大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 関西の飲食1,700店が参加する「関西バル」9/25から開始 2020年9月28日 新型コロナウイルスで大きな打撃を受けた飲食店に客を呼び込もうと、関西2府4県のおよそ1,700の飲食店が参加するイベント「関西バル」が9月25日から始まった。これは事前に店頭やネットで購入した880円のクーポンカードを飲食店で提示すると割り引きなどのサービスが受けられる。カードの購入は20歳以上に限られ、イベントは11月14日まで開かれている。 それぞれの府県が定めている感染防止対策をとっていることが、飲食店側の参加条件となっている。
  • 関空で「抗原検査」の検査室新設し水際対策の体制強化 2020年9月25日 関西空港で9月23日、唾液による「抗原検査」を行う新しい検査室が設置され、運用を始めた。委託された民間業者が、4台の機器を使って抗原検査を行う。現在1日あたり500人分にとどまっている検査能力を、今後1日1,800人分まで増やす。 日本政府は159の国と地域からの入国をこれまで拒否してきたが、ベトナムや台湾などとの間でビジネス関係者を対象に往来を再開させているほか、10月にも全世界からの入国制限措置を緩和する方向で検討を進めている。関空では新型コロナウイルスの水際対策として、今後増加が見込まれる入国者に対応する。
  • 近畿地区の19年のテント輸入量24%増で過去最高に 2020年9月23日 大阪税関によると、近畿2府4県の2019年のテント輸入量は2,110トンと前年に比べ24%増となり、これまで最も多かった1995年を上回り、データを取り始めた1988年以降で最も多くなった。また、今年1月から7月末までの輸入量も前年同期を1.8%上回っており、引き続き増加基調にある。 テントの輸入量が増えているのは、キャンプを楽しむ様子をSNSや動画で紹介する動きが広がっていることや、1人で楽しむ「ソロキャンプ」を含め、新たにキャンプを始める人が増えていることがある。加えて、今年に入って新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、外出を控え自宅でアウトドア気分を楽しむ家庭が増えていることもある。
  • 「くら寿司」現地子会社が台湾株式市場に上場 出店拡大へ 2020年9月19日 大手回転寿司チェーン「くら寿司」(本社:大阪府堺市)は9月17日、台湾の子会社、亞洲藏壽司股份有限公司(KURA SUSHI ASIA CO.,LTD. 所在地:台北市)が、台湾の証券取引所「タイペイ エクスチェンジ」に上場したと発表した。 初日の終値は108台湾ドル、日本円でおよそ388円で取引を終え、公開価格の2倍近くになった。同社は知名度の向上を図り、出店を拡大していく。
  • ふぐ料理店「づぼらや」9/15閉店 遂に100年の歴史に幕 2020年9月17日 巨大なふぐの看板で親しまれてきた大阪の老舗ふぐ料理店「づぼらや」が9月15日、新型コロナウイルス禍で閉店、100年の歴史に幕を閉じた。新世界本店と道頓堀店は4月8日から臨時休業に入り、”密”を避けなければいけない新型コロナ禍のもと、複数の人間が集って鍋をつつく、鍋料理を本筋とする同店は、営業再開できないまま閉店となった。この日、店の前には「皆様お元気で。ほな!さいなら」と書かれた垂れ幕が掲げられていた。
  • 日銀大阪支店「持ち直しの動きみられる」景気判断引き上げ 2020年9月15日 日銀大阪支店は、関西の金融動向について「持ち直しの動きがみられる」と景気判断を引き上げた。判断の修正は今年5月以来4カ月ぶり。 引き上げの要因は、①「輸出」や「生産」について、中国に続き欧米でも経済活動が再開したことで、下げ止まりがみられる②「個人消費」も大幅に落ち込んでいたデパートの売り上げが回復しつつあるほか、家電や自動車の販売にも持ち直しの動きがみられる-など。
  • 新型コロナ禍が痛手 大阪市の民泊3059室の廃止届 2020年9月14日 新型コロナウイルスの感染拡大によりインバウンド需要がなくなったことで、経営難に陥った民泊事業者の廃止届が増え、大阪市でもその動きが目立っている。 大阪市によると、「特区民泊」制度に基づく民泊の届け出部屋数は2020年1月末時点で1万1,000室を超えていた。その後2月から廃止届が出始め、8月までに3,039室の廃止の届け出があったことが分かった。 経済活動の再開により、一部の国々との間でビジネス関係者の入国制限措置の緩和について協議が行われ、相互に往来する方向にある。だが、入国制限措置の緩和が観光目的に広げられるまでにはまだかなりの期間が必要だろう。それだけに、民泊の事業者の経営環境は大阪市内だけでなく、全国的にも一段と厳しさを増している。
