大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 世界一・日本一技術持つ企業21社集結 魅力発信 2015年3月4日 世界一・日本一技術持つ企業21社が集結 魅力発信 大阪わかものハローワークなどは3月5日午後1時半~午後5時、大阪市北区角田町の阪急グランドビル26階で、学生らを対象にした企業研究会「世界一・日本一企業集まる!」を開く。国内や世界で、独自技術やシェアのナンバーワンを誇る大阪府内の中堅・中小企業21社がそれぞれの魅力を発信する。大学の学部・院や専修学校などに在学中の学生・留学生と、就職活動中の35歳未満が対象。参加無料。
  • JR西日本「エキマルシェ新大阪」3/4オープン 2015年3月3日 JR西日本「エキマルシェ新大阪」3/4オープン JR西日本は3月2日、新大阪駅在来線構内に4日オープンする駅ナカ商業施設「エキマルシェ新大阪」を報道陣に公開した。江崎グリコ、サントリーなど地元企業直営のアンテナショップや、大阪名物のたこ焼き、串カツの老舗など26店が並び、新たな観光スポットしてにぎわいそうだ。 目玉はここでしか替えない限定商品。日清食品が運営する「チキラーハウス」チキンラーメン味のソフトクリーム(378円)を提供。菓子メーカーのユーハイムはリンゴやなると金時を使った洋風たい焼き「なにわ鯛焼きパイ」(各248円)を販売する。日本茶の老舗、宇治園はクリームパンで有名な八天堂と共同開発した抹茶味と、ほうじ茶味の「くりーむパン」(各250円)を売り出す。サントリーは米バーボン「ジムビーム」の直営バーを出店する。江崎グリコは調理場を併設し、プリッツを応用した揚げたて菓子「プリッタ」を限定販売する。 店舗面積は2200平方㍍と、JR西日本管内の駅ナカ商業施設で最大規模。2016年春には全36店に拡大し、年間70億円の売り上げを目指す。
  • 道頓堀のくいだおれビル 香港の投資ファンドが買収 2015年3月3日 道頓堀のくいだおれビル 香港の投資ファンドが買収 香港の投資ファンド、ダイナスティ・ホールディング・インターナショナルは3月2日、大阪・道頓堀の商業施設「中座くいだおれビル」を、東京建物不動産販売などが設立した特定目的会社から買収したと発表した。買収額は100億円前後とみられる。同ビルの前には道頓堀名物の人形「くいだおれ太郎」が立ち、飲食店などが入居する。 ダイナスティは中華圏の旅行会社などと提携し、中国や台湾、香港からの観光客を取り込みたい考え。中国人らに人気の家電製品や化粧品なども販売し、テナント収入の増加を目指す。
  • 高付加価値レタスを試験栽培 旧私のしごと館の中核事業 2015年3月1日 高付加価値レタスを試験栽培  旧私のしごと館の中核事業 関西文化学術研究都市で京都府が4月に開設する「けいはんなオープンイノベーションセンタ-」(旧 私のしごと館、木津川市、精華町)の中核事業の一つとして遺伝子組み換えによる高付加価値レタスを試験栽培する植物工場が設置されることが2月28日までに分かった。奈良先端科学技術大学院中心の研究グループが主体となる。抗酸化作用があるタンパク質「ヒトチオレドキシン1」を合成するレタスで、医薬品開発や機能性食品としての利用が期待される。11月に着工予定で、早ければ2016年12月までに工場を完成させ、レタス生産を開始する。
  • 連合大阪が「大阪都構想案に反対」を正式表明 2015年3月1日 連合大阪が「大阪都構想案に反対」を正式表明 大阪市を解体して5つの特別区に再編する大阪都構想案を巡り、連合大阪は2月28日、大阪市内でシンポジウムを開き、都構想案に反対することを正式に表明した。連合大阪の機関決定は初めて。見解は、北村亘・大阪大学大学院教授(行政学)が中心の研究会でまとめられた。 報告書では橋下徹知事(現・大阪市長)が2010年に提唱した当初は、近隣自治体を巻き込んだ構想だったにもかかわらず、今回住民投票にかけられる案は、府下の自治体がすべて外れ、「税収の恵まれない大阪市域の5分割」という内容に変質したと指摘。その結果、教育や福祉などの「現状の行政サービスを維持するだけでも、実施コストが増大する」などの問題点を挙げている。北村教授は「元々の都構想なら検討する余地が十分あると思っていたが、(いまの案で)イチかバチかの制度改革は危険だ」と語っている。 民主党の支持団体である連合大阪は、住民投票に先立つ4月の統一地方選では、都構想に反対する自民党候補も指示する方針だ。
