孝徳天皇・・・わが国最初の生前譲位で即位したが、実権を甥に握られる

 孝徳天皇は、形式的には実姉からわが国史上初の譲位により即位したにもかかわらず、その存立基盤は極めて脆弱だった。それは645年(皇極天皇4年)の、蘇我本家(蝦夷・入鹿)を滅亡に追い込んだ「乙巳(いっし)の変」により、この企ての推進者であった中大兄皇子が、“補佐役”の中臣鎌足の助言を入れて辞退したことと、“対抗馬”と目された古人大兄皇子が急遽、出家し僧形となったため、消去法で残った候補者(=軽皇子)が即位したという事情があるからだ。そのため天皇となってからも基盤が弱く、実権は甥にあたる、同母姉の皇極上皇の子、中大兄皇子が握っていた。このことが後の様々な悲劇を産むことになった。

 孝徳天皇は敏達天皇の孫で、押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男。母は欽明天皇の孫、吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。諱は軽皇子(かるのみこ)。その在位中には「難波長柄豊碕宮」に宮廷があったことから、後世その在位時期を難波朝(なにわちょう)という別称で表現されることもある。孝徳天皇の生没年は596年(推古天皇4年)~654年(白雉5年)。

孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とした。新政権の立役者、中臣鎌足には大錦の冠位を授け、内臣(うちつおみ)とした。また、僧旻(みん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士(くにのはかせ)とした。

 皇極天皇4年は大化元年に改められた。これが年号使用の始まりだ。孝徳天皇は皇極上皇の娘、間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后に立て二人の后妃を迎えた。一人は阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の娘、小足媛(おたらしひめ)で、その間に有間皇子をもうけ、もう一人は蘇我倉山田石川麻呂の娘、乳娘(ちのいらつめ)だ。

 蝦夷・入鹿の蘇我本家を葬った「乙巳の変」は通常、中大兄皇子と中臣鎌足らが謀って起こしたクーデターということになっているが、異説もある。遠山美都男氏は、経緯はどうあれ、軽皇子が即位している事実から見るならば、クーデターの首謀者は軽皇子とその一派と見るのが最も妥当-としている。軽皇子一派とは、軽皇子の宮があった後の和泉国和泉郡やその周辺に何らかの拠点あるいは権益を保有していたとみられる蘇我倉山田石川麻呂、阿倍内倉梯麻呂、巨勢徳太、大伴長徳らだ。

 船史恵尺(ふねのふひとえさか)はクーデターの最終局面、蘇我蝦夷の自殺の現場に居合わせ、蝦夷によって蘇我氏累代の財宝とともに焼かれようとしていた『天皇記』『国記』のうち『国記』を持ち出したという。『天皇記』『国記』編纂のため日頃より蝦夷邸に出入りしていた恵尺は、クーデター派の命令で密偵的な働きをしていたのではないか、と遠山氏は見ている。

 遠山氏は中臣鎌足についても極めて興味深い見方をしている。鎌足は恐らく、摂津・河内・和泉の各地に居住した中臣氏同族から、軽皇子との関係を仲介され、早い段階から軽皇子に仕える立場にあったというのだ。鎌足は中臣氏の若い族長候補として、これら中臣氏同族を統括する立場にあった。彼らとの交流を通じて、鎌足は和泉国和泉郡に宮を構える軽皇子と深く知り合うことになったのだろう-という。

 遠山氏の見解は、クーデターの首謀者は中大兄皇子と中臣鎌足とする『日本書紀』の著述内容とは明らかに矛盾する。しかし、『日本書紀』のこの件は、藤原氏の始祖である鎌足の功績を顕彰するためにつくられた書物をもとにしているからだ。クーデターの勝者で、その後の政治の激動の最終的な勝者である鎌足や藤原氏のサイドに立って書かれた史料の陳述を鵜呑みにできないというわけだ。

 遠山氏の見解に近い姿で軽皇子が即位したのだとすると、軽皇子=孝徳天皇の悲劇の度合いは幾分、薄らぐ。しかし、653年(白雉4年)、不思議なことが起こった。皇太子の中大兄皇子は、天皇を難波宮に残したまま、母の皇極上皇や弟の大海人皇子(後の天武天皇)をはじめ、公卿・大夫・百官を引き連れて、突如、飛鳥川のほとりの川辺(河辺)行宮(かわべのかりみや)に移ってしまったのだ。

ショッキングなことにこのとき、孝徳天皇の皇后の間人皇女(はしひとのひめみこ)までが、夫の天皇を捨てて、中大兄皇子と行動をともにしているのだ。それは、中大兄皇子と間人皇后が近親相姦の関係にあったからだ。つまり、中大兄皇子はタブーを犯して同母妹の間人皇后と愛情を通じるようになり、叔父の孝徳天皇から奪ったのだ。それでも、孝徳天皇は黙って見ているほかなかった。天皇に実権はなかったのだ。ひとり取り残された天皇は654年、失意のうちに崩御した。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」