大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 外国人受け入れ病院支援へ大阪府が多言語コールセンター設置 2019年2月6日 外国人受け入れ病院支援へ大阪府が多言語コールセンター設置 大阪府は新年度から、急増する外国人患者を受け入れる医療機関を支援するため、24時間対応が可能な多言語コールセンターを新たに設置する方針を決めた。 大阪を訪れる外国人旅行者は急増しており、2017年で1,100万人を超えた。これに伴い増えているのが府内の、医療機関を受診する外国人旅行者。こうした状況を受け、日本語でのやり取りが難しい外国人を受け入れる医療機関を支援しようというもの。 コールセンターでは府内の救急病院などを対象に、外国人患者との会話を手助けすることにしていて、英語、中国語、韓国語、スペイン語、ポルトガル語の5カ国語で対応できる体制を整備する方針。
  • 近畿の18年求人倍率1.59倍 過去4番目の高水準 2019年2月5日 近畿の18年求人倍率1.59倍 過去4番目の高水準 大阪労働局のまとめによると、近畿地方の2018年1年間の平均の有効求人倍率は1.59倍と前年を0.15ポイント上回り、1969年に次ぐ過去4番目の高い水準となった。 府県別では大阪府が1.76倍(前年比+0.19)、京都府が1.57倍(同+0.07)、奈良県が1.46倍(同+0.17)、兵庫県が1.43倍(同+0.15)、滋賀県が1.38倍(同+0.09)、和歌山県が1.34倍(同+0.07)だった。 今後の見通しについて大阪労働局では、慢性的な人手不足を背景に基調は変わらず、雇用情勢は堅調に推移するとみている。
  • 一般会計2兆6,000億円 大阪府2019年度予算案の概要判明 2019年2月4日 一般会計2兆6,000億円 大阪府2019年度予算案の概要判明 大阪府の2019年度の予算案の概要が明らかになった。一般会計の総額は今年度を300億円ほど上回る、およそ2兆6,000億円とする方針だ。 主な内訳は6月に大阪で開催される「G20サミット」の府民への周知や開催の支援などにおよそ3億6,000万円、カジノを含む統合型リゾート、IR施設を大阪に誘致するため、事業者の募集に向けた調査や、国への申請に必要な計画の作成にかかる費用などとして、3億円余を計上している。 また、2025年に開催される「大阪・関西万博」の実施主体となる博覧会協会の負担金や、府民の機運を醸成するための事業経費などとして2億円余を盛り込んでいる。 一方、財源不足のため、財政調整基金の取り崩しは340億円ほどに上ると見込んでいる。
  • 「第八回介護甲子園 決勝大会」日本介護協会 リードと共催 2019年2月3日 「第八回介護甲子園 決勝大会」日本介護協会 リードと共催 リードエグジビションジャパン(本社:東京都新宿区)は2月20日から3日間、大阪市住之江区のインテックス大阪で「第5回介護&看護EXPO大阪」を開催、会場内で21日「第八回介護甲子園決勝大会」(主催:一般社団法人日本介護協会/共済:リードエグジビションジャパン)を開催する。 介護甲子園は介護施設の各事業所が取り組みを発表、投票により日本一を決める日本最大級の介護コンテスト。今回は過去最多の7,218の介護事業所が全国各地よりエントリー。各事業所が取り組んでいるオリジナルの工夫・事例を発表する。予選を勝ち抜いた6事業所が競演する。会場内で全観戦者が投票し、日本一を決定する。
  • 「大阪・関西万博」協会設立 事務総長にジェトロ石毛氏 2019年2月1日 「大阪・関西万博」協会設立 事務総長にジェトロ石毛氏 「大阪・関西万博」の実施主体となる「2025年日本国際博覧会協会」が1月30日設立され、会長に経団連の中西会長が選任された。中西会長は、万博の成功に向けて官民が結束して準備を本格化させる考えを示した。また、博覧会協会の事務総長に日本貿易振興機構(ジェトロ)の石毛博行理事長を充てることを明らかにした。 この日、万博会場の夢洲(ゆめしま)に近い大阪府の咲洲(さきしま)庁舎の、博覧会協会の事務室となる部屋の前に「二〇二五年日本国際博覧会協会」の看板が掛けられた。 なお設立総会と理事会には経団連の中西会長、関経連(関西経済連合会)の松本会長ら経済界の代表、大阪府の松井知事、大阪市の吉村市長などが出席した。