  • グリコがJR新大阪駅ナカに調理場併設菓子店 2015年3月1日 グリコがJR新大阪駅ナカに調理場併設菓子店 江崎グリコはJR新大阪駅改札内に、調理場併設の菓子販売店「ぐりこ・や Kitchin エキマルシェ新大阪店」を3月4日に開店する。主力製品の「プリッツ」を応用した同店舗限定の揚げ菓子「Pritta(プリッタ)」を販売。出張ビジネスでの駅利用者を想定し、ビールなどに合うおつまみ用の味を充実させる。直径12㍉、長さ160㍉の円柱形、7本入り380円(消費税込み)。プリッタはスイーツタイプ、おつまみタイプなど全6種類そろえる。
  • ミキハウスが従業員1人最大50万円臨時ボーナス 2015年2月23日 ミキハウスが従業員1人最大50万円臨時ボーナス ベビー・子供服の「ミキハウス」を展開する三起商行(大阪府八尾市)の木村皓一社長は2月22日、全従業員に総額3億円超の臨時賞与を支給する方針を明らかにした。中華圏の旧正月「春節」旅行者はじめ訪日外国人向け商戦が好調なためで、パート従業員含めて1人当たり最大50万円程度を支給する。また、4月には月額1万円程度のベースアップを実施する予定で、新卒初任給も1万5000円引き上げるという。
  • 近畿大と大阪府が都市インフラ整備で包括連携協定 2015年2月23日 近畿大と大阪府が都市インフラ整備で包括連携協定 近畿大学と大阪府は、都市整備政策に関する包括連携協定を結んだ。理工学部の社会環境工学科といった土木系学科が中心となり、道路や下水道などの都市インフラについて府の都市整備部と共同で、研究活動や研修を実施する。近畿大が持つ土木技術の研究ノウハウを活用して、大阪府は都市インフラの管理・保守に役立てる方針だ。連携は大阪府が打ち出している地域の特性を生かしたインフラの維持・管理に向けた取り組み「地域維持管理連携プラットフォーム」の一環。府は2014年11月、大阪市立大学大学院工学研究所と大阪府南部の泉北・泉南エリアのインフラに関して包括連携協定を結んでいる。
  • 「外国人増えた」過半数 大商が大阪繁華街調査 2015年2月22日 「外国人増えた」過半数  大商が大阪繁華街調査 大阪商工会議所が大阪なんばエリアなどを訪れる外国人観光客の購買行動や小売り・飲食店の対応実態把握のために行った調査によると、店を訪れる外国人観光客が「増加傾向」「やや増加傾向」と回答した店は50.4%で2013年度比9.5ポイント増えていることが分かった。同様に中国人観光客も同18.3ポイント増の45.7%と増加していた。中国人観光客のの人気商品は、中国の有名ブロガーが紹介したブルゾンや和包丁・セラミック包丁、化粧品などだった。 大証の調査は14年11月4日~28日に実施した。「船場~なんば」「天王寺・あべの」の両地域の商店街などの飲食店など5279店が対象で、このうち864店から有効回答。  
  • USJ 14年度の入場者数 開業直後の1102万9000人突破 2015年2月20日 USJ 14年度の入場者数 開業直後の1102万9000人突破 テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」(USJ、大阪市此花区)の2014年度の入場者数が2月20日午前、過去最高を更新した。これまでの最高は開業直後の2001年度のの1102万9000人。14年7月に開業した映画「ハリー・ポッター」の世界を再現したエリアが人気を集め、月間入場者数は同月から7カ月連続で過去最高を更新。今年度は最終的に1200万人超えを見込む。記録更新の瞬間、園内では花火が上がり、人気キャラクターのエルモやスヌーピーが登場してお祝いムードを盛り上げた。
