大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 大阪府来年度予算 財源不足で財調基金710億円取り崩す 2016年2月20日 大阪府来年度予算 財源不足で財調基金710億円取り崩す 大阪府は2月19日、厳しい財政状況を補うため来年度予算で財源不足を補う「財政調整基金」から、過去最大の約700億円を取り崩すと発表した。松井一郎府知事が明らかにした。大阪府は来年度約800億円の収支不足になる見込みで、財調基金から710億円を充てて補う予定だとしている。 財政調整基金はこのままいくと、再来年度には底をつく見通しだ。一般会計で約3兆2700億円の予算には4月に設置を目指す副首都推進局の運営経費に約3億9000万円などが計上されている。
  • USJ 沖縄新テーマパーク計画の撤回検討 親会社の意向 2016年2月20日 USJ 沖縄新テーマパーク計画の撤回検討 親会社の意向 大阪市のテーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」の運営会社ユー・エス・ジェイ(大阪市此花区)が沖縄での新たなテーマパーク計画について撤回を含め検討していることが分かった。 親会社のメディア大手コムキャストが採算に慎重な姿勢を示しているためで、巨額の投資に見合う集客が見込めるかどうか判断するという。 ユー・エス・ジェイはこれまで、沖縄美ら海水族館がある人気観光スポットの海洋博公園(沖縄県本部町)を中心に新テーマパークを検討。2015年7月にはグレン・ガンぺル前最高経営責任者(CEO)が沖縄県庁を訪れ、、翁長雄志知事へ実現に協力を求めるなど地元との調整も進んでいた。
  • 「あべのハルカス」で岡田さん、阿部さんら新作映画会見 2016年2月19日 「あべのハルカス」で岡田さん、阿部さんら新作映画会見 日本一高いビル「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)で2月18日、世界最高峰の山を題材にしたえいが『エヴェレスト神々の山嶺(いただき)』の記者会見が行われ、岡田准一さん、阿部寛さん、平山秀幸監督が登壇した。 この作品は夢枕獏さんのベストセラーを映画化したもので、実際にエヴェレストの標高約5200㍍でも撮影が行われた。主役、野心家のカメラマン役をV6の岡田さんが務めている。公開日は3月12日。 岡田さんは「熱い男の映画」「本当に命がけで撮った現場だった。でも楽しかった」などとあいさつした。伝説のクライマーを演じた阿部さんは「エヴェレストの5000㍍以上のところで撮影できたことはすごい幸せ」と話した。
  • 大阪・池田市の逸翁美術館で明治の歌舞伎絵看板展 2016年2月18日 大阪・池田市の逸翁美術館で明治の歌舞伎絵看板展 明治時代に大阪・道頓堀の芝居町を華やかに彩った絵看板などを一堂に集めた「歌舞伎絵看板展~文明開化の音がする~」が、大阪府池田市の逸翁美術館で開かれている。月曜休館で、一般700円、高・大学生500円、3月6日まで。展示作品はいずれも明治期、西洋化されたハイカラな風俗が垣間見えるもので、訪れた人たちの目を楽しませている。 絵看板は、主な登場人物やあらすじを描いた肉筆画。歌舞伎では、明治時代になると「散切物(ざんぎりもの)」と呼ばれる作品が上演され、革靴やこうもり傘、洋服、鉄道などが登場。当時の最新風俗や世相を発信していた。 今回展示されている絵看板は、芝居町として栄えた大阪・道頓堀の中座などで飾られていたもので、和紙に発色の良い泥絵の具で描かれている。 2月20日午後2時からは明治大学の神山彰教授が「明治の歌舞伎と散切物の風俗」と題して講演するほか、27日午後2時からは学芸員による展示解説もある。
