大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 大阪などで本を通じた交流「ブックフェスタ」開幕 2016年4月19日 大阪などで本を通じた交流「ブックフェスタ」開幕 カフェ、病院、寺などにメッセージを添えたお気に入りの本を持ち寄り、ホンの貸し借りを通じて交流を楽しむ私設図書館「まちライブラリー」のイベント「ブックフェスタ in 関西」が4月16日、大阪など近畿2府4県で始まった。 まちライブラリーと公共図書館、書店などが協力して展開する”本の祭典”で、5月15日までの会期中、大阪府内でも絵本の読み聞かせやワークショップなどが予定されている。 まちライブラリーは、大阪府立大客員研究員の礒井純充(いそい・よしみつ)氏らが提唱し、平成23年に大阪で始まった。本には寄贈者のメッセージカードが付けられ、読んだ人はカードに感想を書き込むのが特徴で、見知らぬ人同士が交流できるのが魅力だ。大阪市内では初日の16日に12のイベントが行われた。
  • 関西電力が熊本地震被災地へ電源車・復旧チーム派遣 2016年4月18日 関西電力が熊本地震被災地へ電源車・復旧チーム派遣 熊本地震により、現地での生活への影響が広がる中、関西電力は4月17日、停電している被災地の復旧に向けた支援チームを派遣した。九州電力の要請を受け、停電している地域に電気を送る発電機車など作業車23台と、社員47人を派遣した。 熊本県内では7万7900戸が停電となっており、復旧作業が続けられている。しかし、引き続き活発な地震活動による余震の頻発などで、鉄塔の倒壊の恐れがあることから、関西電力のチームは被災地で、万が一に備えたバックアップ電源として協力するという。 約1週間の滞在予定で、状況によっては損傷している配電設備など復旧作業の支援にもあたりたいとしている。
  • 13年ぶり大阪上演、劇団四季『キャッツ』が成功祈願 2016年4月17日 13年ぶり大阪上演、劇団四季『キャッツ』が成功祈願 7月16日から大阪で4度目、13年ぶりに上演される劇団四季の『キャッツ』。その成功を祈願して、キャストらが今宮戎神社(大阪市浪速区)に参拝した。 神社の厳かな雰囲気とは全く馴染まない、キャッツの派手なステージ衣装を身にまとい、いずれも神妙な面持ちで参拝したメンバーたちとのコンストラストが印象的だった。 キャッツは1983年の初演時は日本初のロングラン公演として注目を集め、大阪では前回約1年10カ月で公演回数688回、66万9000人の動員を記録している。今回の公演は大阪四季劇場(大阪市北区)で11月30日まで。前売りは4月23日から。
  • ルクア大阪 初年度来館者数7700万人 売上は計画通り 2016年4月16日 ルクア大阪 初年度来館者数7700万人 売上は計画通り JR大阪駅の商業施設「ルクア大阪」(大阪市北区)の初年度来館者数が7700万人に達した。2015年4月1日~16年3月31日の来館者数で、目標の7000万人を開業後11カ月で突破。最終的に東館「ルクア」単体の前年度入店客数のほぼ2倍となる規模となった。売上高は目標の770億円に対して98.8%の761億円とわずかに届かなかったが、ほぼ計画通りだった。 ルクア大阪は大阪駅北口の「ノースゲートビル」東側にある「ルクア」と西側にある「ルクアイーレ」を一体にした商業施設。駅型では国内最大級の店舗数薬360店、売り場面積約5万3000平方㍍を誇る。ルクアは2011年5月、ルクアイーレは15年4月にそれぞれオープンした。
  • 全国初 大阪・大正区が修学旅行をコーディネート 2016年4月16日 全国初 大阪・大正区が修学旅行をコーディネート 大阪市大正区が全国で初めて、修学旅行を区内の工場見学に呼び込む事業を始める。区は学校からコーディネート料をもらって、区内42社の工場のツアーを組んで案内もする。 すでに12の学校から予約が入っているということで、区は将来、見学した生徒が住んでくれればと期待を寄せている。
  • シャープがロボット型携帯電話「ロボホン」発売 2016年4月15日 シャープがロボット型携帯電話「ロボホン」発売 シャープは4月14日、ロボット型の携帯電話「RoBoHoN(ロボホン)」を5月26日に発売すると発表した。体長19.5㌢、重さ390㌘の小型ロボットで、ニ足歩行もできる。価格は19万8000円(税別)。専用サイトなどを通じて14日から予約販売を始めた。 受話器として使えるほか、メールを送受信したり、静止画や動画を撮影したり、画像を投影するプロジェクター機能も備えている。
