皇に譲位を迫り、自ら即位しようと企てたとみるが、果たしてどうだろうか。現時点ではあくまでも少数派の仮説にすぎない。

 毎年11月、和歌山県海南市・藤白神社で若くして悲運に散った万葉の貴公子、「有間皇子まつり」が開催される。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

大津皇子・・・皇位継承めぐり対抗勢力の謀略にかかり23年の生涯閉じる

 大津皇子は文武両面、そして人格的にも優れた人物だったが、幼少時、母を亡くしていただけに、後ろ楯となっていた父帝、天武天皇崩御後は、皇位継承が俎上にのぼると、対抗勢力のターゲットとなり、皇后・持統ら草壁皇子擁立派による謀略にかかり、わずか23年の生涯を閉じた。生没年は663(天智称制12)~686年(天武15年)。

 大津皇子は天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の長女、大田皇女。同母姉に大伯(おおく)皇女。妃は山辺皇女(天智天皇皇女)。異母兄に高市皇子、草壁皇子、異母弟に忍壁皇子らがいる。幼少時は学問を好み、そして成人後は武芸に長じ、文武両道に優れていたため、人気があった。大津の名は生地である那大津(現在の博多港)に因むと、また近江大津宮に因むともいわれる。

672年の「壬申の乱」に際しては、高市皇子らといち早く近江京を脱出し、大分君恵尺(おおきだのきみえさか)らとともに、伊勢の鈴鹿関で父、天武天皇(当時はまだ大海人皇子)と合流した。大津皇子10歳のときのことだ。大海人皇子が即位し、天武天皇の御世となった後、皇后の皇子、草壁が皇太子となるが、大津皇子は父帝からの信頼が厚かったらしく683年、太政大臣となり朝政を委ねられた。大津21歳のことだ。父天武天皇が皇后との間にもうけた草壁を皇太子とし期待を寄せたことは間違いないが、多くの皇子たちの中で、あるいはそれ以上に期待したのが大津だったようだ。685年(天武天皇14年)の「冠位四十八階」制定の際には草壁皇子の「淨広壱」に次ぎ、「浄大弐」に叙せられたことでも分かる。

 しかし、大津皇子の人生のピークはこのあたりにあったといっていい。大津皇子が父帝から信頼され、人気が高まれば高まるほど、彼は皇位後継者の有力候補者に擬せられ、大津皇子自身の思いや意識とは全く別に、反草壁皇子勢力が大津皇子のもとに結集しそうな事態となっていた。そのため、持統皇后ら草壁皇子擁立派は大津皇子に対する警戒を強めていた。

 いまや朝廷内に大津皇子のいる場所はなくなった。いや、それよりも陰謀を企む対抗勢力の首謀者として、敵対する立場に追いやられた。それでも、大津には持統皇后の疑惑を解くすべがなかった。そこで天武の死後、大津皇子がとった行動は、同母姉の大伯皇女を訪ねて、密かに伊勢に下ったのだ。このとき、大伯皇女は斎宮(いつきのみや)として伊勢神宮に仕えていた。

なぜ、この時期に大津皇子が天皇崩御後の本来、喪に服す禁を破ってまで都を離れたのだろうか。そこまで精神的に追い詰められていたのか、身に迫った危険を感じて、愛する姉に別れを告げに行ったか、それとも謀反を決意し、その旨を密かに伝えたのか、それは分からない。史料は何も語っていない。ただ、万葉集には大津皇子と別れる大伯皇女の愛惜の歌が残されているだけだ。

大津皇子の悲劇はまもなくやってきた。686年(朱鳥元年)、天武天皇の崩御後、わずか1カ月も経たないうちに、大津皇子が皇太子・草壁皇子に対して謀反を企てたとして、一味30人とともに捕えられたのだ。「懐風藻」によると、大津皇子の謀反を密告したのは川嶋皇子だったという。

大津皇子は逮捕された翌日、死刑を言い渡され、訳語田(おさだ)の自邸で自害した。24歳の若さだった。妃の山辺皇女(天智天皇皇女)は髪を振り乱し、裸足のままで駆けてきて、遺体にとりすがって号泣、後を追って殉死したという。

(参考資料)黒岩重吾「天翔ける白日」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

柿本人麻呂・・・身分は?刑死?か、数多くの謎に包まれる歌聖の人生

 日本の詩人というと、多くの人が頭に思い浮かべるのが、柿本人麻呂と松尾芭蕉だろう。そして、この二人を歌聖、俳聖と称えた。芭蕉については、とくに後半生、旅の生活については『奥の細道』をはじめとする彼の多くの紀行文などによってほぼその全容を知ることができる。それにひきかえ、柿本人麻呂の場合は違う。彼の歌は万葉集に数多く残されて多くの人々の心を捉えるが、その人生は数多くの謎に包まれている。いやむしろ、明確に分かっていることが少ないといった方が的を射ている人物なのだ。

