大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 都構想・総合区「どちらにも反対」が33%で最多 2018年4月4日 都構想・総合区「どちらにも反対」が33%で最多 NHKが大阪府民を対象に行った世論調査によると、大阪維新の会が実現を目指す「大阪都構想」に賛成の人は27%、公明党が導入を主張する「総合区」に賛成の人は18%にとどまり、「どちらにも反対」が33%で最も多かった。 「どちらにも反対」と答えた人に理由を尋ねたところ、「制度を変えると無駄なコストがかかるから」が35%、「3年前の住民投票ですでに結論が出ているから」が31%などだった。 これを大阪市内の人だけを対象にみると、「どちらにも反対」が42%で最も多く、反対者の比率がさらに高まった。「大阪都構想に賛成」が28%、「総合区に賛成」が19%、「わからない・無回答」が12%だった。 調査は3月23日から3日間、大阪府内の18歳以上の男女を対象に、コンピューターで無作為に抽出した番号に電話をかける「RDD」という方法で実施した。1694人を対象に行われ、1056人(62.3%)から回答を得た。
  • 地銀で総資産6位「関西みらいFG」4/1始動 2018年4月3日 地銀で総資産6位「関西みらいFG」4/1始動 関西みらいフィナンシャルグループ(FG)が4月1日、本格始動した。傘下で大阪を地盤とする近畿大阪銀行、関西アーバン銀行、兵庫を地盤とするみなと銀行が同日付で経営統合したもの。 これにより、総資産は2017年3月期末の合算で11兆6000億円となり、地銀で全国6位、関西で首位となる。
  • 民営地下跌「大阪メトロ」4/1スタート 2018年4月2日 民営地下鉄「大阪メトロ」4/1スタート 大阪市営地下鉄が4月1日から民営化され、「大阪メトロ」としてスタートした。公営の地下鉄が民営化されるのは全国で初めて。 今回民営化されたのは、大阪市営地下鉄が運営してきた地下鉄の8つの路線と、新交通システムのニュートラム。 地下鉄の民営化にあわせて市バスの事業も民営化され、大阪メトロの子会社「大阪シティバス」が事業を引き継いだ。バス事業は民営化後も原則10年間は、今の路線や運行本数の水準が維持されることになっている。
  • 「なにわ筋線」運行鉄道2社の負担割合決まる 2018年4月1日 「なにわ筋線」運行2社の負担割合決まる 2031年春の開業が予定されている「なにわ筋線」の運行2社の出資負担割合が決まった。出資総額330億円のうち南海電鉄が56%、JR西日本が44%をそれぞれ負担することになった。 なにわ筋線は、新大阪駅と関西空港のアクセスを改善するため、大阪・梅田と北側と難波付近の間のおよそ7.5㌔㍍を結ぶ大阪都心部の新たな鉄道路線。総事業費はおよそ3300億円が見込まれている。
  • 吹田操車場跡地「健都」に健康増進広場オープン 2018年4月1日 吹田操車場跡地「健都」に健康増進広場オープン 大阪府の吹田市と摂津市にまたがる旧国鉄の吹田操車場跡地、「健都」の愛称で開発が進められている「北大阪健康医療都市」の吹田市側の公園で3月31日、健康遊具やウォーキングコースを備えた広場がオープンした。 これは、その健都に移転する予定の国立循環器病研究センターと市立吹田市民病院監修のもと、同市が整備した広場。同広場には27の健康遊具が設置され、徐々にトレーニングを進められるように並び方も工夫されている。また、ウォーキングコースは、上り下りの傾斜や距離が異なる複数のコースを選ぶことができる。
  • 大阪商業地の地価 ミナミが初めてキタを上回る 2018年3月28日 大阪商業地の地価 ミナミが初めてキタを上回る 国土交通省がまとめた1月1日時点の地価公示によると、今年は大阪の商業地でミナミの調査地点の最高値が、昭和45年の地価公示の開始以来、初めてキタを上回った。外国人旅行者の増加によるもの。この結果、大阪の商業地の価格は5年連続で値上がりし、上昇率は平均4.9%だった。一方、住宅地はマンションの需要増で、平均0.1%値上がりし、10年ぶりに上昇した。 商業地で最も高かったのはミナミの中央区宗右衛門町の「クリサス心斎橋」で1平方㍍当たり1580万円と前年同期より290万円値上がりした。キタの今年の最高値は前年と同様、北区大深町「グランフロント大阪南館」だったが、1平方㍍当たり1500万円にとどまった また、商業地で最も上昇率が高かったのもミナミで、中央区道頓堀1丁目の「づぼらや」で、上昇率は27.5%だった。
  • スポーツ活性化へ関西の18大学が連携組織発足 2018年3月27日 スポーツ活性化へ関西の18大学が連携組織発足 関西の18大学が連携してスポーツの活性化を目指す組織「大学スポーツコンソーシアムKANSAI」が4月に発足することになり、大阪府茨木市で3月25日、記念のシンポジウムが開かれた。 同組織には立命館大学や関西大学など関西の18大学が参画、観客数やテレビ放映を増やしてビジネスとして成立させたり、地域の活動と連携したりすることで、大学スポーツを活性化しようといもの。これにより、大学スポーツから関西を元気にすることを目指している。また、国(スポーツ庁)も来年度中に全国規模の連携組織を立ち上げる方針だ。
  • 大阪市のサクラ 観測史上最速で満開に 2018年3月27日 大阪市のサクラ 観測史上最速で満開に 大阪管区気象台は3月26日、大阪市の大阪城公園のソメイヨシノの標本木で枝の先まで花が咲き始めているのを確認し、昭和32年に観測を始めてから最も早く満開になったと発表した。平年より10日、昨年より11日早い。 近畿地方ではこの先1週間も平年より気温が高い日が多いと予想され、各地のサクラも例年より早く順次、満開になる見込み。