  • 「王羲之から空海へ」日中の名筆集結 市立美術館で特別展 2016年4月14日 「王羲之から空海へ」日中の名筆集結 市立美術館で特別展 日本と中国の名筆を集めた特別展「王羲之から空海へ 日中の名筆 漢字とかなの競演」が4月12~5月22日まで、大阪市立美術館で開かれる。期間中、中国書蹟約90点、日本書蹟約120点、途中の展示替えにより国宝や重要文化財含む約230点が展示される。 中国からは王羲之(おうぎし)から鷗陽詢(おうようじゅん)ら唐代初めの三大家、蘇軾(そしょく)ら宋代の四大家を経て明代末期~清代初めの王鐸(おうたく) らに至る大家の作品群、日本から空海ら三筆、小野道風ら三跡から、「高野切(こうやぎれ)」をはじめとする平安期古筆の名作を経て、江戸時代にいたる作品群を揃える。 開館時間は9時30分~17時。月曜休館(休日の場合は翌平日)。入館料は一般1300円、高校・大学生1000円、中学生以下無料。 大阪市立美術館80周年、日本書芸院創立70周年記念事業として開催。
  • シャープ 17年春の新卒採用約2倍の290人を計画 2016年4月13日 シャープ 17年春の新卒採用約2倍の290人を計画 経営再建中のシャープは4月11日、2017年春の新卒採用数を2016年春の実績(151人)の2倍弱の290人とする計画を発表した。内訳は大卒200人(16年121人)、高卒90人(同30人)。 シャープは2015年に3200人以上の希望退職を断行、若手の自主退職も相次いでいる。こうした状況を受け、事業を推進する各カンパニーから聞き取りを行ったところ、人員増を求める声が高まっていたという。この採用計画は、親会社となることが決まった台湾の鴻海精密工業に報告し、11日発表した。
  • 大阪・船場の「花外楼」五代ゆかりの地として人気 2016年4月12日 大阪・船場の「花外楼」五代ゆかりの地として人気 大阪・船場の日本料理店「花外楼(かがいろう)」(大阪市中央区)が4月10日、改築から1周年を迎えた。改築、営業再開後は学者や専門家など識者を招き昼食付きイベントを開催。加えて、4月2日に終了したNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」ゆかりの場所として、訪れる人が多い。 同店は3月に話題となった五代友厚(薩摩藩出身で大阪商工会議所初代会頭)をテーマとしたことから、最大60人の定員を上回る申し込みがあったという。五代の出身地、鹿児島からも団体の来店があった。また今年に入って同ドラマで五代を演じ、大きな話題となり、一躍”時の人”となったディーン・フジオカさんも雑誌の取材を兼ねて来店している。 花外楼は1830(天保元)年、料理旅館「加賀伊」として創業。1875(明治8)年には大久保利通、木戸孝允らによる「大阪会議」がここで行われた。その成功を喜んだ木戸が「花外楼」と名付け、改名を提案したという。店内にはいまも木戸の直筆が残っている。
  • あべのキューズモールに「ディズニーストア」 2016年4月11日 あべのキューズモールに「ディズニーストア」 あべのキューズモール(大阪市阿倍野区)1階に4月27日、「ディズニーストアあべのキューズモール店」がオープンする。メインターゲットは大人の女性で、都会の公園のような落ち着いた雰囲気で、大人の女性がゆっくりとショッピングできるよう演出したという。 オープン当日は、同店限定の積み上げて楽しむぬいぐるみ「TSUM TSUM(ツムツム)あべのキューズモール店限定セット」を数量限定販売する。このほか、5月4日の「スター・ウォーズの日」に合わせ、全国のディズニーショップで発売する商品の一部を先行販売する。 4月26日にグランドオープン5周年を迎える「あべのキューズモール」では3月上旬から7月下旬まで、100店舗(新規48店、移転・改装52店)の大規模リニューアルを行う。
  • パナソニック テレビ事業8年ぶり黒字へ 4Kの好調で 2016年4月10日 パナソニック テレビ事業8年ぶり黒字へ 4Kの好調で 営業赤字が続いていたパナソニックのテレビ事業が2016年3月期に黒字に転じる見通しとなった。収益力が高い大画面4Kテレビが日本はじめ欧州で好調なためで、営業赤字からの脱却は8年ぶり。 今後はオリンピックなどを控え、大きな買い替え需要も見込まれ、テレビ市場は4K化が進み、成長が期待できるとしている。
