大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 2019年のG20サミットの大阪開催決定 万博誘致に弾み 2018年2月21日 2019年のG20サミットの大阪開催決定 万博誘致に弾み 2019年に日本で初めて開催されるG20(主要20カ国)サミット首脳会議について、政府は6月末から7月初旬にかけて大阪で開くことを決めた。 大阪は1995年にAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議が開催され、ホテルなどの施設も充実していることが考慮されたものとみられる。 今回の決定を受け、大阪府、大阪市、経済界は受け入れ準備を進め、2025年の万博誘致活動に弾みをつけたい考えだ。 なお、政府はG20の財務相・中央銀行総裁会議を福岡市で開催することを決め、今後はほかの閣僚会合やその開催地の検討を本格化する方針。
  • 大阪中心部で児童急増 小学校に新校舎建設 2018年2月20日 大阪中心部で児童急増 小学校に新校舎建設 大阪市は、子どもの数が急増している市内中心部で小学校の教室が足りなくなり、一部の小学校で運動場に4階建てから5階建ての校舎を建設することを決めた。これは北区、中央区、西区などで高層マンションの建設が相次ぎ、医療施設ほか都心部にコンビニエンスストアやスーパーが出店していることで、生鮮・雑貨・実用品の調達でも利便性の高い都心部で居住したい世代が急増しているためだ。 市の教育委員会の試算によると、5年後の2023年には3つの区の26の小学校で、およそ160の教室が不足するという。こうした状況を受け、市は平成30年度の当初予算案におよそ15億円を計上し、小学校の敷地などに校舎を建設することを決めた。計画では市内の8つの小学校の運動場や隣接する土地に、新たに4階建てから5階建ての校舎を建設し、一部では1階部分に運動ができる空間を設けるという。 小学校の児童の急増に伴って、今後は都心部の中学校の教室も大きく不足する恐れがあり、市は公園や市立高校の跡地などを学校用地として活用することを検討していくとしている。
  • スリル満点、地上300㍍の空中散歩はいかが! 2018年2月19日 スリル満点、地上300㍍の空中散歩はいかが! 近鉄不動産は3月7日から、高さ300㍍の日本一高い「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)の最も高い場所に新たに設けたデッキを、命綱を付けて歩くアトラクションを有料で始める。来場者の増加につなげたい考え。 このアトラクションは新たに設置された幅60㌢、長さ20㍍のデッキを専用のユニフォームを着用したうえで、命綱を付けて歩くもの。地上300㍍の高さからおよそ7分間、真下や周囲に遮るものがない360度の眺望とスリルが味わえるという。
  • がんの最新治療「大阪重粒子線センター」完成 2018年2月18日 がんの最新治療「大阪重粒子線センター」完成 大阪府では初めてとなる重粒子線の最新がん治療施設「大阪重粒子線センター」(大阪市中央区)が完成し2月17日、記念式典が執り行われた。国内では6カ所目。式典では、松井知事が「府民や国内外の患者に最先端のがん医療を提供することが可能になった」などとあいさつした。 放射線の一種、重粒子線を使うがん治療は、がんの病巣部をピンポイントで狙って照射することができるため、従来の放射線と比べて効果が高く、正常な細胞組織へのダメージを極力抑えられるとされている。 このため、照射を受ける回数や日数が少なくて済み、入院の必要がなく、1年間で最大1800人に治療を行うことができるという。 同センターでは3月1日から、他の医療機関から紹介された患者を受け付ける予定。
  • 春節を日本で 関空に中国から続々観光客 2018年2月17日 春節を日本で  関空に中国から続々観光客 2月15日から春節(旧正月)の休みに入った中国から、連休を日本で過ごそうという観光客が関西空港へ続々と到着している。21日までの休みの間、中華圏からの観光客でにぎわう見通しだ。 大阪入国管理局関西空港支局によると、2017年のこの期間に関西空港から入国した外国人は16万8550人で、航空各社では今年も同程度の利用者を見込んでいる。 大阪・天王寺公園では16日、関西に住む中国人でつくる団体が2017年から始めた中国の旧正月を祝う春節祭を開き、中国伝統の二胡の演奏や獅子舞で新年を祝った。この春節祭は18日まで。
  • 松井知事菅官房長官と会談 世界遺産登録に協力要請 2018年2月16日 松井知事 菅官房長官と会談 世界遺産登録に協力要請 大阪府の松井知事は2月14日、菅官房長官と会談し、大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」について、世界文化遺産への登録実現に協力要請した。これに対し菅官房長官は前向きに対応する旨、伝えた。政府は1月下旬に、世界最大級の規模の前方後円墳を含む大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」を、世界文化遺産としてユネスコに推薦書を提出している。 また同日、超党派の議員連盟の会合が国会内で開かれ、登録に向けて協力して取り組んでいくことを確認した。
  • 近畿の1月の企業倒産2カ月ぶりに前年下回る 2018年2月15日 近畿の1月の企業倒産2カ月ぶりに前年下回る 帝国データバンクのまとめによると、近畿2府4県の1月の企業倒産は166件(負債額1000万円以上)で前年同月比2.4%減となり、2カ月ぶりに前年同月を下回った。業種別では「サービス」や「建設」で減少した。 一方、負債総額は151億8600万円で前年同月比19.3%減少し、6カ月連続で前年同月を下回った。 ただ、先行きについては「人手不足と人件費の上昇が、物流業、小売業、飲食業などの中小零細企業の収益を圧迫することが懸念され、倒産件数が緩やかに増加していく可能性もある」と指摘している。