  • 大坂なおみ 逆転で全米オープン優勝 2年ぶり2度目 2020年9月13日 テニスの四大大会の一つ、全米オープン(米国・ニューヨーク)女子シングルス決勝で、第4シードの大坂なおみが世界27位のビクトリア・アザレンカ(ベラルーシ)と対戦。大坂が第1セットを落とし苦しいスタートとなったが、第2、3セットを連取、1-6、6-3、6-3で逆転勝利し、2年ぶり2度目、四大大会通算3度目の優勝を飾った。
  • LCCのピーチ 10/25から関空―台湾便運航再開 週3往復 2020年9月13日 LCC(格安航空会社)のピーチ・アビエーションは、日本政府が入国制限措置を緩和したことを受け、10月25日から週3往復、関西空港と台湾を結ぶ便の運航を再開することを決めた。 関西空港を発着する日本の航空会社の国際旅客便は全面運休している状態が続いており、およそ7カ月ぶりの再開となる。
  • 関空の検疫体制を強化 5カ国・地域との入国制限措置の緩和で 2020年9月11日 関西空港の検疫所は9月8日、入国制限措置が5カ国・地域(ベトナム、タイ、マレーシア、ミャンマー、台湾)との間で緩和されたことに伴い、新型コロナウイルスの水際対策として、事業者に委託し抗原検査を行う人員を増やすなど体制を強化する。 日本政府は9月、関西、成田、羽田の3つの空港にPCRセンターを新設し、水際の検査体制を強化する方針。関空の検疫所でも1日におよそ500人分にとどまっている抗原検査の件数を増やしていくとしている。
  • withコロナの新しい生活様式の雑貨・日用品商談会 2020年9月11日 大阪市住之江区のインテックス大阪で9月9日から、withコロナの新しい生活様式に合わせた雑貨や日用品を紹介する商談会が始まった。11日まで開かれている。 久々に行われた大きな規模のイベントとなった同商談会には190の企業が参加し、各ブースがwithコロナの時代に<求められる><あったらいいな>雑貨・日用品を揃え、アピールしていた。寒くなる季節に合わせた、今や必需品のマスクで、肌の水分を吸収して発熱する素材でできている製品、弁当のおかずを小分けして入れる小さな容器を通常のプラスチックから、海苔など様々な食べられる素材に代えた製品などに、思わず頬を緩ませる来場者もいた。
  • 「都構想」 大阪市議会で承認 2度目の住民投票実施決まる 2020年9月5日 政令指定都市の大阪市を廃止し、4つの特別区に再編する「大阪都構想」の協定書について9月3日、大阪市議会は大阪維新の会、公明党の賛成多数で承認した。協定書はすでに大阪府議会でも承認されていて、これにより大阪市の有権者による2度目の住民投票の実施が決まった。
  • そごう西神店、西武大津店閉店 そごう関西から全面撤退 2020年9月2日 セブン&アイ・ホールディングス傘下のそごう、西武の近畿地区の店舗が8月31日相次ぎ閉店した。そごう西神店(神戸市)と西武大津店(滋賀県大津市)だ。これで、そごうは創業の地、関西からすべての店舗が撤退した。また、県庁所在地の大津市からは百貨店が姿を消した。 百貨店の店舗閉店はいずれも近年の業績の低迷が原因だが、今回の新型コロナウイルスの感染拡大による長期の休業が、店舗の業績不振に追い打ちをかけた。
  • 大阪市 未就学児に5万円給付 子育て世代支援 10月末にも支給 2020年8月27日 大阪市は小学校に入学する前の未就学児を対象に、5万円の給付金を支給することを決めた。対象となるのは9月1日時点で0歳から6歳までの未就学児を養育し、児童手当を受給している世帯。所得制限はないが、収入が安定している公務員は対象外。新たな手続きは不要で、10月末にも支給される予定。新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響で、収入が大幅に落ち込んだ子育て世代を支援する。 大阪市は対象となる未就学児およそ12万人分の給付金60億円余を盛り込んだ補正予算案を9月に開かれる市議会に提出する。
  • “命の輝き”表現 「大阪・関西万博」公式ロゴマーク決定 2020年8月26日 2025年に開催される「大阪・関西万博」の実施主体、博覧会協会は8月25日、公式ロゴマークを発表した。全国から5,894作品の応募があり、最終候補5点の中から選考。大阪市浪速区のデザイン事務所の6人のグループが手掛けた作品を公式ロゴマークに選んだ。グループを代表してアートディレクターのシマダタモツさんが会見に出席した。 選ばれたのは、細胞をイメージした10余りの赤い球体が弾むように輪の形に連なっているデザインで、今回の万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」に通じる”命の輝き”を表現しているという。また、大阪らしいユニークさや存在感があることも評価された。球体が連なり形づくっているのがアルファベットの大阪の頭文字「O」と読み取ることもできる。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。