  • 関西のホテルで全室禁煙化の動き広がる 2019年1月31日 関西のホテルで全室禁煙化の動き広がる 関西のホテルで客室をすべて禁煙にする動きが広がっている。これは外国人旅行者の増加や健康志向の高まりを受けたもの。 阪急阪神ホテルズは18の直営ホテルのうち、ホテル阪急インターナショナルや大阪新阪急ホテルなど15のホテル合わせて4,380の客室を、今年8月をめどにすべて禁煙にする。また、大和ハウス工業グループのダイワロイヤルホテルグランデ京都がすべて客室を禁煙にした。 このほか、リーガロイヤルホテルグループのリーが中之島インは、2019年度中にすべての客室を禁煙にすることを検討中だ。
  • 外国人旅行者の関西での29年度消費1.25兆円 2019年1月30日 外国人旅行者の関西での29年度消費1.25兆円 日銀大阪支店の調査レポートによると、外国人旅行者の平成29年度の関西での消費額が前年度比18%余増の1兆2,566億円に上った。これは、外国人旅行者による関西での買い物や宿泊料金、飲食費や交通費を合わせたもの。 また、帰国した外国人旅行者が、国境を越えたインターネット通販を利用する動きが拡大しており、関西では化粧品などの輸出が増えているという。 関西での外国人旅行者の消費の増加は、引き続き関西経済をけん引する役割の一端を担っている。
  • 近畿の18年貿易収支4年連続黒字 輸出が過去最高 2019年1月29日 近畿の18年貿易収支4年連続黒字 輸出が過去最高 大阪税関が発表した近畿2府4県の2018年の貿易概況(速報)によると、貿易収支は1兆7,895億円の黒字で、4年連続の黒字を達成した。 輸出額は中国向けの自動車用のエンジンや、米国向けのリチウムイオン電池の原料が増加したことなどから、前年比3.5%増の17兆1,947億円と、比較可能な統計のある1979年以降で、11年ぶりに過去最高を更新した。 一方、輸入額は原油やLNG(液化天然ガス)の価格が上昇したことなどから、前年比5.1%増の15兆4,052億円となった。この結果、輸出額から輸入額を差し引いた2018年の貿易収支は前年比8.2%減少したが、4年連続の黒字となった。
  • 大坂なおみ初優勝 テニス全豪オープン 2019年1月27日 大坂なおみ初優勝 テニス全豪オープン テニスの4大大会、全豪オープンは1月26日、オーストラリア・メルボルンで女子シングルスの決勝戦が行われ、世界4位の大坂なおみ選手が世界6位のチェコのぺトラ・クビトバ選手にセットカウント2対1で勝ち、優勝した。 対戦相手のクビトバ選手は左利きの選手で、強力なサーブを持ち味に、今大会は6試合連続のストレート勝ちで、決勝に進出していた。 試合は大坂選手のストレート勝ち目前の第2セット、クビトバ選手の猛反撃に遭い、流れがクビトバ選手に傾き5―7で奪われ、セットカウント1-1のタイとなった。大坂選手にとって勝利目前、勝利の女神が掌中から逃げて行ったような極めて嫌な流れになった。 だが、最終の第3セットで大坂選手は冷静さを取り戻し、相手を上回る精度の高いストロークでミスを誘い、再び流れを引き寄せて6-4で取って、勝利を収めた。 大坂選手は昨年の全米オープンに続く4大大会2大会連続2回目の優勝を果たした。この結果、大坂選手は大会後の世界ランキングで男女を通じてシングルスでアジア初の1位になることが確定した。
  • 万博略称は「大阪・関西万博」関西の魅力アピール 2019年1月27日 万博略称は「大阪・関西万博」関西の魅力アピール 経済産業省は1月24日、2025年に大阪で開催される万博について、正式名称を「2025年日本国際博覧会」とすると発表した。また、略称について大阪だけでなく、関西全体の魅力をアピールする狙いから「大阪・関西万博」とすることも決めた。 1月30日に国と地元自治体、経済界が、経団連の中西会長をトップとする「2025年日本国際博覧会協会」を設立する予定で、官民一体で準備を進める。