 柿本人麻呂の出自、生没年には諸説あり、多くの部分が定かではない。後世の文献によると、柿本氏は第五代孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流にあたる。父は柿本大庭、兄を柿本_(佐留)とする。人麻呂の生没年は660年ごろ~720年ごろ。人麻呂は人麿とも書く。姓は朝臣。人麻呂以降、子孫は石見国美乃郡司として土着。鎌倉時代以降、益田氏を称して、石見国人となったとされる。いずれにしても同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは分からない。

 人麻呂の経歴は『続日本紀』などの史書にも書かれていないから、定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに付随する題司・左注などが唯一の資料だ。一般には680年(天武天皇9年)には出仕していたとみられ、天武朝(673~686年)から歌人としての活動を始め、主要な作品が集中している持統朝(686~697年)に花開いたとみられることが多い。700年(文武天皇4年)作の明日香皇女(あすかのひめみこ)の挽歌が作歌年時の分かる作品として最後のものになる。ただ、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝(現在の滋賀県)にも出仕していたとする見解もある。

 各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、身分・官位を含めその生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を詠むという仕事の内容や重要性からみても高官だったと受け取られていた。

 ところが、契沖、賀茂真淵らが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱え、以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
1.五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名前は正史にみられない。

2.律令には三位以上は「薨」、四位と五位は「卒」、六位以下は「死」と表現することになっているが、『万葉集』の人麻呂の死をめぐる歌の詞書には「死」と記されている。
 人麻呂は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が収められている。讃歌、挽歌、そして恋歌があり、その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使した格調高い歌が特徴だ。代表作を挙げると、

・あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
・東(ひむがし)の野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
・近江の海(み)夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

などがある。
 梅原猛氏は柿本人麻呂についての力作『水底の歌 柿本人麿論』を著している。
この中で同氏は大胆な論考を行い、人麻呂は高官だったが、政争に巻き込まれて刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、大きな話題となった。また、梅原氏は柿本人麻呂=猿丸大夫の可能性を指摘している。ただ、学界においてはいずれもまだ受け入れられるには至っていない。

(参考資料)梅原猛「水底の歌 柿本人麿論」、井沢元彦「猿丸幻視行」

孝明天皇・・・攘夷にこだわり、批判勢力のターゲットとなり毒殺されたか

 孝明天皇の崩御をめぐっては、『孝明天皇紀』にも肝心の死因についての記載がなく、毒殺説をはじめ多くの疑問がある。幕末、朝廷・公家、幕府・諸藩・志士たちを含めた開国派と攘夷派の対立は激化。攘夷の意思が強く、公武合体により、あくまでも幕府の力による鎖国維持を望む孝明天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出ようになった。こうした人たちの勢力が天皇を追い込み、毒殺を謀ったのか?天然痘が原因なのか。その死因は謎だ。

 第121代・孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘、藤原雅子(新待賢門院)。幼名は煕宮(ひろのみや)、諱は統仁(おさひと)。正妃は九条尚忠の娘、九条夙子。孝明天皇の生没年は1831(天保2)~1867年(慶応2年)。在位は1846(弘化3)~1867年(慶応2年)でこの間、幕府は十二代将軍家慶、十三代家定、十四代家茂、十五代慶喜の四代にわたっている。

 1840年(天保11年)に立太子。1846年(弘化3年)、父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格で、その遺志を継いで公家の学問所、「学習院」を創設した。また、1853年(嘉永6年)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への積極的な関与を強め、1858年(安政5年)、40年にわたって朝政を主導してきた前関白鷹司政通の内覧職権を停止して、落飾に追い込み、さらに2カ月後、現関白・九条尚忠の内覧職権も停止して朝廷における自身の主導権確保を図った。

さらに、孝明天皇は幕政に発言力を持ち、1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際、これを拒否。大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶと、これに不信を示し、退位の意向も示した。そして、攘夷強硬派の公卿に動かされ、水戸藩に幕政改革を求める「密勅」を発したほど、攘夷の立場で幕府を強く指導した。1863年(文久3年)攘夷勅命を下した。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。

