大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 一足早いXマス 大阪城公園に1.1万人のサンタクロース 2014年12月1日 一足早いXマス 大阪城公園に1.1万人のサンタクロース 難病の子供たちにクリスマスプレゼントを贈ろうと、大阪市中央区の大阪城公園に11月30日、約1万1000人のサンタクロースが集まった。園内を一斉に走り、赤く染まった会場は、一足早いクリスマスムードに包まれた。実はこれ、ボランティア団体「OSAKAあかるクラブ」主催のチャリティーイベントで、会場を埋めたサンタクロースは、赤い衣装を身にまといサンタに扮した市民ら。トナカイの格好をした参加者や犬のサンタもいた。今回が6回目だったが、参加人数は過去最多という。参加費の一部で大阪府内に入院する子供約800人に絵本やおもちゃをプレゼントする。
  • 鶴見区の花博会場がいまや「コスプレ聖地」 2014年11月30日 鶴見区の花博会場がいまや「コスプレ聖地」 1990年に花の万博が開かれた花博記念公園鶴見緑地(大阪市鶴見区)。当時造られた世界各国の建物や庭園を集合地として、週末や休日にはアニメやゲームのキャラクターになりきったコスプレーヤーが集まり、いまや同地が「コスプレの聖地」となっている。園内には欧米やアジアなど約50カ国の庭園がある。鶴見区によると、4年ほど前から口コミで評判が広がり、そのころから休日には必ずコスプレーヤーが集まるようになったという。今年4月以降、公園事務所や区はコスプレーヤーがトイレや公園の一角を占領する事態を改善するため、月に1度のペースで「コスプレ講習会&利用開放デー」を開始。幅広い交流の場ともなりつつある。
  • 「京町家」継承へ市・京商など連携 所有者支援ネット 2014年11月30日 「京町家」継承へ市・京商など連携  所有者支援ネット 京町家の円滑な保全・継承を目指し、京都市が京都市や京都商工会議所、京都経済同友会は、不動産や金融、法律などに関する各団体と連携し、「京町家等継承ネット」(代表・高田光雄京都大工学研究科教授)を設立した。相続や維持管理などの課題解決に向け、協力体制を強化するとともに、それぞれの業界で京町家に対する理解の向上を図る。
  • 阪急電鉄「駅ナカ」学童保育に参入 関西大手私鉄で初 2014年11月29日 阪急電鉄「駅ナカ」学童保育に参入  関西大手私鉄で初 阪急電鉄は11月28日、学童保育事業に参入すると発表した。2015年4月1日、大阪府豊中市の阪急豊中市駅構内に1号店を開業する。少子高齢化で、将来的に見込まれる沿線人口の減少を食い止めるため、子育て世代のニーズに応えて沿線の利便性を上げ、鉄道の利用客の増加につなげたい考えだ。 阪急電鉄によると、関西の大手私鉄で学童保育を手掛けるのは初めてという。今後5年間で10店舗まで増やす計画。施設の名称は「アフタースクールKippo(キッポ)」。小学1~6年生が対象で定員約40人。最長で正午から午後9時まで預けることができる。
  • “光の華”20万個のLEDが彩る饗宴 長居植物園 2014年11月29日 “光の華”20万個のLEDが彩る饗宴  長居植物園 20万個のLEDライトが夜の植物園を彩るイベント「ガーデンイルミネーション~花と光の饗宴~」が11月28日、長居公園(大阪市東住吉区)の市立長居植物園で始まった。5回目となる今回は、通常年末までの開催期間を2015年2月1日まで延長。2015年1月6日以降は新春バージョンに入れ替える。期間中、クラシックやアカペラグループのコンサートも開かれる。
  • 日生と住生が応札検討 関空・伊丹運営権売却入札 2014年11月29日 日生と住生が応札検討   関空・伊丹運営権売却入札 日本生命保険と住友生命保険は11月28日、新関西国際空港会社による関西国際・大阪(伊丹)両空港の運営権売却の入札に参加を検討していることを明らかにした。大阪市で両社が開いた決算記者会見の場で幹部が語った。運営権の最低落札価格は約2兆2000億円で、両社は採算性などを詳しく調べている。
  • 14年度予測 関西マイナス成長に下方修正 15年上方修正 2014年11月28日 14年度予測  関西マイナス成長に下方修正 15年上方修正 シンクタンクのアジア太平洋研究所(大阪市)は11月26日、2014年度の関西の実質域内成長率が前年度比0.1%減になるとの予測を発表した。0.9%増とした8月発表の前回予測から1.0ポイント下方修正した。消費増税に伴う駆け込み需要の反動減が、7~9月も想定以上に尾を引いた。機械や化学を中心に関西からの輸出額は伸びたが、物価上昇による民間支出の不調が景気を抑えると分析した。 一方、15年度の成長率予測は1.6%増から1.8%増へ0.2ポイント上方修正した。消費再増税が先送りされ、雇用や所得の環境が改善して物価上昇も緩やかになることで、民間支出が14年度に比べて増える見通しとなったため。関西を訪れる外国人観光客の消費も景気を下支えすると判断した。
  • 「ダイエー」消滅へ イオン完全子会社化 総会で承認 2014年11月27日 「ダイエー」消滅へ  イオン完全子会社化  総会で承認 イオン傘下のダイエーは11月26日、神戸市で臨時株主総会を開き、ダイエー株を保有する株主にイオン株割り当てる株式交換の提案を賛成多数で承認した。ダイエーはイオンの完全子会社となる。故中内功氏が1957年に創業したダイエーの看板は、2018年度までに姿を消すことになる。
