大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 京阪神の6月消費者物価指数 大阪・神戸0.3%上昇 2015年6月28日 京阪神の6月消費者物価指数 大阪・神戸0.3%上昇 大阪府などが6月26日発表した京阪神の6月の消費者物価指数(速報値)は、生鮮食品を除く総合指数が大阪、神戸両市で前年同月に比べて上昇した。5月の指数が25カ月ぶりに下落した京都市は、前年同月と同じだった。大阪は26カ月連続、神戸市25カ月連続の上昇。2010年を100とした指数は大阪市103.1(前年同月比0.3%上昇)、神戸市103.1(同0.3%上昇)、京都市104.2だった。
  • 「大阪会議」の議題など検討 自民府連がチーム立ち上げ 2015年6月28日 「大阪会議」の議題など検討 自民府連がチーム立ち上げ 自民党大阪府連は6月26日、大阪府と大阪市、堺市の3首長や議員で成長戦略などを話し合う「大阪戦略調整会議」(大阪会議)に向けたプロジェクトチーム(PT)を立ち上げた。自民の府議や大阪市議、堺市議など16人で構成し、大阪会議に提案する議題などをまとめる。 同日の初会合では、大阪全体の経済成長をけん引する政策を提案していく方針を確認した。
  • 仁徳陵を世界遺産に 堺商工会議所などが市民の会 2015年6月28日 仁徳陵を世界遺産に 堺商工会議議所などが市民の会 堺市にある大山古墳(仁徳天皇陵古墳)などの世界文化遺産登録を目指し、堺商工会議所などは6月27日、「百舌鳥(もず)・古市古墳群の世界遺産登録を応援する市民の会」を設立する。前田憲司・堺商工会議所会頭、岸本幸臣・南大阪地域大学コンソーシアム理事長らが発起人となり、一般市民や企業・団体の入会を募る。会費無料。
  • ハルカス展望台で結婚式 7/1から受付、10月から実施 2015年6月27日 ハルカス展望台で結婚式 7/1から受付、10月から実施 近鉄不動産などは6月24日、高層ビル「あべのハルカス」の展望台を使った結婚式プランの提供を始めると発表した。7月1日から受け付け、10月から実施する。単発のイベントで結婚式を開いた際に反響が大きかったため、年間を通じて受け付けることにした。 展望台の吹き抜け部分で式を挙げ、近くの天王寺都ホテルでの披露宴に移る。ハルカス内のホテルのスイートルーム宿泊や衣装代なども込みで170万円から。近鉄グループでハルカスに入る近鉄百貨店本店が、結婚指輪や新生活に向けた家具選びなどをサポートする専属の担当者を付け、商品代金を割り引くサービスも用意している。
  • ギネス挑戦!道頓堀3000人盆踊り 振り付け初披露 2015年6月27日 ギネス挑戦!道頓堀3000人盆踊り 振り付け初披露 今年で開削400年を迎えた大阪・ミナミの道頓堀で、8月16日に3000人規模の「道頓堀盆おどりインターナショナル」(道頓堀商店会主催)が開催されるのを前に、大阪市内で6月25日、シンガー・ソングライター、嘉門達夫さんの「道頓堀へいらっしゃい!音頭」に合わせたオリジナルの踊りが、OSK日本歌劇団によって初披露された。 当日は「3000人が5分間同じ踊りをする」というギネス世界記録に挑戦する予定だが、参加者のうち5%が間違えれば失格になる。そのため、踊りやすさを重視し、常に両手を上下させるシンプルな振り付けになった。
  • 近畿7~9月は気温・降水量とも平年並み 2015年6月27日 近畿7~9月は気温・降水量とも平年並み 大阪管区気象台は6月24日、近畿地方の7~9月の3カ月予報を発表した。気温は平年並みで、降水量は平年並みが多い。7月は平年に比べ曇りや雨の日が多い。8月は、日本海側は平年に比べ晴れの日が少なく、太平洋側は平年同様晴れの日が多い。9月は数日の周期で天気が変わる。
  • 橋下氏「大阪会議」の開始時期巡り自民をけん制 2015年6月27日 橋下氏「大阪会議」の開始時期巡り自民をけん制 橋下徹大阪市長は6月25日、「大阪戦略調整会議」(大阪会議)の本格的な議論の開始時期を巡って、初会合に向けた準備会合を急ぐべきだとし、自民党を強くけん制した。 大阪府と、大阪、堺の両政令市の首長や議員が広域問題を話し合う大阪戦略調整会議について、9月議会で一定の結論を得るためには「月に10回や20回でも議論しないと進まない」と述べた。来週にも準備会合を開く希望を示す松井一郎府知事と歩調を合わせ、自民など野党の対応の遅さを批判した。自民党は大阪会議の本格的な議論の開始時期を9月と想定している。
  • 5月近畿の求人倍率1.10倍 7年9カ月ぶり高水準 2015年6月27日 5月近畿の求人倍率1.10倍 7年9カ月ぶり高水準 厚生労働省が6月26日発表した近畿2府4県の5月の有効求人倍率(季節調整値)は、前月から0.02㌽上昇の1.10倍だった。改善は2カ月連続で、2007年8月以来7年9カ月ぶりの高水準だった。 また、総務省が同日発表した近畿の5月の完全失業率(原数値)は、前年同月比0.3㌽低下の3.7%で、4カ月連続で改善した。 関西を訪れる訪日外国人観光客の増加で、大阪府を中心に宿泊業や小売業で求人が伸びたほか、夏の観光シーズンを前に、レジャー施設での接客業も求人が増加した。 府県別の有効求人倍率は、大阪府1.20倍、京都府1.12倍、滋賀県1.07倍、和歌山県1.06倍、奈良県0.98倍、兵庫県0.97倍だった。