 しかし、「八月十八日の政変」(1863年)にあたっては攘夷派公卿と袂を分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。そして、異母妹、和宮親子内親王を第十四代将軍家茂に降嫁させたのをはじめ徳川慶喜、松平慶永、山内容堂ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目指し、岩倉具視ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的だった。それだけに、家茂が上洛してきたときは攘夷祈願のため石清水八幡宮などに行幸、京都守護職・会津藩主松平容保への信頼はとくに厚かった。

 こうした尊皇攘夷派・開国派による権力をめぐる争いに巻き込まれ、孝明天皇個人の権威は低下していくことになった。公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになったのだ。薩摩藩はじめ岩倉具視や、薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房までもが天皇に批判的な動きをするようになった。

 1866年(慶応2年)、第二次長州征伐中に将軍家茂が急死すると、孝明天皇は征長の停止を幕府に指示。これに伴い、幕府の統制力の崩壊は決定的となった。そして、第十五代将軍に慶喜が就任した直後、孝明天皇は急逝したのだ。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復を狙い、薩長による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。公式には天皇が痘瘡(天然痘)に罹っていたことは発表されたが、それが直接の死因だとするには、全く説得力がなかった。

 孝明天皇は長年の間、悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外ではいたって壮健だったという。公家・政治家の中山忠能の日記にも、「近年、御風邪の心配など一向にないほど、ご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、安部龍太郎「血の日本史」

花山天皇・・・藤原兼家・道兼父子の謀略で在位わずか2年で退位

 第65代花山天皇は父の冷泉天皇と同様、藤原元方の怨霊にとりつかれ、乱心の振る舞いがあったと伝えられるが、藤原一家の策謀により、在位わずか二年で退位させられた人だ。少し奇異な所業が目立ったにしろ、荘園整理令の布告など革新的な政治路線も打ち出しており、無事ならまだまだ善政が敷かれていたはずだ。生没年は968(安和元年)~1008年(寛弘5年)。

 花山天皇は冷泉天皇の第一皇子。母は太政大臣正二位藤原伊尹(これただ)の娘、懐子(かいし)。諱は師貞(もろさだ)。984年(永観2年)、円融天皇の譲位を受けて即位した。17歳のことだ。即位式において、王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てるといった振る舞いや、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたとの逸話がある。こうした所業が直ちに表沙汰にならなかったのは、天皇に仕えた賢臣、権中納言藤原義懐(よしちか)と左中弁藤原惟成(これしげ)の献身的な支えによるところが大きい。

 関白は先代から引き続き藤原頼忠(よりただ)だったが、実際の政治は義懐や惟成ら新進気鋭の官僚により推進されていた。饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引き締めを図り、902年(延喜2年)に出されて以来、布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領らの間で高まってきていた荘園生理の気運を政策化したもので、以後、頻出する整理令の嚆矢となった。

 花山天皇については様々な多くのスキャンダルが聞かれるが、中でも大納言藤原為光の娘、女御・_子(きし)への寵愛ぶりはとくに知られている。そのため_子はほどなく懐妊したが、その後体調を崩して遂に妊娠8カ月の身で他界した。天皇の落胆ぶりは大きく、いかに神に祈祷すべきか悩みぬいていた。

 この様子を見て陰謀をめぐらせたのが右大臣、藤原兼家だ。兼家は天皇の不安定な心理状態を利用し、天皇に出家を勧めて、一日も早く外孫懐仁(やすひと)親王へ譲位させようと謀ったのだ。「大鏡」によると986年(寛和2年)、藤原兼家の次男、蔵人・道兼が言葉巧みに花山天皇を連れ出し元慶寺へ向かう。そのころ兼家の長男の道隆と三男の道綱は清涼殿に置かれていた神器を皇太子・懐仁親王の部屋へ移す。

いったんは出家を納得した花山天皇だったが、心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに自分もともに剃髪、出家するからと天皇を説き伏せ剃髪させてしまう。そして、次は道兼の番になったが、道兼はどこにもいない。花山天皇が騙されたと思ったころには、“役者”の道兼は丸坊主になった花山天皇を残して藤原家に帰ってきていた。そのころには兼家の末子、道長が関白、藤原頼忠(兼家の従兄弟)に天皇行方不明の報告をしていた。そこで懐仁親王(当時7歳)が即位して一条天皇となり、兼家は念願の外祖父となったのだ。

 こうして兼家・道兼父子の謀略によって、無念の思いで皇位を追われた花山上皇はその後、仏門修行、そして和歌と女に明け暮れたといわれる。とくに歌人として優れており、多くの和歌を残している。