  • 学校図書館を拡充 学力向上へ大阪市長と教育委が協議 2014年11月27日 学校図書館を拡充  学力向上へ大阪市長と教育委が協議 大阪市の教育施設について橋下徹市長と教育委員が話し合う協議会が11月25日、市役所であり、市立小中学校の図書館を大幅拡充する方針が固まった。橋下市長は「市の学校図書館は全国レベルでも低水準。学力向上の点からも力を入れる必要がある」と述べ、将来の予算化の考えを示した。 この日の協議会で大阪市教育委員会事務局は標準的な蔵書数を小学校で7000冊、中学校で8000冊と見積もった場合、現状では標準達成に年間約3億4000万円(3年計画)の経費がかかるとの試算を提示。橋下市長は「必要なものは、きちんと予算措置をする」とし、学校図書館の運営・管理のため、市民ボランティアも含めた人的サポート体制を整えると明らかにした。
  • 第9回繁昌亭大賞に林家花丸さん 奨励賞に桂吉坊さん 2014年11月26日 第9回繁昌亭大賞に林家花丸さん 奨励賞に桂吉坊さん 上方落語の定席「天満天神繁昌亭」(大阪市北区)からスターを生み出すための第9回繁昌亭大賞の選考委員会が11月25日、大阪市内で開かれ、大賞に林家花丸さん(49)が決まった。入門25年以下が対象で、支配人やマスコミ関係者ら委員9人で選んだ。対象に準じる奨励賞に桂吉坊さん(33)、創作賞は桂文鹿(ぶんろく)さん(40)と桂小鯛(こだい)さん(30) らが選ばれた。爆笑賞は該当者なしとなった。
  • 「天満切子を後世に伝えたい」病押し”職人技”伝授 2014年11月26日 「天満切子を後世に伝えたい」病押し” 職人技”伝授 高級カットグラス「天満切子(きりこ)」を後世に伝えたい–。大阪・天満の切子職人、宇良(うら)武一さん(77)が、がんと闘いながら弟子たちに製法や技術を教えている。戦前にガラスの街として栄えた天満には大勢の切子職人がいた。1950年ごろまでは窯元や工房が並び、薩摩切子などが作られていた。ところが、その後、安価な輸入グラスが流通し始め、次第に切子職人は姿を消していった。その結果、約25年前に宇良さんの工房だけとなった。「このままではガラスの街、天満の名前が消えてしまう」そんな思いが強くなった。 宇良さんは約5年前、胃がんと診断され、胃をすべて摘出した。昨年には腎臓も患い、起き上がれない日があるほど体調が悪化した。集中力が必要な切子をつくことはもうできなくなった。現在は唯一の弟子、岩谷昌美さん(40)が宇良さんの指導を時に受けながら、商品の天満切子を制作する。主婦だったが、10年以上前から宇良さんの教室に通い詰めて技を磨き、唯一の弟子と認められた。岩谷さんは「こんなきれいな切子は消したくない」と話す。「ガラスに囲まれた人生は幸せやった。後は天満切子を後世に残すだけ」と宇良さん。どうしても「天満切子」の光は消せない。こんな思いの師弟の奮闘が今日も続く。
  • あべのハルカス展望台200万人達成 予想大きく上回る 2014年11月25日 あべのハルカス展望台200万人達成  予想大きく上回る 日本一高いビル「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)の展望台で11月24日、来場者数が200万人達成し、記念式典が開かれた。今年3月7日の開業から8か月余りで大台を記録。ビルを運営する近畿日本鉄道は、開業から最初の1年間で180万人の来場を見込んでいたが、予想を大きく上回っており、大阪の新名所は今後もさらに記録を伸ばしそうだ。200万人目の来場者は友人3人と訪れた愛知県豊田市の主婦、岩藤雅子さん(59)。
  • 橋下、松井両氏出馬せず 都構想「投げ出し」回避へ 2014年11月24日 橋下、松井両氏出馬せず 都構想「投げ出し」回避へ 衆院選への立候補を検討していた橋下徹・大阪市長(維新の党共同代表)と松井一郎・大阪府知事(維新幹事長)は11月23日、出馬を見送ることを表明した。両氏は看板政策の大阪都構想を巡って決裂した公明党の前職が出馬する選挙区からの立候補を想定していたが、いずれも人気を約1年残しており、「投げ出し」との批判による都構想への悪影響のほか、維新の地方議員からの強い反発に配慮したとみられる。いずれにしても今回、知事と市長がそろって任期途中で辞職していれば、無責任との批判は免れず、府政・市政の混乱は必至で、そうした事態は回避された。
  • 海遊館で冬季のイルミネーション始まる 120万個のLED 2014年11月23日 海遊館で冬季のイルミネーション始める 120万個のLED 大阪市の水族館・海遊館(大阪市港区)で11月21日、冬季のイルミネーションが始まった。10回目となる今年は、過去最多の約120万個の発光ダイオード(LED)がが使われ、同施設を彩った。イルミネーションは2015年3月1日まで。
  • 関西の大型商業施設が相次ぎ大規模改装・刷新 2014年11月23日 関西の大型商業施設が相次ぎ大規模改装・刷新 関西の大型商業施設が相次いで大規模改装に乗り出す。阪急阪神百貨店は千里阪急(大阪府豊中市)の売り場を、およそ四半世紀ぶりに大改装する。南海電鉄は大阪・難波のなんばパークス(大阪市)に入る専門店の半分弱を入れ替えや改装を行う。売り場を変えることで、いままで手薄だった20~30代のニューファミリー層の取り込みを図る。 千里阪急は2015年3月末までに、売り場全体の約4割を改装する。総投資額は約6億5000万円。なんばパ-クスは数億円かけて約230ある専門店の3割にあたる60店舗を入れ替え、70店舗程度を改修する。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。