  • USJがギフト用チケット「ギフト・パス」販売 2015年6月26日 USJがギフト用チケット「ギフト・パス」販売 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市此花区)は6月24日、有効期間中の好きな日に利用できる贈答用のチケット「ギフト・パス」を販売すると発表した。29日から公式ウェブサイトで購入できる。誕生日や入学・卒業祝いなどの需要を見込んでいる。 価格は大人7500円で、4~11歳の子供(小学生は12歳でも子供料金)5280円。それぞれ通常の1日券より300円高い。配送手数料として600円が別に必要となる。有効期限は1年間で、メッセージカードを添えて配送してもらえる。
  • 5月大阪ホテルの稼働率87.2%で最高 GW,外国人客増 2015年6月26日 5月大阪ホテル稼働率87.2%で最高  GW,外国人客増 大阪市内の主要13ホテルの5月の平均客室稼働率は、前年同月比1.2㌽高い87.2%だった。9カ月連続で前年実績を上回り、比較可能な2008年以降で5月として最高となった。ゴールデンウイーク(GW)の日並びが良く、国内旅行客の利用が好調だった。アジアを中心とした訪日外国人客も増え続けている。 稼働率は13ホテルのうち9カ所で前年を上回った。宿泊客を地域別にみると、中国が2.4倍に伸び、米国も3.7倍になった。客室単価も9%上がった。この結果、稼働率と売上高はともに5月の最高を記録した。日本経済新聞が報じた。
  • 近畿5月スーパー売上高4.6%増 2カ月連続プラス 2015年6月25日 近畿5月スーパー売上高4.6%増 2カ月連続プラス 日本スーパーマーケット協会など食品スーパー3団体が6月23日発表した近畿地方のスーパーの5月の既存店売上高(速報値)は前年同月比4.6%増だった。プラスは2カ月連続。前年は消費増税の反動で売り上げを落としたが、今年は影響が消えた。一部スーパーでは生鮮品や総菜売り場を対面式に改装し、産地などにこだわった商品の販売に力を入れた効果も出た。
  • 「大阪戦略調整会議」設置決定 堺市議会も議案可決 2015年6月25日 「大阪戦略調整会議」設置決定 堺市議会も議案可決 「大阪都構想」の対案として自民が提案した「大阪戦略調整会議」(大阪会議)が6月24日、設置されることが決まった。大阪府議会と大阪市議会に続き、同日の堺市議会でも関連議案を可決。来週中にも準備会合を開く。 大阪会議は大阪府、大阪市、堺市の3自治体の首長と議員9人ずつの計30人で構成。成長戦略や産業振興、交通政策について協議する仕組みだ。府と政令市の二重行政の解消を図る狙いがある。事務局は、府が7月に設置する政令市連携室などが担うことが想定されている。
  • 4~6月府内中小企業の景況感1年3カ月ぶり改善 2015年6月24日 4~6月 府内中小企業の景況感1年3カ月ぶり改善 大阪シティ信用金庫が6月22日発表した取引先中小企業の4~6月期の景況調査によると、業況判断指数(DI)は前期(1~3月期)から2.0㌽改善し、プラス4.9となった。改善は5期(1年3カ月)ぶり。同信金は「消費増税の影響が落ち着いたほか、景気回復が中小まで広がり始めている」と分析した。 一方、前回調査調査時点の4~6月期予想(プラス5.8㌽)は下回った。円安による原材料費の高騰や、関西電力による電気料金の値上げが予想より大きく響いた。7~9月期は、今期から2.3㌽改善のプラス7.2を予想した。 調査は6月上旬、大阪府内の1360社を対象に実施し、1354社から有効回答を得た。
  • 大阪「カジノ」誘致しぼむ 市は予算減額,府取り下げ 2015年6月24日 大阪「カジノ」誘致しぼむ 市は予算減額,府取り下げ 「大阪経済活性化の起爆剤」と期待されていたカジノを含む統合型リゾート施設(IR)の誘致が暗礁に乗り上げた。建設に向けた調査費の予算が6月10日の大阪市議会で、7600万円の予算案が経済効果の調査などに絞った3000円万円に大幅に減額修正して可決された。また、これを受け大阪府が当初、大阪市と折半する予定だった調査費に関する予算案自体を取り下げたからだ。 横浜市などライバル候補地の準備が進む中、大阪のIR誘致の機運は、旗振り役だった橋下徹氏の政界引退表明とともに、急速にしぼんでいる。
  • 天神祭「ギャルみこし」今年は歴代担ぎ手の記念巡行 2015年6月23日 天神祭「ギャルみこし」今年は初の歴代担ぎ手の記念巡行 大阪・天神祭恒例の「ギャルみこし」は35年目の今年、初めて歴代の担ぎ手だけの記念巡行になる。1984年の第4回以降の担ぎ手約110人の「元ギャル」が「ギャルみこしオールスター」として、天神祭の宵宮の前日(7月23日)にみこしを担いで天神橋筋商店街を練り歩く。このため当日は30代、40代、そして50代の「元ギャル」も参加するという。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。