松尾多勢子・・・10人の子供を産み育て上げた後、討幕運動で活躍した女性

 松尾多勢子は幕末、討幕運動で活躍した女性活動家だ。多勢子は6男4女、10人の子供を産み、旧家の大家族の主婦として家事を取り仕切り、主婦の座を嫁に渡した後、上洛し討幕活動に参加。渉外・連絡・スパイ活動などをするかたわら、20歳前後の若者の多い活動家たちを、物心両面で助けた。また、岩倉具視の信任を得て、維新後は新政府の要人となった岩倉に招かれ、岩倉家の家政を取り仕切り、岩倉家の女参事と呼ばれた。この当時としては異例の生涯を送った女性だ。多勢子の生没年は1810(文化8)~1894年(明治27年)。

 松尾多勢子は信濃国下伊那郡山本村(現在の長野県飯田市)の庄屋、竹村常盈の長女として生まれた。12歳のとき、父の実家、北原家に預けられ、従兄の北原因信から読み書きと和歌を学び、北原因信の妻から家事と礼儀作法を学んだ。19歳のとき、伊那谷伴野村の豪農、松尾家の長男、左次右衛門と結婚。6男4女をもうけた。主婦として30余年を過ごし、その間に和歌を学び、とりわけ飯田の歌人・国学者岩崎長世の説く尊王攘夷論に深く感化された。また、平田篤胤の養嗣子、銕胤のもとに入門し学問を再開した。

 多勢子の人生が大きく変わるのがこれからだ。それも普通なら、もうそろそろ人生も“たそがれ”と思われる52歳のとき、1862年(文久2年)彼女は夫の了解を得て、意を決して上洛したのだ。まだ自分にはやりたいこと、やり残したことがあるとの思いからだったか。彼女は“信州の山奥から出てきた歌詠みおばさん”という触れ込みで諸卿の門に出入りし、宮中の女官と親交を結ぶようになった。

長州藩の久坂玄瑞、品川弥二郎、藤本鉄石らとも交わり、志士を堂上家に紹介したり、両者の連絡にあたったりした。老女のため、警戒されることも少なく、様々な頼みごとを持ち前の義侠心で引き受けその実現に奔走、農民や商人などに変装し活動を続けたのだ。

 多勢子の人生をさらにステップアップさせたのは、岩倉具視の信任を得たことだ。これは岩倉が奸物として志士に命を狙われたとき、彼女が志士たちに岩倉が奸物でないことを説いて危険を免れさせたからだという。彼女は快活で弁舌に長じ、世話好きで資力も豊かだったから、志士でその世話になった者が多かった。

多勢子は1863年(文久3年)、等持院の足利三代木像梟首事件に関係し、また天誅組の志士を保護して幕吏に疑われ、捕らわれの身となる恐れもあったが、長州藩邸に匿われて事無きを得たこともあった。同年、国許から迎えにきた息子らとともに帰郷するが、郷里では多勢子を頼ってくる志士も多く、松尾家には常に数人が滞在していたという。

 明治維新後、多勢子は新政府の要人となった岩倉具視に招かれ、再び上洛して女中の教育や客の応対など岩倉家の家政を取り仕切ったりし、岩倉邸の女参事と呼ばれた。具視の多勢子への信頼は厚く、彼女の進言は必ず受け入れられたという。また、彼女の口入れで官途に就こうとする者も多かった。晩年は郷里に隠居して静かに余生を送り、1892年(明治25年)には皇后から白縮緬を下賜された。
 島崎藤村の『夜明け前』には松尾多勢子の名が13回も出てくる。

(参考資料)永井路子「歴史のヒロインたち」