  • 大阪地区百貨店1月売上高2.2%増と7カ月連続のプラス 2015年2月20日 大阪地区百貨店1月売上高2.2%増と7カ月連続のプラス 日本百貨店協会が2月19日発表した大阪地区の百貨店売上高は、前年同月比2.2%増の686億円と7カ月連続プラスだった。伸び率は東京地区の0.7%を上回り、全国で最大。福袋などの初売りが盛況で、外国人観光客の来店が増えた。商品別では、外国人に人気が高い化粧品が15.4%増。高額商品の美術・宝飾・貴金属も16.7%増だった 神戸地区は2.4%減の143億円。京都地区はJR京都伊勢丹が計算方法を変更した影響もあり、13.2%減の210億円だった。なお、1月の全国百貨店売上高は既存店ベースで2.8%減となり10カ月連続で前年を下回った。東京と大阪はプラスとなったが、主要10都市以外の地方では5.5%減となり、大都市と地方の差が大きく開いた。
  • 近畿2カ月ぶり貿易赤字 LNGの輸入増加響く 2015年2月20日 近畿2カ月ぶり貿易赤字  LNGの輸入増加響く 大阪税関が2月19日発表した近畿2府4県の1月の貿易概況によると、輸出から輸入を差し引いた貿易収支(速報値)は756億円の赤字だった赤字は2カ月ぶり。発電などに使う液化天然ガス(LNG)の輸入増加が響いた。輸入額は前年同月比10.9%源の1兆3803億円。原油などは価格下落の影響で輸入額が大幅に減少したが、パプアニューギニアやナイジェリアからのLNGは増加した。輸出額が19.9%増の1兆3047億円で、中国やシンガポール向けスマートフォン向けメモリーや、中国向け液晶部品が1月として過去最高を更新した。
  • 関空1月の外国人旅客数38%増の55万人で最高更新 2015年2月19日 関空1月の外国人旅客数38%増の55万人で最高更新 新関西国際空港会社が2月18日発表した1月の関西国際空港の運営概況(速報値)によると、国際線の外国人旅客数は前年同月比38%増の55万7490人となり、1月として過去最高となった。アジアを中心とした訪日外国人は引き続き校長に推移するとみられ、2014年度は外国人旅客数が年度ベースで初めて日本人を上回りそうだ。 一方、国際線の日本人旅客数は同10%減の50万50人となり、13カ月連続で前年実績を下回った。円安で割高感のある海外旅行を控える流れが続いている。
  • 都構想視野に病院や学校の再編・整備に府が15億円計上 2015年2月18日 都構想視野に病院や学校の再編・整備に府が15億円計上 大阪府が2月16日発表した3兆2885億円の2015年度一般会計当初予算案によると、大阪都構想を視野に大阪市との連携を進める事業に計約15億円を計上していることが分かった。これは、松井一郎府知事幹事長を務める大阪維新の会が主張する大阪都構想を視野に、病院や学校の再編・整備など大阪市との連携を進める事業に充てられるもの。市立天王寺動物園の夜間開園へ向けた設備整備など、市の施設や事業に対する予算も含まれている。
  • 大阪・ミナミで春節休暇の中国人飲食・買物客らが急増 2015年2月18日 大阪・ミナミで春節休暇の中国人飲食・買物客らが急増 2月18日に始まる春節(中華圏の旧正月)を前に、すでに大阪・ミナミの観光名所周辺を中国人を中心としたインバウンド(訪日外国人)の姿が急増している。戎橋周辺、心斎橋筋商店街、道頓堀周辺、黒門市場、高島屋大阪店、ビックカメラなど様々な場所で、飲食店前で行列をつくり、家電販売店や免税店などで両手一杯に買い物を楽しむ姿が目立つ。昨年に比べ、格安航空会社の増便、ビザ緩和、免税対象品目の拡大が加わって、顧客数はもとより消費額も昨年を大幅に上回ることは間違いないだろう。  
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。