  • 羽生・井山「七冠」両氏に国民栄誉賞授与 2018年2月15日 羽生・井山「七冠」両氏に国民栄誉賞授与 将棋棋士の羽生善治氏(47)と、東大阪市出身の囲碁棋士の井山裕太氏(28)に2月13日、国民栄誉賞が授与された。 羽生氏は名人など7つのタイトルで前人未到の「永世七冠」を達成。井山氏は囲碁史上初の七大タイトル独占を2度にわたって果たしている。 首相官邸で行われた表彰式では、安倍首相から表彰状と、両氏の「七冠」にちなんで七宝(しっぽう)で彩られた硯(すずり)箱に、伝統工芸品の硯や筆などを収めたセットが手渡された。
  • 地下鉄民営化で沿線情報をアプリ配信 利用者増図る 2018年2月14日 地下鉄民営化で沿線情報をアプリ配信 利用者増図る 大阪市は4月に「Osaka Metro」の愛称で民営化する地下鉄をより多くの人に利用してもらおうと、沿線の街の情報などを配信するスマートフォン向けのアプリ「Otomo!」の提供を始めた。 このアプリでは、大阪の街のイベント情報やニュースが毎日配信されるほか、アプリを利用して貯めたマイルで景品が当たる抽選に参加できる。Otomo!は、大阪市交通局の関連サイトからダウンロードできる。
  • 関空がボーイング最新型機の就航先に 5月から運航 2018年2月13日 関空がボーイング最新型機の就航先に 5月から運航 関西エアポートはこのほど、ボーイングの最新型機B787-10の定期便の就航先として、関西国際空港が世界に先駆けて選定されたと発表した。この機材はシンガポール航空が運航する関西国際空港-シンガポール線で、5月に運航開始される予定。 ボーイングのこの最新型機は、2017年冬期スケジュール路線で運航されているエアバスA330-300型機と比べ、1便当たり提供座席数が約50席多い337席(ビジネスクラス36席、エコノミークラス301席)となる。
  • 民営地下鉄「Osaka Metro」の新会社社長に河井英明氏 2018年2月12日 民営地下鉄「Osaka Metro」の新会社社長に河井英明氏 大阪市の吉村市長は4月1日に民営化する地下鉄の新会社、愛称「Osaka Metro」の社長に、パナソニック顧問の河井英明氏(63)を任命することを決めたと発表した。河井氏は昭和52年に当時の松下電器産業に入社し、パナソニックCFO(最高財務責任者)などを務めた。 会見で河井氏は「いまの資産を有効に活用して地下鉄を発展させ、民営化して良かったと多くの方々に思っていただけるような結果を着実に出したい」と抱負を述べた。吉村市長は「公務員組織から民間への徹底した意識改革と、地下の空間を明るく元気にし、大阪経済成長の起点となるインフラに成長させてほしい」と語った。
  • 世界初 血管のもととなる「幹細胞」発見 大阪大G 2018年2月11日 世界初 血管のもととなる「幹細胞」発見 大阪大G 大阪大学微生物病研究所の高倉伸幸教授らのグループは、マウスを使った実験で、世界で初めて血管のもととなる「幹細胞」を見つけたと発表した。血管の再生や血管内部の細胞の異常が原因で起こる血友病などの病気の新たな治療法の開発などにつながる可能性があると期待されている。 これまで血管を人工的に再生するには、iPS細胞など万能細胞が必要だと考えられていた。
  • 関西の将来像などで意見交わす 京都で関西財界セミナー 2018年2月10日 関西の将来像などで意見交わす 京都で関西財界セミナー 関西経済連合会(関経連)と関西経済同友会は、京都市で2月8、9の両日、関西の企業経営者らが一堂に会する、第56回「関西財界セミナー」を開いた。今回は600人余りが参加し、大阪への誘致を目指す万博など、国際的なイベントを活用した関西の将来像や働き方改革などについて意見を交わした。 6つの分科会に分かれて行われた討議では、国際的なスポーツイベントが続く2019年からの3年間や、誘致を目指す万博を活用した関西の将来像のほか、働き方改革と生産性向上について、活発な意見を交わした。 このうち関西の将来像を考える分科会では万博後を見据えて、大阪のベイエリアを、未来の社会システムが集積するシリコンバレーのような場所にするべきだといった意見が出されていた。
  • 米カジノ運営会社が日本型IR計画を説明 地元企業と連携 2018年2月7日 米カジノ運営会社が日本型IR計画を説明 地元企業と連携 米国・ラスベガスに本社を置く、カジノを含むIR・統合型リゾート施設の運営会社「MGMリゾーツ・インターナショナル」のジェームス・ムーレン会長兼CEOが2月6日、大阪市内で記者会見した。 この中でムーレン会長は「大阪は国内外からのアクセスが良く、大阪の経済規模を考えると大規模なIRを実現できる」と述べ、「地元の企業と連携して、日本文化と調和したIRをつくりたい。豊かな食文化や大阪人の親しみやすい人柄を反映したものにしたい」とし、日本型のIRを目指す計画を明らかにした。
  • 地下鉄「わろてんか」のラッピング電車を運行 2018年2月4日 地下鉄「わろてんか」のラッピング電車を運行 大阪市営地下鉄は、NHKの連続テレビ小説「わろてんか」の放送が終盤に入るのに合わせて、2月2日から堺筋線でラッピング電車の運行を始めた。運行を始めたのは沿線にドラマとゆかりのある場所が点在している堺筋線の「天下茶屋」と乗り入れしている阪急電車の京都線「高槻市」間と、同千里線「北千里」間。 8両編成の電車のうち1両の車体には、ヒロインの北村てんを演じる葵わかなさんはじめ、番組のオープニングに登場する動物や小物などがにぎやかに描かれている。このラッピング電車は番組が終了する3月末まで運行する予定。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。