大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 大阪市営地下鉄240円区間「220円に」橋下市長が意向 2015年1月18日 大阪市営地下鉄240円区間「220円に」橋下市長が意向 大阪市の橋下市長は1月17日、運賃の値下げを検討していた市営地下鉄の第2区間について、現行の240円から「220円に下げていこうと思う」との考え方を示した。市内の街頭演説で述べた。地下鉄の民営化を目指す同市長は、初乗り運賃の引き下げを公約に掲げ、2014年4月、同運賃が200円から180円に下がっている。この際、第2区間以降は消費税分が価格転嫁されて10円値上がりしたため、初乗り運賃との格差が広がっている。運賃変更は市交通局の経営会議で決定される。
  • USJ入場者数2年連続で1000万人超え 15年は過去最高の公算 2015年1月14日 USJ 入場者数2年連続で1000万人超え 15年は過去最高の公算 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市此花区)は1月13日、2014年4月からの入場者数が1月12日時点で1000万人を超えたと発表した。1000万人超えは2年連続。14年7月15日に開業した人気映画「ハリー・ポッター」の新エリアが、訪日外国人観光客の誘致を含めて集客に大きく貢献した。順調に推移すれば、15年は入場者が過去最高だった開業初年度(平成13年度)の約1102万人を上回る見通しだ。
  • 近畿の14年企業倒産 件数で7.5%減・負債額で18.4%減 2015年1月13日 近畿の14年企業倒産 件数で7.5%減・負債額で18.4%減 東京商工リサーチによると、2014年の近畿2府4県の企業倒産件数は2490件で前年比7.5%減、負債総額は3246億3200万円で同18.4%減となった。滋賀県と和歌山県で増えたが、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県の2府2県で減少した。 14年の全国企業倒産(負債総額1000万円以上)は、件数で前年比10.3%減の9731件、負債総額で同32.6%減の1兆8740億6500万円だった。件数で6年連続で前年を下回り、1990年以来、24年ぶりに1万件を下回った。33都道府県で前年を下回った。負債総額では2年連続で前年を下回り、1990年以来、24年ぶりに2兆円を割り込んだ。負債100億円以上の大型倒産は7件(前年21件)にとどまり、負債1億円未満(構成比71.6%)中心に推移した。
  • 近畿の14年の企業倒産91年以降最少の負債総額3246億円 2015年1月10日 近畿の14年の企業倒産 91年以降最少の負債総額3246億円 東京商工リサーチが1月9日発表した近畿2府4県の2014年の企業倒産(負債総額1000万円以上)の負債総額は、前年比18.4%減の3246億円とバブル期の1991年移行で最少だった。件数も7.6%減の2490件と5年連続で減少。府県別でみると、滋賀、和歌山を除く4府県は件数、負債額がともに減少。滋賀と和歌山では、小売業や飲食業で倒産が増えた。
  • 大阪・天保山にレゴ社のテーマパーク 5月開業 2015年1月8日 大阪・天保山にレゴ社のテーマパーク 5月開業 大阪市港区の商業施設「天保山マーケットプレース」で1月7日、デンマークの人気ブロック玩具メーカー、レゴ社の屋内型テーマパーク「レゴランド・ディスカバリー・センター大阪」の起工式が開かれた。同施設3階に5月開業する予定。東京に続き、国内2例目。
  • USJ 1/30から入場料値上げ 大人7200円に 2015年1月6日 USJ  1/30から入場料値上げ 大人7200円に ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市)は1月5日、入場料を1月30日から値上げすると発表した。1日券の大人(12歳以上)は現行の6980円から7200円、子供は同4880円から4980円となる。消費税の増税分を除いた値上げは2014年1月以来。障害者料金や団体料金なども引き上げる。