  • 3/13「真田幸村ウォークラリー」茶臼山~大阪城公園巡る 2016年2月17日 3/13「真田幸村ウォークラリー」茶臼山~大阪城公園巡る 大阪市内の真田幸村(信繁)にゆかりの地を巡るイベント「真田幸村ウォークラリー」が3月13日行われる。現在参加者を募っている。 スタート地点はあべのキューズモール(大阪市阿倍野区)で、茶臼山(天王寺公園)・安居神社・産湯稲荷神社・三光神社・大阪城公園を各ポイントで、設定された幸村に関するクイズに回答して巡り、ゴールのもりのみやキューズモールBASE(同中央区)を目指す。 コースは全約7㌔。主催はキューズモールを運営・管理する東急不動産(東京都渋谷区)。開催時間は10時~16時の予定。参加費1人500円。参加者にはTシャツ進呈。定員は先着300人。
  • 吉村市長が統合へ 府と市の衛生研究所を視察 2016年2月16日 吉村大阪市長が統合へ 府と市の衛生研究所を視察 大阪市の吉村洋文市長は統合案を巡って揺れる「大阪市立環境科学研究所」と「大阪府立公衆衛生研究所」を視察した。2つの研究所はともに「食品衛生」や「感染症対策」などを担っており、これまで市議会に統合案が3度提出されたが、野党の反対で否決されている。市長は2月16日開会する市議会に再び統合案を提出する方針だ。
  • ガンバ大阪 新スタジアム杮落としで名古屋戦に快勝 2016年2月15日 ガンバ大阪 新スタジアム杮落としで名古屋戦に快勝 サッカーJ1ガンバ大阪の新たな本拠地として、大阪府吹田市の万博記念公園に2015年秋完成した4万人収容の「市立吹田スタジアム」で2月14日、杮(こけら)落としとなるカード、名古屋線が行われ、ガンバ大阪が3-1で快勝した。 日本で初めてクラブ主導で企業や個人から寄付を募り、約140億円で建設されたサッカー専用球場には3万5271人が詰めかけ、ガンバ大阪の新たな本拠地での門出を見守った。同スタジアムでのJリーグの最初の公式戦は2月28日、第1節最終日の鹿島戦となる。
  • 幸村マップ在庫切れ 大河ドラマ放送で人気加速 2016年2月15日 幸村マップ在庫切れ 大河ドラマ放送で人気加速 NHK大河ドラマ「真田丸」のモデルの戦国武将、真田幸村(信繁)の関連のある大阪府内の寺社などを紹介した「真田幸村ゆかりの地マップ」が人気で、在庫切れが続出する事態となっている。 このマップ、大阪城天守閣(大阪市中央区)が作製し、2015年11月に5万部を発行。改版しながら今秋まで全4回(各5万部)発行する予定だったが、早くも1万8000部の増刷が決定した。3、4日ごとに補充してもすぐになくなり、東京など遠方からぜひ入手したいとの問い合わせが寄せられているという。 マップはA4判で、開くと縦約30㌢、横約60㌢になる。1615(慶長20)年の大坂夏の陣の際に戦勝祈願したとされる「志紀長吉神社」(同平野区)や、幸村戦没の地とされる「安居神社」(同天王寺区)など市内に点在する16カ所の寺社などを写真付きで紹介。藤井寺市や柏原市などにある関連スポットのほか、長野県上田市のゆかりの名所も合わせて掲載している。
  • 新世界の将棋クラブ「王将」さよならイベント 2016年2月14日 新世界の将棋クラブ「王将」さよならイベント 新世界・ジャンジャン横丁の将棋クラブ「王将」(大阪市浪速区)で2月13日、「さよなら王将、改築前の将棋ファン感謝イベント」が開かれた。 新世界はかつて将棋が盛んで、同クラブは1949(昭和24)年から65年以上にわたり営業してきたが、利用者の減少などで2015年10月閉店。 同日は無料開放され、明治から昭和初期にかけて活躍した、新世界ゆかりの将棋棋士、坂田三吉の資料、映画「王将」のポスターなどが展示された。 最後の別れを惜しむ多くのファンが訪れたほか、常連客が将棋を指す様子が見られた。同所は今後、改築工事に入り、串かつ「串王将」に生まれ変わる予定という。
  • 4月に大阪・堂島で「たかじんメモリアル展」基金創設 2016年2月14日 4月に大阪・堂島で「たかじんメモリアル展」基金創設 故やしきたかじんさんの意思に基づき、今春創設される「たかじんメモリアル基金」を記念して、故人の100点を超えるプライベート写真や、数々の愛用グッズを集めたメモリアル展『かかってこんかい』が4月1日から5月3日まで、「堂島リバーフォーラム」(大阪市福島区)で開催される。 己を信じて一生懸命取り組むところに人生の価値がある。たとえ陽が当たらなくとも頑張っている人を応援したい-という遺志に基づき、今回桂文枝さんがキャプテンを務める「OSAKAあかるクラブ」で基金を設立。その創設記念事業として開催されるもの。 収益金は運営経費を除いた全額が基金の活動に使われる。メモリアル展の入場料は1200円(高校生以下は無料)。3月1日よりチケットが発売される。
