大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 大阪府内の1~3月訪日客数 推計83%増の130万人 2015年6月12日 大阪府内の1~3月訪日客数 推計83%増の130万人 大阪観光局は6月9日、1~3月に大阪府内を訪れた外国人客数が2014年1~3月に比べて83%増の130万人との推計を発表した。円安や関西国際空港への格安航空会社(LCC)の就航便数が急増し、中国、香港の客数が増えたためという。 同局の溝端宏理事長は、15年の客数は目標の380万人を上回り、450万人ぐらいになると予測している。日本政府観光局(JNTO)の推計によると、1~3月に日本全国を訪れた外国人客数は413万人だった。
  • IR予算案取り下げ 構想、当面足踏みか 大阪府議会 2015年6月12日 IR予算案取り下げ 構想、当面足踏みか 大阪府議会 大阪府と大阪市が人工島「夢洲(ゆめしま)」(大阪市此花区)に誘致を目指すカジノを含む統合型リゾート(IR)の調査費を、府が半額負担する予算案について、府は6月11日の府議会で取り下げた。10日の市議会で調査費が大幅に減額修正され、精査が必要と判断した。 IRは大阪維新の会代表の橋下徹市長が、大阪経済の起爆剤になると誘致を目指してきた府市連携の目玉政策の一つ。東京五輪(2020年)との一部同時開業を目指し、調査費7600万円を府市で折半する予算案を両議会に提出していた。
  • 大阪市議会で「大阪会議」設置案可決 維新が賛成 2015年6月11日 大阪市議会で「大阪会議」設置案可決 維新が賛成 大阪市議会は6月10日、「大阪都構想」の対案として自民が議員提案した「大阪戦略調整会議」(大阪会議)の設置条例案を可決した。大阪維新の会が方針転換し、自民、公明とともに賛成に回った。11日の大阪府議会、24日の堺市議会で同様の議案が可決されれば、今秋に大阪会議が設置される。大阪会議は府と大阪市、堺市が政策を協議する枠組みで、二重行政の解消が狙い。 一方、府と大阪市の政策調整を図る「府市連携局」の設置議案は否決された。松井一郎知事と橋下徹市長が府市両議会に提案したが、自民、公明、共産が「必要ない」と反対した。
  • 街照らすろうそくの明かり 西梅田でイベント 2015年6月11日 街照らすろうそくの明かり   西梅田でイベント 建物の明かりを消して、周辺にろうそくの火をともすイベント「100万人のキャンドルナイト@オオサカシティ」(毎日新聞社など主催)が6月10日、大阪市北区の西梅田一帯であった。LEDなどの電飾とは少し異なる、やさしい約1万5000本のろうそくの明かりに、親子連れやカップルらが見入っていた。このイベントは、環境について考えてもらおうと2005年に始まり今年で10周年を迎えた。
  • 仁徳天皇陵の濠浄化へ工業用水 堺市が利用を検討 2015年6月10日 仁徳天皇陵の濠浄化へ工業用水 堺市が利用を検討 「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録を目指す堺市が、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の濠(ほり)の水質改善に、工業用水の利用を検討している。水位が低下しプランクトンが異常発生すると、アオコで水が濁り景観に影響することから、堺市は以前に効果のあった工業用水の活用を再び注目した。登録審査に水質は影響しないが、市河川水路課は登録の後押しをしたいとしている。 古墳管理は宮内庁の管轄だが、堺市も協力して水質浄化に取り組んできた。今回、堺市が検討するのは、井戸水と工業用水を1日400㌧ずつ、計800㌧を放水する案だ。水量は現在と同じだが、観光客が集まる古墳南側は、工業用水の放水口に近くとくに浄化が期待できる。