  • 新春初競り 養殖マグロ安めの落札 大阪中央卸売市場 2015年1月5日 新春初競り 養殖マグロ安めの落札 大阪中央卸売市場 大阪市中央卸売市場(福島区)で1月5日早朝、新春恒例の初競りがあった。競り人の威勢のいい掛け声に合わせ、仲買人らが次々と水産物や野菜に値を付け競り落としていった。午前4時過ぎに始まったマグロの競りでは「大間産本マグロ」「シドニー産インドマグロ」などと産地と種類が書かれたマグロ計300本が競りにかけられた。卸業者によると、数年ぶりに天然の本マグロが登場。天然は1㌔約5000円、養殖は平年よりやや安めの1㌔3000~1500円で落札された。
  • 「リニア大阪延伸」国費で経済効果など調査 来年度予算に初計上 2015年1月4日 「リニア大阪延伸」国費で経済効果など調査 来年度予算に初計上 政府は1月3日、JR東海が2027年の東京(品川)~名古屋間の開業を目指して2014年に着工したリニア中央新幹線について、大阪まで延伸開業した場合の経済効果などを調べる費用を来年度予算案に計上する方針を固めた。大阪延伸の関連費用を国が計上するのは初めて。政府与党内にはリニアの前倒し開業を促すため、JR東海が自己負担する建設費を財政支援する案も浮上しており、大阪延伸関連の国費投入は波紋を呼びそうだ。 来年度予算案に盛り込んだのは、リニアを含む高速交通ネットワーク形成の影響をつかむための調査費で、数千万円を計上する見込み。東京~名古屋間と、大阪まで延伸した場合の経済効果を調べるほか、リニア全線開業に伴う首都圏・中部圏・近畿圏の一体化が既存の新幹線網などを通じて全国に波及する効果も検討する。
  • 関西を医療革新の拠点に 関経連が行動計画を策定へ 2015年1月1日 関西を医療革新の拠点に  関経連が行動計画を策定へ 関西経済連合会の森詳介会長は、関西が世界最先端の医療イノベーション(技術革新)拠点となることを目指し、産官学の連携強化などを柱とするアクションプランを策定する方針を明らかにした。関経連などが2月5、6日に京都市で開催する関西財界セミナーでは二つの分科会で医療がテーマとなっており、この場での議論を踏まえて拠点化への道筋を示す。アクションプランは、規制緩和によって医療産業の集積と発展を進め、既存の研究機関などとの連携を強化することでイノベーション拠点となり、関西経済の活性化につなげるまでの工程を具体的に示す内容とする。
  • USJ 14年度はハリポタ効果で開業以来の1100万人超え 2014年12月30日 USJ  14年度はハリポタ効果で開業以来の1100万人超え ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(大阪市、USJ)は12月29日、12月の入場者数がioo万人を超え、同月として過去最高を記録(実数は非公表)したことを明らかにした。この結果、今年4月からの入場者数は2015年1月半ばごろに1000万人を超える見通しで、2014年度は開業直後の01年度に記録した約1100万人を超え過去最高となるのは確実だ。7月から各月の入場記録を更新し続けるのは、7月15日にオープンした「ハリー・ポッター」の新エリアの人気だ。31日夜には花火の演出や、音楽ライブで盛り上げる年越しイベントを実施する。年に1度の夜通し営業で、さらなる上積みを狙う。
  • 関空・伊丹の運営権審査 20社通過 連合体づくり進むか 2014年12月28日 関空・伊丹の運営権審査  20社通過  連合体づくり進むか 新関西国際空港会社が関空と大阪国際(伊丹)空港の運営権売却を巡る事前審査の結果を公表し、20社が通過した。これを受け今後、通過した国内企業と外資の空港運営会社などの企業連合体づくりの動きが本格化しそうだ。一次入札の書類提出期限は2015年2月16日、6月ごろには獲得企業が決まる予定だ。16年1月の民間への移行に向けて、運営権売却は15年に重大な局面を迎える。 事前審査を通過した企業はオリックス、住友不動産、大和ハウス工業、東京急行電鉄、日本生命保険、丸紅、三井不動産、三菱商事、三菱地所、このほか英ヒースロー空港はじめドイツ、インドの空港の外資運営会社が名を連ねている。
