大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 大阪市の待機児童4年ぶり増加 申請9割が2歳以下 2016年5月29日 大阪市の待機児童4年ぶりに増加 申請9割が2歳以下 大阪市は5月26日、4月1日時点の待機児童数が前年度から56人増の273人と発表した。市全体の就学前児童数は減少しているが、保育ニーズの高まりにより、2歳以下の低年齢児の利用申し込みが増え、4年ぶりに増加に転じた。 1歳児が190人と最多で、0~2歳の低年齢児が246人と全体の9割を占めた。市は前年度に2013人分の利用枠を拡充したが、新規利用申し込みが前年より447人増えた。
  • ICT活用で行政効率化 大阪市が第1回戦略本部会議 2016年5月28日 ICT活用で行政効率化 大阪市が第1回戦略本部会議 大阪市役所で5月24日、「第1回大阪市ICT戦略本部会議」が行われ、ICT(情報通信技術)推進のため、各部署へのプロジェクター設置や全職員にパソコン上でのスケジュール管理を徹底させる方針を示した。 大阪市は、ICT活用による市民サービスの向上と行政運営の効率化を掲げ、4月1日付で新組織「ICT戦略室」を発足。この日は会議を”キックオフ”と位置付け、民間企業や大学との協働によるオープンデータ化や組織内のICT連携、ペーパーレス化など今後の取り組みを提示した。
  • 外資の大阪進出 過去最多 27年度はアジア中心に46件 2016年5月28日 外資の大阪進出 過去最多 27年度はアジア中心に46件 訪日外国人旅行客の急増を背景に、大阪に進出する外国企業が増えている。大阪商工会議所と大阪府市でつくる「大阪外国企業誘致センター」が、平成27年度に誘致に関わった外国企業数はアジアを中心に46件に上った。前年度より8件増え、2013年度の同センター設立以来、2年連続で過去最高を更新した。日本の製品や技術力に対する関心の高さも増加している要因だ。 同センターの誘致実績は累計426件。27年度の46件中、40件がアジア企業で、香港を含む中国が31件、韓国が5件などとなっている。
  • リニア中央新幹線の大阪延伸前倒しへ検討開始 自民特別委 2016年5月27日 リニア中央新幹線の大阪延伸前倒しへ検討開始 自民特別委 2027年の名古屋開業を目指すリニア中央新幹線について、自民党の特別委員会は5月24日、JR東海が2045年に計画している大阪延伸時期を前倒しするための検討を開始した。財政投融資の活用などでJR東海の資金負担を軽減する案が有力で、低金利を足掛かりに高速交通網の整備を加速させる。 政府・与党はJR東海の資金負担を軽減することで、延伸工事の早期着工が可能とみており、同社に検討を促す考え。 リニア中央新幹線の建設などはJR東海の自己資金で賄われ、27年の名古屋開業後は、経営体力回復のため、大阪延伸工事の着工まで一定期間を置くとみられている。
  • 新関空会社の最後の決算は最高業績 LCC誘致などが寄与 2016年5月26日 新関空会社の最後の決算は最高業績 LCC誘致などが寄与 新関西国際空港会社が5月24日発表した2016年3月期連結決算は、売上高が前年同期比20%増の1,845億円、営業利益は同34%増の592億円、当期利益は同50%増の294億円といずれも過去最高を記録した。 同社は4月、関西国際空港と大阪(伊丹)空港の運営権をオリックスなど計32社が出資した「関西エアポート」に移管しており、空港運営者としては最後の決算を最高業績で飾った。 インバウンド(訪日外国人旅行者)の増加で、関空の総旅客数は過去最多の2,405万人(前年度比20%増)となった。LCC誘致による関空の利用料収入増や、第1ターミナルの免税店エリアを1.4倍に拡大したことなどが寄与し、商業事業が大幅に伸びた。 一方、期末の有利子負債残高は前年比455億円減の8,652億円となり、会社設立前の2012年3月末から1,410億円減らした。2017年3月末には7,339億円とさらに減る見込み。
  • 閻魔さんに幸せ願う 長寶寺で市無形文化財行事 2016年5月25日 閻魔さんに幸せ願う 長寶寺で市無形文化財行事 大阪市平野区の長寶寺(ちょうほうじ)で5月18日、異色の、閻魔(えんま)大王に家内安全や健康などを願う「閻魔さんの日」があり、多くの参拝客でにぎわった。 同寺は本尊の十一面観音とともに閻魔大王を祀っており、年に一度、秘仏である本尊の公開に合わせ、閻魔大王にご利益を願う「閻魔大王の日」を行っている。行事は大阪市の無形文化財、同寺に伝わる閻魔大王の御宝印は有形文化財に指定されている。この閻魔大王の証(判)印を持つ者は地獄に落ちない-という言い伝えがあり、府内はもちろん、関東方面などからも多くの人が訪れた。
  • 中国・昆山展示会で19社・団体が大阪のモノづくりPR 2016年5月24日 中国・昆山展示会で19社・団体が大阪のモノづくりPR 環境保護や消費関連の製品・技術を紹介する展示会「中国(昆山)品牌産品進口交易会」が5月19~21日の3日間、江蘇省昆山市の花橋国際博覧中心で開催された。大阪府内に拠点を持つ19社・団体が26ブースを構え、大阪のモノづくりをアピールした。 同展には大阪府に関係する企業の中国ビジネス支援を行っている大阪府上海事務所が中心となり、会場に大阪企業団コーナーを設置。中国企業関係者らに3Dプリンターや工業用ロボット向けの部品、空気浄化装置などを紹介した。 中国メディアによると、同展示会には日本のほか、米国、ドイツ、韓国など42カ国・地域から約800社が参加した。