  • センバツ 履正社高校など近畿から出場6校決定 2019年1月26日 センバツ 履正社高校など近畿から出場6校決定 3月23日に甲子園球場で開幕するセンバツ高校野球大会に出場する32校が発表された。近畿からはセンバツ出場最多の41回目となる京都の龍谷大平安高校など合わせて6校の出場が決まった。 兵庫の明石商業は3年ぶり2回目、大阪の履正社高校は2年ぶり8回目、智弁和歌山高校は2年連続13回目、京都の福知山成美高校は5年ぶり3回目、市立和歌山高校は3年ぶり6回目のそれぞれ出場となる。大会は休養日を含めて12日間の日程で行われる。 なお、史上初となるセンバツ3連覇を目指していた大阪桐蔭高校は選出されなかった。
  • インフルエンザ患者 近畿で増え続ける 滋賀などで最多 2019年1月26日 インフルエンザ患者 近畿で増え続ける 滋賀などで最多 本格的な流行期に入ったインフルエンザが、近畿2府4県すべてで患者が増え続けている。中でも滋賀県、兵庫県、京都府、大阪府では昨年の最も多かった時期を上回り、過去10年で最も多くなっている。 近畿各府県のまとめによると、1月20日までの1週間に調査対象となっているおよそ790の医療機関で、新たにインフルエンザと診断された患者数は合わせて3万7,812人で、前の週と比べておよそ1万人増えた。 その結果、1医療機関当たりの平均では滋賀県が57.02人、兵庫県が51.84人、京都府が.51.17人、大阪府が46.09人、和歌山県が41人、奈良県が38.13人で、すべての府県で前の週を上回った。
  • 大阪市 中央区の児童相談所を建て替え機に浪速区へ移転 2019年1月25日 大阪市 中央区の児童相談所を建て替え機に浪速区へ移転 大阪市は2024年の開設を目指して建て替える大阪市中央区の児童相談所「こども相談センター」について、より広い用地を確保できるとして、建て替えに合わせて市内の浪速区に移転する方針を決めた。 浪速区の「浪速青少年会館」の跡地に、こども相談センターを建て替える。同センターには虐待から子どもを一時的に守る「一時保護所」が併設されるが、国は子どもを支援する体制を強化するため、保護所の個室化を進めていて、新しいセンターもこうした方針に沿って建てられる予定。
  • 「関西元気文化圏賞」大賞に本庶さん 2019年1月23日 「関西元気文化圏賞」大賞に本庶さん 関西の経済団体などが、日本を元気にすることに貢献した関西ゆかりの個人や団体に贈る「関西元気文化圏賞」の大賞に昨年、ノーベル医学・生理学賞を受賞した京都大学特別教授の本庶佑さんが選ばれた。 また、特別賞に昨年夏の全国高校野球選手権で史上初となる2度目の春夏連覇の偉業を達成した大阪桐蔭高校硬式野球部と、ジャイアントパンダの16頭目の繁殖に成功した和歌山県白浜町の動物公園、アドベンチャーワールドが選ばれた。
  • NTTドコモ 大阪府民向け健活マイレージに参画 2019年1月22日 NTTドコモ 大阪府民向け健活マイレージに参画 NTTドコモ関西支社とドコモ・ヘルスケアは、大阪府が府民向けに大阪市内などで1月21日から提供する「おおさか健活マイレージ アスマイル」に、協力企業として参画し、dポイントや歩数計、歩数計アプリなどを提供するとともに、ドコモショップを通じてこのプログラムの認知拡大を図り、府民のプログラム参加を促進する。 専用のスマートフォンアプリ「アスマイル」をダウンロードすることで始められる。1月21日から5月31日まで大阪市、門真市、岬町で先行、10月から府内すべての市町村で展開する。 大阪府は府内在住の18歳以上の方を対象に、ポイントを貯めながら楽しくおトクに健康づくりにチャレンジできる府民サービスとして、このプログラムの提供を決めた。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。