  • 「大阪会議」条例案 維新が賛成表明 府議会総務委 2015年6月10日 「大阪会議」条例案 維新が賛成表明 府議会総務委 大阪府議会総務委員会が開かれ、自民党が「都構想」の対案として上程した「大阪戦略調整会議」(大阪会議)の設置条例案について質疑があった。自民は他会派からの指摘を受け、11日に修正案を提出する。大阪維新の会は、大阪市議会に続き賛成する方針を表明した。 大阪会議は府と大阪、堺両市の首長、3議会の議員の計30人で構成。成長戦略や広域行政を協議する機関。
  • 繁昌亭が9月から開業以来の値上げ 一般で500円高に 2015年6月10日 繁昌亭が9月から開業以来の値上げ 一般で500円高に 上方落語協会(桂文枝会長)は6月9日、天満天神繁昌亭(大阪市北区)の昼席の一般料金について、9月16日から現行の2500円(前売り2000円)を3000円(同2500円)に値上げすると発表した。2006年の開業以来、値上げは初めて。 協会によると、消費増税や物価の上昇で繁昌亭の維持費などがかさんだほか、協会会館(同区)の運営費も上昇。協会の2014年度決算が赤字になったため、値上げを決断したとしている。65歳以上は2000円を2500円に、身体障害者と高校・大学生は1800円を2000円に値上げする。小中学生の1500円は据え置く。
  • 5月近畿の企業倒産8%減 過去25年間で最少 2015年6月9日 5月近畿の企業倒産8%減  過去25年間で最少 東京商工リサーチは6月8日、近畿2府4県で5月に倒産した企業(負債額1000万円以上)の件数は前年同月比8.0%減の185件で、5月としては過去25年間で最少だったと発表した。負債総額は11.4%増の304億円だった。 負債総額が増加したのは奈良県などが出資する第三セクター奈良県林業基金(奈良市)が約105億円の負債を抱え、民事再生法の適用を申請したため。 府県別の倒産件数は、京都、兵庫、奈良の3府県が前年同月に比べ増加。大阪府と滋賀県は減少し、和歌山は変わらなかった。
  • 府市両議会に自民が「大阪会議」修正案提出へ 2015年6月9日 府市両議会に自民が「大阪会議」修正案提出へ 自民党の大阪府議団と大阪市議団は6月8日、「大阪戦略調整会議」(大阪会議)の設置条例案について、府市両議会に修正案を提出する方針を決めた。大阪会議は府と大阪市、堺市が二重行政の解消などを協議する枠組みだが、他会派から「3府市の予算編成権などを侵害し、違法性がある」との指摘が出ていた。大阪維新の会も設置に前向きといわれ、修正案は今週の両議会で可決する公算が大きい。
  • 空襲の悲惨さを伝えよう! 利用客と千羽鶴イベント 2015年6月8日 空襲の悲惨さを伝えよう!利用客と千羽鶴イベント 太平洋戦争時の空襲では大阪市内を走る路面電車も大きな被害を受けた。大阪市交通局は戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えようと、地下鉄心斎橋、梅田、なんばの3駅で、6月7日から7月19日までの毎日曜日、利用客に千羽鶴を折ってもらうイベントを実施する。 7日、心斎橋の会場では、親子連れなどが立ち寄り、色とりどりの鶴を折る姿が見られた。これらの千羽鶴は8月5日に大阪市内で行われる戦没者追悼式などへ献納するという。 大阪市交通局によると、太平洋戦争末期の度重なる空襲で、車両工場や車庫、車両などが焼け、壊滅的な被害を受けた。また、1945年3月の大阪大空襲の時には地下鉄で被災者を乗せた「救援電車」が走ったといわれる。