  • シャープ危機が下請け企業直撃、廃業の暗い影 2016年2月13日 シャープ危機が下請け企業直撃、廃業の暗い影 大阪に本拠を置くシャープの経営危機が下請け企業を直撃、中小零細企業の中には廃業に追い込まれるケースも少なくない。また地域経済や雇用にも暗い影を投げかけている。 帝国データバンクの調べによると、シャープグループと取引がある国内の下請け企業は東京、大阪を主体に平成24年10月時点で1万1971社あったが、同27年3月の調査では1万1175社に減少している。わずか2年半で796社が傘下から離脱、私的整理や廃業に追い込まれたとみられる。東京都で249社、大阪府で222社のそれぞれ減となっている。
  • 道頓堀の体験型脱出ゲーム 映画とのコラボ第4弾 2016年2月12日 道頓堀の体験型脱出ゲーム 映画とのコラボ第4弾 大阪・道頓堀の常設型謎解きルーム「時解TokiToki~eScape cafe~」(大阪市中央区)が、2月6日から映画とのタイアップ第4弾の脱出ゲームを実施している。今回はクエンティン・タランティーノ監督の新作で、2月27日公開の「ヘイトフル・エイト」とのコラボレーションだ。 密室ミステリーの同作品と同様、雪山のロッジで閉じ込められたとの設定で、小道具や家具などに仕掛けられた謎を解き脱出を目指す。 同施設では、設定されたストーリーのもと、6人で30分以内に部屋の中に残された謎を解き、部屋からの脱出を目指す体験型ゲームとなっている。営業時間は12時~21時。料金は前売り1500円、当日1800円。
  • 大阪天満宮で2/11~14 人気の『梅酒フェス』復活 2016年2月11日 大阪天満宮で2/11~14 人気の『梅酒フェス』復活 大阪天満宮で毎年人気の『梅酒フェス』が2月11~14日の4日間開催される。『盆梅と盆石展』の一環。 これまで30分700円の飲み放題だったが、今年から時間無制限で1杯100~500円で試飲できる形式に変わった。並ぶのは梅酒専門店の梅酒屋(大阪市都島区)が全国各地から厳選した約100種。 ベースは日本酒や焼酎、ウイスキー、ブランデーで、ヨーグルト梅酒、バラ梅酒、ゼリー梅酒、季節限定のイチゴ梅酒など、他ではちょっとお目にかかれない個性的な梅酒がずらり。 昨年は諸事情により中止となったが、復活を望む多くの声に応えた。
  • 大阪環状線・新今宮駅東口の愛称を「通天閣口」に 2016年2月11日 大阪環状線・新今宮駅東口の愛称を「通天閣口」に JR西日本は2月10日、大阪環状線・新今宮駅東口の愛称を「通天閣口」に制定した。同日、記念式典も開かれた。大阪環状線のイメージ刷新と乗客の満足度向上を目的に、2013年から展開している「大阪環状線改造プロジェクト」の一環。 愛称制定は、新世界のシンボル「通天閣」(大阪市浪速区)が同駅の東口側に位置すること、通天閣を訪れる目的の乗客が誤って反対側の出口を利用するケースがあり、顧客を誤りなくスムースに誘導するためとしている。
  • ラルクアンシエルら育てた大阪のライブハウス2月末閉店 2016年2月10日 ラルクアンシエルら育てた大阪のライブハウス2月末閉店 大阪・南海電鉄の高架下にあるライブハウス「難波ROKETS」(大阪市浪速区)が2月末に閉店することが発表された。 同ライブハウスは1991年のオープン以来、25年にわたり多くのファンに愛され続けてきた。この間、LUNA SEAや黒夢、Dir engrei、Janne Da Arc(ジャンヌダルク)など数多くのアーティストが出演。 中でもL’Arc-en-Ciel(ラルクアンシエル)は結成当時、ここをホームグラウンドとしており、彼らの「聖地」として今もなお全国からファンが訪れているという。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。