  • 都構想の住民投票5月に 維新、統一選同時は断念 2014年12月28日 都構想の住民投票5月に  維新、統一選同時は断念 大阪維新の会の橋下徹代表(大阪市長)らは12月27日、公明党と大阪市内で協議し、大阪都構想の是非を問う住民投票の実施時期について、当初検討していた2015年4月12日投開票の大阪府議選・市議選との同日実施を見送り、先に延ばす方針を伝えた。関係者によると、5月に実施したい以降で17日を軸に検討しているという。都構想の是非が単一争点になってしまうとして統一地方選と重ねないよう求めた公明党に配慮したという。協議は大阪市議会の会派控室で行われ、維新側は松井一郎幹事長(大阪府知事)らが同席、公明側は大阪府議団と市議団の幹部2人が出席した。
  • 名産「温州ミカン」使い商品開発し地域活性化の起爆剤に 2014年12月27日 名産「温州ミカン」使い商品開発し地域活性化の起爆剤に 大阪府和泉市の農家の女性グループが設立した農業法人が中心になって開発した名産・温州ミカンを材料にした商品が地域活性化の”起爆剤”として脚光を浴びつつある。この中心になっているのが2001年、和泉市内の道の駅を拠点に加工品の販売に取り組む農家の女性らが設立した農業法人「有限会社いずみの里」だ。そして、いずみの里と協力して商品開発したのが府泉州農と緑の総合事務所(岸和田市)。 開発され、商品化されたのが温州ミカンをペースト状にし、ドレッシングや和菓子、から揚げ、パンなどの材料として幅広い用途で使えるようにしたもの。「和泉市産まるごとみかんペースト」の名称で、1㌔の袋詰めで主に業務用に販売されている。 大阪府の担当者は「地域の農産物を自ら加工して流通に乗せる6次産業化が、地産地消と販路を拡大させる次のステップになる」としている。12月18日には、和泉市教育委員会や製パン業者と共同開発した「和泉みかんパン」が、小中学校31校と府立和泉支援学校で給食として出され、好評だったという。
  • 関西2015年度1.35%成長 民間4団体が予測 2014年12月27日 関西2015年度1.35%成長 民間4団体が予測 民間4団体による2015年度の関西の実質域内総生産(CRP)の成長率予測が12月26日出そろった。三菱東京UFJ銀行(MUTB)は15年度の成長率を1.5%と予測。アジア太平洋研究所(APIR)は1.8%、三菱UFJリサーチ&コンサルティング(MURC)は0.9%とそれぞれ予測した。日本総合研究所(JRI)も含めた4団体の平均は14年度の成長率がマイナス0.28%、15年度が1.35%だった。14年度は消費増税と夏場の天候不順でマイナス成長となったが、15年度は日銀による大規模な金融緩和の効果が景気を下支えし、経済の好循環生まれてくるとみる。ただ、その程度をどれだけ取り込めるか、その見方の違いが上下0.9ポイントの差となって表れた。  
  • 健康・医療産業に焦点 15年2月の関西財界セミナー 2014年12月26日 健康・医療産業に焦点 15年2月の関西財界セミナー 関西経済同友会と関西経済連合会は12月25日、2015年2月に開く「第53回関西財界セミナー」の概要を発表した。2月5~6日の2日間、国立京都国際会館(京都市左京区)で、「持続的な成長への挑戦–一極集中の是正と関西が持つ強みの発揮」をメーンテーマに開く。企業経営者ら約500人の参加を見込む。今回は初めて健康・医療産業に焦点を当て、二つの分科会で健康・医療イノベーション拠点への成長と企業の発展や、健康・医療ビジョンなどを議論し、最後に合同分科会として取りまとめる。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。