  • 大阪府が「民泊」認定第1号 滞在7日条件で普及難 2016年4月9日 大阪府が「民泊」認定第1号 滞在7日条件で普及難 大阪府は4月8日、マンションの空き部屋などに旅行者を宿泊させることができる、いわゆる「民泊」が可能な物件を初めて認定したと発表した。 大阪府が民泊第1号として認めたのは、東京で民泊を展開する事業者が申請した大東市の物件。この事業者は1Kタイプの部屋に3人から4人を宿泊させることを想定している。4月11日から運営を始める予定。 訪日外国人旅行者の増加に伴い、宿泊施設不足が深刻化する大阪府は、国の特区制度を活用した民泊事業の普及に期待しているが、旅行者が7日間以上滞在することが条件となっているため、現時点では申請は1件にとどまっている。 松井一郎知事は、滞在期間が3日でも民泊ができるよう国に求めていきたいとしている。
  • 大阪・ミナミの新歌舞伎座跡地に19年10月ホテル開業 2016年4月9日 大阪・ミナミの新歌舞伎座跡地に19年10月ホテル開業 大阪・ミナミの新歌舞伎座跡地(大阪市中央区)に、冠婚葬祭大手のベルコが初めて手掛ける都市型ホテル「ホテルロイヤルクラシック大阪」(仮称)を2019年10月開業することが発表された。 このホテルの設計は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの主会場となる新国立競技場のデザインを手掛けた建築家・隈研吾(くまけんご)氏。 新歌舞伎座は老朽化などのため2009年6月に閉館され、2010年に大阪・上本町の近鉄劇場跡地「上本町YFURA」の6階に場所を移し、2代目「新歌舞伎座」をオープンしている。だが、ミナミの跡地は工事用パネルで覆われたままで、近隣の住人らからもその動向が注目されていた。
  • 天王寺区が幸村ゆかりの名所・旧跡巡るルートを設定 2016年4月8日 天王寺区が幸村ゆかりの名所・旧跡巡るルートを設定 大阪市天王寺区は3月、「大坂の陣」の舞台となった同区の魅力を知ってもらおうと戦国武将、真田幸村(信繁)ゆかりの名所・旧跡など11カ所を巡る「真田幸村めぐルート」を設定し、ロードサインも23カ所に設置した。 同区は2014年度と2015年度、大坂の陣(1614~1615年)から400年を迎えたことを記念し、同区で戦死した幸村をテーマにしたイベント「天王寺 真田幸村博」を実施したほか、真田丸の復元ジオラマの制作、真田丸跡といわれる大阪明星学園に「真田丸顕彰碑」を建立した。これにより、今年はNHK大河ドラマで「真田丸」が放映されていることもあり、現在も幸村ゆかりの地を訪れる観光客は多い。 真田山エリアと天王寺エリアに分けたゆかりの地は戦場となった茶臼山、幸村の最期の地と伝えられる安居神社、真田の抜け穴跡が残る三光神社など11カ所を選定した。各所にこれらの地を取り上げた、大型の案内サインを設置したほか、街歩きに便利な「真田幸村めぐルートマップ」も制作している。
  • 泉南市と地元漁協 近畿大の支援受けアナゴの養殖開始 2016年4月7日 泉南市と地元漁協 近畿大の支援受けアナゴの養殖開始 大阪湾のアナゴ漁で知られる大阪府泉南市と地元の岡田浦漁協が、近畿大学水産研究所のサポートを受け、このほど稚魚から成魚に育成するアナゴの養殖プロジェクトをスタートさせた。 泉南市のアナゴの漁獲高は平成16年には140㌧あったが、25年にはわずか25㌧にとどまり8割超減少している。サイズもこぶりになっている。このためアナゴ漁をやめる漁師も少なくない。 こうした状況を受け、泉南市が市の名物であるアナゴの生産高を増やそうとプロジェクトを発案。実績のある近畿大学水産研究所の協力を取り付けた。 同研究所は独自に、まだ養殖技術が確立されていないアナゴの稚魚から成魚に育てることに成功。まだ、人工ふ化には至っていないものの、注目を集めている。 今回のプロジェクトでは、同研究所がアナゴ養殖のノウハウを提供する。市の関係者は養殖アナゴを泉南市の新たなブランドに育てたいと意気込んでいる。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。