  • 近畿ブロック知事会議 若者流出防止へ「調査拡充を」 2016年5月23日 近畿ブロック知事会議 若者流出防止へ「調査拡充を」 近畿6府県と福井、三重、鳥取、徳島の10府県で構成する近畿ブロック知事会議が5月19日、大阪市内で開かれ、若者の流出防止策の一環として、国に調査の拡充を要望することを決めた。 大学卒業者の地域間移動をつかむ全国統計がなく、文部科学省の学校基本調査の項目として追加することを求める。 環太平洋経済連携協定(TPP)に関する情報開示も国に要望する。
  • ラオックス 南海難波駅改札内に免税店出店 2016年5月22日 ラオックス 南海難波駅改札内に免税店出店 総合免税店「Laox(ラオックス)」(東京都港区)が5月21日、南海電鉄難波駅3階の北改札内に出店した。同社が駅改札内に出店するのは全国初。 同店は、海外向け家電や化粧品、医薬品、日用品、ご当地土産などを販売する。店舗面積は約46平方㍍で、営業時間は午前8時~午後10時。 南海難波駅は、1日の利用者数が24万人を超え、関西国際空港と直結するターミナル駅。通勤・通学者のほか、増加する訪日外国人旅行客の双方のニーズに応える店舗を目指す。
  • 天神祭花火実行委が奉納花火の資金をネットで募る 2016年5月21日 天神祭花火実行委が奉納花火の資金をネットで募る 天神祭花火実行委員会は、インターネットで資金を募るクラウドファンディングで協賛金の募集を始めた。資金の減少で4,000発に落ち込んでいた奉納花火を5,000発に戻そうと昨年初めてインターネットで資金を募った結果、計画を達成。同規模の花火の継続に挑戦する。 今年は途絶えていた神事の復興も掲げており、呼び掛けにも一段と熱が入っている。募集は専用サイト「READY FOR(レディーフォー)」で行い、7月15日までに350万円集まれば達成となる。 資金提供者には、金額に応じて「大篝船」を描いたハンカチや、天神祭で登場する「御迎人形」の一つ「羽柴秀吉」を模した人形、間近で花火を楽しめる拝観席の券などを贈る。
  • 近大開発の「うなぎ味のナマズ」LCCピーチの機内食に 2016年5月20日 近大開発の「うなぎ味のナマズ」LCCピーチの機内食に 格安航空会社(LCC)ピーチ・アビエーションが、近畿大学が開発した「うなぎ味のなまず」を使った機内食を販売する。6月1日から8月末まで限定約700食。 ご飯の上に錦糸卵を散らし、肉厚なナマズのかば焼きを3枚乗せた。この夏のメニューでは最高の1,350円。本物のうなぎを使用すれば2,000円を超えるという。 関西~那覇、成田~福岡など飛行時間が90分以上の国内線と、一部を除く国際線で販売する。
  • 新梅田シティで園児らが農業体験 サツマイモの苗植える 2016年5月19日 新梅田シティで園児らが農業体験 サツマイモの苗植える 超高層の梅田スカイビルがそびえる大阪市北区の新梅田シティで5月16日、敷地内の畑を使った地元園児の農業体験があった。60人が参加し、都心でも豊かな自然の下で農作物が育つ環境について学んだ。 敷地北側に広がる「新・里山」(約8,000平方㍍)で、中大淀幼稚園の園児がサツマイモ(鳴門金時)の苗を植えた。 里山は2006年に積水ハウスをはじめ地権者によって造られ、今年で10周年を迎えた。毎年、田畑の農作業体験の場として、近隣の幼稚園、小学校の園児、児童に提供されている。
  • 若い世代が希望持てる施策を 関西経済同友会新代表幹事 2016年5月18日 若い世代が希望持てる施策を 関西経済同友会新代表幹事 関西経済同友会が5月16日開いた理事会で新たな代表幹事に選任された鈴木博之・丸一鋼管会長(70)は、夏の参院選を巡る論点について、若い世代が将来に希望を持てる施策を考えるべきだ-との認識を示した。 関西経済同友会は、高齢者の意見が過剰に政治に反映されやすい「シルバーデモクラシー」を問題視し、「次世代志向の政策を考える」委員会を新設して国に提言することにしている。
  • 1日4万8,500人余 大型連休中の関空利用者過去最多 2016年5月17日 1日4万8,500人余 大型連休中の関空利用者過去最多 大型連休の期間中、関西空港で国際線を利用した人は1日あたり4万8,500人余で、過去最多となった。有休を2日間とれば最長で10日間の休みを取れる日の並びもあって観光客が増えたとみられる。
  • オール阪神・巨人が4度目の「上方漫才大賞」受賞 2016年5月16日 オール阪神・巨人が4度目の「上方漫才大賞」受賞 「第51回上方漫才大賞」(ラジオ大阪、関西テレビ主催)の発表会が5月14日、大阪市北区の梅田芸術劇場メインホールで行われ、漫才コンビ、オール阪神・巨人が、歴代最多の4度目の大賞に選ばれた。奨励賞は銀シャリ、新人賞はコマンダンテだった。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。