(参考資料)永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「百人一語」

孝徳天皇・・・わが国最初の生前譲位で即位したが、実権を甥に握られる

 孝徳天皇は、形式的には実姉からわが国史上初の譲位により即位したにもかかわらず、その存立基盤は極めて脆弱だった。それは645年(皇極天皇4年)の、蘇我本家(蝦夷・入鹿)を滅亡に追い込んだ「乙巳(いっし)の変」により、この企ての推進者であった中大兄皇子が、“補佐役”の中臣鎌足の助言を入れて辞退したことと、“対抗馬”と目された古人大兄皇子が急遽、出家し僧形となったため、消去法で残った候補者(=軽皇子)が即位したという事情があるからだ。そのため天皇となってからも基盤が弱く、実権は甥にあたる、同母姉の皇極上皇の子、中大兄皇子が握っていた。このことが後の様々な悲劇を産むことになった。

 孝徳天皇は敏達天皇の孫で、押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男。母は欽明天皇の孫、吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。諱は軽皇子(かるのみこ)。その在位中には「難波長柄豊碕宮」に宮廷があったことから、後世その在位時期を難波朝(なにわちょう)という別称で表現されることもある。孝徳天皇の生没年は596年(推古天皇4年)~654年(白雉5年)。

孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とした。新政権の立役者、中臣鎌足には大錦の冠位を授け、内臣(うちつおみ)とした。また、僧旻(みん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士(くにのはかせ)とした。

 皇極天皇4年は大化元年に改められた。これが年号使用の始まりだ。孝徳天皇は皇極上皇の娘、間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后に立て二人の后妃を迎えた。一人は阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の娘、小足媛(おたらしひめ)で、その間に有間皇子をもうけ、もう一人は蘇我倉山田石川麻呂の娘、乳娘(ちのいらつめ)だ。

 蝦夷・入鹿の蘇我本家を葬った「乙巳の変」は通常、中大兄皇子と中臣鎌足らが謀って起こしたクーデターということになっているが、異説もある。遠山美都男氏は、経緯はどうあれ、軽皇子が即位している事実から見るならば、クーデターの首謀者は軽皇子とその一派と見るのが最も妥当-としている。軽皇子一派とは、軽皇子の宮があった後の和泉国和泉郡やその周辺に何らかの拠点あるいは権益を保有していたとみられる蘇我倉山田石川麻呂、阿倍内倉梯麻呂、巨勢徳太、大伴長徳らだ。

 船史恵尺(ふねのふひとえさか)はクーデターの最終局面、蘇我蝦夷の自殺の現場に居合わせ、蝦夷によって蘇我氏累代の財宝とともに焼かれようとしていた『天皇記』『国記』のうち『国記』を持ち出したという。『天皇記』『国記』編纂のため日頃より蝦夷邸に出入りしていた恵尺は、クーデター派の命令で密偵的な働きをしていたのではないか、と遠山氏は見ている。

 遠山氏は中臣鎌足についても極めて興味深い見方をしている。鎌足は恐らく、摂津・河内・和泉の各地に居住した中臣氏同族から、軽皇子との関係を仲介され、早い段階から軽皇子に仕える立場にあったというのだ。鎌足は中臣氏の若い族長候補として、これら中臣氏同族を統括する立場にあった。彼らとの交流を通じて、鎌足は和泉国和泉郡に宮を構える軽皇子と深く知り合うことになったのだろう-という。

 遠山氏の見解は、クーデターの首謀者は中大兄皇子と中臣鎌足とする『日本書紀』の著述内容とは明らかに矛盾する。しかし、『日本書紀』のこの件は、藤原氏の始祖である鎌足の功績を顕彰するためにつくられた書物をもとにしているからだ。クーデターの勝者で、その後の政治の激動の最終的な勝者である鎌足や藤原氏のサイドに立って書かれた史料の陳述を鵜呑みにできないというわけだ。

 遠山氏の見解に近い姿で軽皇子が即位したのだとすると、軽皇子=孝徳天皇の悲劇の度合いは幾分、薄らぐ。しかし、653年(白雉4年)、不思議なことが起こった。皇太子の中大兄皇子は、天皇を難波宮に残したまま、母の皇極上皇や弟の大海人皇子(後の天武天皇)をはじめ、公卿・大夫・百官を引き連れて、突如、飛鳥川のほとりの川辺(河辺)行宮(かわべのかりみや)に移ってしまったのだ。