  • 関空国際線 今夏はピークに1週間1366便と過去最多に 2018年3月26日 関空国際線 今夏はピークに1週間1366便と過去最多に 関西空港の運営会社、関西エアポートによると、今夏(3月25~10月27日)関西空港を発着する国際線の定期便は9月のピーク時に1週間当たり旅客便が1219便、貨物便が147便の合わせて1366便と、前年同期に比べて60便余り増えて過去最高になる見通しだ。 エールフランス航空がパリ便を毎日運航し、日本航空もハワイのホノルル線を増便するほか、国際貨物便も増えているため。また、国際旅客便ででLCC(格安航空会社)が占める割合は4割で、LCCによる路線拡大も便数の増加につながっている。
  • 大阪への万博誘致で関西駐在の総領事らにアピール 2018年3月25日 大阪への万博誘致で関西駐在の総領事らにアピール 2025年万博の大阪への誘致を目指し外務省はこのほど、関西に駐在する各国の総領事らを招き、大阪・住之江区で会合を開いた。参加したおよそ80人を前に、外務省の石川和秀関西担当大使は「大阪と関西の強みをよくご存知の皆さんに、ぜひ本国の関係者に伝えていただき、大阪・万博に賛同するよう働きかけていただきたい」と支持を訴えた。 また、大阪市の吉村市長は「途上国も含めて、世界中の人が参加できる万博を目指したい」と大阪の計画をアピールした。 大阪府や大阪市は国などと連携しながら、開催国が決まる11月のBIE(博覧会国際事務局)総会に向けて、各国への働き掛けを強めていく。
  • LCCの「ピーチ」と「バニラ」2年後めどに統合 2018年3月24日 LCCの「ピーチ」と「バニラ」2年後めどに統合 ANAホールディングスは3月22日、傘下のLCC「ピーチ・アビエーション」と「バニラ・エア」を、2年後の2020年3月末をめどに経営統合すると発表した。3社のトップが会見した。機材の運用や整備を共同で行うことなどにより経営基盤を強化し、今後成長が見込まれるアジア路線を拡大していくことになった。 統合は、関西空港が拠点のピーチ・アビエーションが、成田空港が拠点のバニラ・エアを吸収する形で行う。両社の売上高を合わせるとおよそ760億円、LCCとして国内首位となり、ANAホールディングスでは3年後の2021年3月末には、新会社の売上高を1500億円へ倍増したいとしている。
  • 大阪と和歌山でサクラ開花 大阪は最も早く 2018年3月21日 大阪と和歌山でサクラ開花 大阪は最も早く 全国で相次ぎ平年より早めのサクラの開花が伝えられているが、近畿地方でも3月20日、大阪市と和歌山市でサクラの開花が発表された。気象台によると、大阪市では昨年より10日、平年より8日、和歌山市では昨年より10日、平年より6日、いずれも早くなっている。 3月に入って平年を上回る温かさが続いていたため、サクラのつぼみが順調に育っていたとしている。大阪市では観測を始めた昭和28年以降、平成14年と並んで最も早い開花となった。 大阪市と和歌山市のサクラは、1週間から10日間ほどで満開を迎える見通し。
  • 太陽の塔内部 耐震工事終わり3/19から一般公開 2018年3月19日 太陽の塔内部 耐震工事終わり3/19から一般公開 1970年の大阪万博のシンボル「太陽の塔」(大阪府吹田市)の内部の耐震工事が終わり、3月19日から一般に公開されるのを前に18日、関係者が出席して記念式典が行われた。 同式典には大阪府の松井知事や、大阪にゆかりのあるドリームズ・カム・トゥルーなどが出席し関係者らがテープカットして、党の内部の公開を祝った。この後、関係者らは塔の内部に入り、生物が進化していく過程を表現した高さ41mの「生命の樹」や、古代の「三葉虫」などの色とりどりの模型を興味深そうに眺めていた。 一般公開は事前の申し込みが必要で、大阪府によると4月末~5月初旬の大型連休まですでに予約で埋まっているという。
  • 「JR総持寺」駅が開業 大阪府茨木市 2018年3月18日 「JR総持寺」駅が開業 大阪府茨木市 大阪府茨木市で3月17日、JR東海道線に新しい駅「JR総持寺」駅が開業し、記念の式典が行われた。同駅はJR西日本と茨木市がおよそ66億円をかけて整備を進めてきたもので、東海道線の「茨木」駅と「摂津富田」駅の間に新設された。 駅の周辺ではマンション開発も進められていて、JR西日本では1日あたりの利用者を1万9000人と見込んでいる。
  • 八尾市とセブン&アイG「地域活性化包括連携協定」締結 2018年3月17日 八尾市とセブン&アイG「地域活性化包括連携協定」締結 大阪府八尾市とイトーヨーカ堂(本社:東京都千代田区)、セブン&アイ・クリエイトリンク(本社:東京都千代田区)、セブン‐イレブン・ジャパン(本社:東京都千代田区)は3月16日、「地域活性化包括連携協定」を締結した。八尾市とセブン&アイグループは、八尾市の一層の活性化に資するため、緊密な相互連携と協働による活動を推進する。 両者は①地域活性化、市民サービスの向上に関すること②地産地消と市産品の販路拡大に関すること③地域への参画・市民協力の推進に関すること④地域防災・災害対策に関すること⑤子ども・青少年の育成に関すること⑥高齢者・障がい者の支援に関することなどで連携する。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。