早良親王・・・藤原種嗣暗殺事件の関係者の嫌疑で幽閉・配流、怨霊に

 早良(さわら)親王は第50代桓武天皇の弟で、皇太子の座にあったが、ある事件の関係者あるいは首謀者の嫌疑をかけられ、一言の弁明もできないまま幽閉され、配流の途中、衰弱して亡くなった悲劇的な人物だ。この後、桓武天皇はこの早良親王の怨霊に怯え続けることになった。そのため、早良親王の霊を祀るとともに、延暦19年、同親王に崇道(すどう)天皇を追号した。早良親王の生没年は750?(天平勝宝2?)~785年(延暦4年)。

 このきっかけとなったのは、桓武天皇が平城京へ赴いている最中、785年(延暦4年)に起こった長岡京造営の最高責任者、藤原種継暗殺事件だ。この事件は反桓武天皇勢力=早良皇太子の役所、春宮に仕える人々が長官、大伴家持の死後、暴発して起こしたものとみられる。桓武天皇は、自分が信頼し朝政の中枢を担っていた種継が暗殺されたことに怒り、大伴継人(つぐひと)など関係者数十人を捕縛、ただちに処刑した。この事件の背景には種継主導の下の遷都や人事などをめぐって、藤原氏と大伴・佐伯両氏との根深い対立があったとされる。

とりわけ問題を大きくしたのは、この事件の関係者の中に、春宮坊(皇太子の御所の内政を担当)の官人ら皇太子の側近が混じっていたためだ。その結果、嫌疑が早良皇太子にまで及んだ。その中には、万葉歌人として名高い大伴家持も加わっており、家持はすでに亡くなっていたが、官位を剥奪される憂き目に遭った。捕えられた早良親王は、皇太子を廃され、一言の弁明も許されないまま乙訓(おとくに)寺に幽閉された。そして、淡路への配流処分となった。早良皇太子は無実を訴えるため、自ら飲食を絶って、配流の途中、衰弱して河内国高瀬橋付近で憤死したとされている。

 早良親王は母が百済系の卑母だったので、幼いときに出家している。761年のことだ。奈良の寺に入れられ親王禅師と呼ばれていた。781年、兄、桓武天皇の即位と同時に父・光仁天皇の勧めで還俗し、皇太子に立てられている。平穏なら桓武天皇の後を受けて、皇位に就いていたはずなのだ。

 藤原種継暗殺事件に早良親王が関与していたかどうかは不明だ。だが、東大寺の開山、良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(=早良親王)に後事を託したとされること、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたことなどが伝えられている。種継が中心となって推進していた長岡京造営の大きな目的の一つが、東大寺、大安寺などの南都寺院の影響力排除だったため、南都寺院とつながりの深い早良親王が、遷都阻止を目的として種継暗殺を企てたとする見方もできるわけだ。

 さらに、早良親王が種継暗殺を企てる可能性を示唆する伏線もあった。桓武天皇の治政下、大事は天皇自身が決したが、平常の事務は皇太子と藤原種継に委ねていたのだ。そして、長岡京造営が進むと皇太子と種継との間に確執が生まれ、二人の仲は次第に険悪になっていたともいわれる。

 一方、桓武天皇側にも早良親王を皇太子の座から外し排除したいとの思惑もあった。父、光仁天皇から譲位された際、父の強い要望で僧籍にあった弟、早良親王を還俗させてまで皇太子に立てたが、できることなら可愛い自分の息子たちを跡に据えたい思いが強かったのだ。

 早良親王の死後、皇太子には新たに桓武天皇の長子、安殿(あて)親王が立てられたが、その後、天皇の身辺では忌まわしいできごとが頻発した。藤原百川の娘で天皇の夫人だった藤原旅子が年若くして他界し、天皇の母、高野新笠、皇后の藤原乙牟漏らが次々と発病してこの世を去った。安殿皇太子も体調がすぐれず、陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りと出た。

桓武天皇はこれを聞き、早良親王の怨霊をとくに恐れた。そこで人心の一新を図るべく794年、平安京に遷都した。平安遷都は怨霊ゆかりの地である長岡を退去することが目的だったが、遷都後も長く天皇は早良親王の怨霊に怯え続けた。そのため、早良親王に崇道天皇を追号した。また、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復も図られたのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史/平安京」、永井路子「王朝序曲」、永井路子「続 悪霊列伝」