  • 近畿の出生率4府県で低下 1.55の和歌山だけが上昇 2015年6月8日 近畿の出生率4府県で低下 1.55の和歌山だけが上昇 厚生労働省が6月5日発表した2014年の人口動態統計では、近畿2府4県のうち兵庫、大阪、奈良、京都の4府県で、合計特殊出生率が13年に比べて低下した。和歌山だけが上昇、滋賀県は横ばいだった。 和歌山は1.55で近畿では最も高く、前年から0.03㌽上昇した。京都は1.24と前年に比べ0.02㌽低下し、東京に次いで全国で2番目に低かった。奈良は1.27で前年から0.04㌽低下した。滋賀は1.53で横ばい。このほか、兵庫が1.41、大阪は1・31でそれぞれ0.01㌽下がった。
  • 塩野義製薬 大阪・摂津市に新工場 16年度稼働 2015年6月8日 塩野義製薬 大阪・摂津市に新工場 16年度稼働 塩野義製薬は大阪府摂津市に製材工場を建設する。約26億円を投じ、2016年度をめどに稼働させる。主力の抗うつ剤「サインバルタ」などの生産能力を20億錠に倍増させる。 摂津工場の敷地内でこのほど、3階建てで延べ床面積4000平方㍍の新製造棟を着工した。隣接地に空きスペースを用意し、さらなる増産も検討している。
  • 「堺ツーデーマーチ」開幕 1823人が歴史と文化を堪能 2015年6月8日 「堺ツーデーマーチ」開幕 1823人が歴史と文化を堪能 堺市堺区の大仙公園を主会場に6月6日開幕した「第10回堺ツーデーマーチ」(堺市、日本ウォーキング協会、朝日新聞社など主催)。1823人の参加者は5つのコースに分かれ、古墳群や神社、遺跡など堺の名所を歩いて巡った。 スタート・ゴール地点の大仙公園は、市が世界文化遺産登録を目指す古墳群の、仁徳陵と履中陵に挟まれている公園内を巡る3㌔のコースから35㌔のコースが用意された。中では仁徳陵1周コース(3㌔)に人気が集まり、3班に分かれて計100人が参加した。 最終日の7日は茶人・千利休や歌人・与謝野晶子ゆかりの施設や旧堺灯台などを巡る32~3㌔のコースがある。
  • 天神祭の奉納花火「5000発」再び ネット通じ資金集め 2015年6月7日 天神祭の奉納花火「5000発」再び  ネット通じ資金集め 日本三大祭「天神祭」(大阪市、7月24・25日)の花火実行委員会が、初の試みとしてインターネット上で資金を集めるクラウドファンディング(CF)を活用し、奉納花火の協賛金を募っている。 企業や個人からの協賛金が減ったため、2008年ごろから、それまでより1000発減らし4000発になっている奉納花火の打ち上げ本数を再び5000発に増やし、祭りを盛り上げたいとしている。 実行委は250万円を目標にしている。期限は7月15日。協賛金額に応じて、観覧席のチケットや記念品を贈呈する。大阪天満宮の天神祭は毎年約130万人が訪れる。
  • 高槻市・梶原台場は長州藩士らの上洛防ぐのが目的? 2015年6月7日 高槻市・梶原台場は長州藩士らの上洛防ぐのが目的? 幕末の動乱期、高槻につくられた砲台「梶原台場」の素顔に迫る資料展「幕末の梶原台場と長州藩の上洛」が高槻市城内町の市立しろあと歴史館で開かれている。8月2日まで。期間中、同館学芸員の連続講座がある。 台場は上から見ると、星の形をした西洋の築城方式で築かれた砲台のこと。江戸末期に外国船の来航が相次ぎ、海防を目的に幕府の勝海舟の指導などで各藩が築造した。 高槻市の阪急京都線上牧駅西南側の梶原、上牧、神内にまたがる地区に東西300㍍、南北200㍍ほどの「梶原台場」がつくられた。ただ、この梶原台場は淀川沿岸からやや離れており、海防というよりは、倒幕をを狙う長州藩の藩士らの上洛を防ぐのが真の目的だったとみられている。 会場には地元の寺院や国土地理院に保管されている梶原台場の絵図の写しや文書類を、幕末の国内情勢の説明板を付けて展示の関西の台場の配置、現在の様子なども写真や図で分かりやすく展示している。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。