ショッキングなことにこのとき、孝徳天皇の皇后の間人皇女(はしひとのひめみこ)までが、夫の天皇を捨てて、中大兄皇子と行動をともにしているのだ。それは、中大兄皇子と間人皇后が近親相姦の関係にあったからだ。つまり、中大兄皇子はタブーを犯して同母妹の間人皇后と愛情を通じるようになり、叔父の孝徳天皇から奪ったのだ。それでも、孝徳天皇は黙って見ているほかなかった。天皇に実権はなかったのだ。ひとり取り残された天皇は654年、失意のうちに崩御した。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

弘文天皇・・・明治政府により追号された大友皇子 壬申の乱の敗者

 江戸時代まで公式には弘文天皇は存在しなかった。あるいは、削除されていた。明治政府により「弘文天皇」と追号されたのは1870年(明治3年)のことだ。しかし、そのおよそ1200年前、大友皇子が671~672年のわずか2年弱だが、天智天皇崩御後、近江朝廷にあって実権を握り、事実上皇位にあったとする見解が今日、有力視されている。生没年は648(大化4)~672年(天智天皇11年)。

 天智天皇の崩御後、672年、皇位をめぐるわが国古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、大海人皇子率いる吉野側が勝利したため、その即位が疑問視され、在位を認めない見解もある。少なくとも「日本書紀」は弘文天皇紀を記しておらず、同天皇を一代と見做していない。これは同紀の編纂にあたった舎人親王が父、天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと大友皇子即位を省いたとされている。

それでも、事実上大友皇子が皇位を継いでいたとする様々な史料が残っている。「水鏡」や「扶桑略記」などでは、天智天皇崩御後の二日後に皇位を継いだとされている。また、徳川光圀も「大日本史」でほぼ同様の見方をしている。

 弘文天皇は天智天皇の第一皇子で、名は大友皇子、伊賀皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。日本最古の漢詩集「懐風藻」によると、皇子は風貌たくましく、頭脳明晰だったとされている。博識で文武両道を究め、詩文にも優れていたと伝えられている。皇妃は大海人皇子と額田王(ぬかだのおおきみ)との間に生まれた十市(とおち)皇女。皇女には葛野(かどの)皇子、与多王(よたのみこ)の子があった。

 天智天皇には8人の妃がいたが、皇子が誕生したのは4人。だが、1人は8歳で亡くなり、残る3人のうちの最年長が大友皇子だった。しかし、大友皇子が皇位を継ぐことは、当時の慣習からいえば困難だった。皇位を継承できる資格は、まず第一に皇族出身の皇后・皇妃を母とする皇子であり、第二は大臣の娘で后妃となっているうちに生まれた皇子でなければならなかった。この習慣は蘇我氏がつくりだしたものだ。だが、大友皇子の母は伊賀国山田郡の国造家の娘だ。他の2人の皇子も同じような身分の母から生まれていた。慣例に従えば、大友皇子は皇位継承の資格がなかったのだ。
 にもかかわらず、天智天皇はこの大友皇子に深い愛情を注ぎ、皇位を託そうと思うようになった。大友皇子が聡明で、ひとかどの人物だったからだ。ところが、天智天皇には皇太子として弟の大海人皇子がいた。いうまでもなく、皇太子は次期皇位継承者のナンバー1だ。たとえわが子とはいえ、即座には後継者にできない。それには周囲の承認がいる。

そこで671年、大友皇子は太政大臣に任ぜられた。太政大臣が官職として正式に登場するのはこれが初めてで、大友皇子に権威をつけさせるため、新しいポストを作ってまで大友を政治の中枢に置いたのだ。大友23歳のことだ。そしてこの前後に、障害となる皇太子の大海人皇子の地位を奪い、政界から排除する方向にあったとみられる。このときの大海人皇子の推定年齢は36歳だ。

こうして本来ならば最有力の皇位継承者である大海人皇子は働き盛りの年齢で、地位を奪われ、近江王朝の中で孤立し、大友皇子と敵対する立場に追いやられたのだ。大海人皇子は何の失政・失態を犯したわけでもないのに、理由もなく失脚させられたわけだ。

 天智天皇のこうした強引なやり方に反感を抱き、また非情な権力者、天智天皇を快く思わない連中は、当然ながら大海人皇子を支持したのではないだろうか。それが天智天皇自身の死後、朝廷から離反、多くの親・大海人皇子勢力をつくりだしていくことにつながったのではないか。そして、その決着点が「壬申の乱」での近江朝の敗北だったのだ。

(参考資料)豊田有恒「大友皇子東下り」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説・壬申の乱」、神一行編「飛鳥時代の謎」 、遠山美都男「中大兄皇子」