源 義経・・・軍事の天才も、兄が目指す武家社会を理解できず敗北

 源義経は周知の通り、天性の戦上手で平家との合戦に連戦連勝し、壇ノ浦に平家を討ち滅ぼし、源氏の中でも最大級の戦功を挙げた。ところが、兄・頼朝の許可を得ずに朝廷より官位を受けたことや、戦上手であるが故に独断専行によって頼朝の怒りを買い、不幸にも頼朝と対立。遂には理不尽にも朝敵とされるに至る。そして、最期は庇護を求めた奥州藤原氏の時の当主・藤原泰衡に攻められ、自刃し果てた。

源氏の、そして武士団の御世をつくるために大きな功績を残しながら、正当な評価を得ることなく、わずか30年の生涯を閉じた義経は、多くの同情を引き、“判官びいき”という言葉まで生まれるほど幅広い世代に人気が高い。また、それゆえに多くの伝説、物語を生んだ。奥州平泉で討たれ、鎌倉に送られた義経の首は本物だったのか?義経は、本当は逃げ延びて大陸に渡ったのではないか?果てはモンゴルへ渡り、ジンギスカンになった、等など。

源平の争乱を制し、新しい時代への扉を開いた源頼朝・義経兄弟。革命家と軍事の天才による、理想的な協同体制は、なぜ兄による弟殺害という悲劇とともに崩壊したのか?何が二人を引き裂いたのか。

 源義経は清和源氏・源為義の流れを汲む源義朝の九男として生まれた。母は常盤御前。鎌倉幕府を開いた兄頼朝の異母弟。幼名は牛若丸、以後、遮那王、義経などに改名。別名は九郎、判官。生没年は1159(平治元)~1189年(文治5年)。
 義経は「平治の乱」で父・源義朝が敗死したことで、幼少の彼は京都・鞍馬寺に預けられる。だが成長して、自分の立場を理解した彼は僧侶になることを拒否。武芸に励み、16歳のとき鞍馬寺を出奔。父義朝が敗死した地で元服。そして奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主で鎮守府将軍・藤原秀衡に庇護を求めた。ここ平泉で義経は逞しく成長する。

 1180年(治承4年)、兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)と、義経は武蔵坊弁慶はじめ側近とともに平泉から馳せ参じ、1185年までの平家との戦いを主導。一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、義経はその最大の功労者となった。

だが、この先が問題だった。義経はその勝利の恩賞として、後白河法皇から従五位下、検非違使左衛門尉(けびいしさえもんのじょう)に任じられたのだ。このとき頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことが、取り返しのつかないミスとなったのだ。また、義経は組織の軍事的統率者としては極めて優秀だったから、平家との戦いにおける独断専行も多かった。こうした温床もベースにあって、東国武士団の総大将・頼朝と現地司令官・義経の対立は、決定的なものになっていった。

 そもそも頼朝は平家攻めの出陣にあたって、朝廷に申し入れをしているのだ。恩賞については後に一括申請しますので、個々に対して与えないでください-と。また、頼朝は出陣する東国武士団にも「朝廷から恩賞の沙汰があっても受けてはいけない。まとめて申請してもらってやる」と申し渡している。その際、恩賞は公平でなければならない。その公平な恩賞の“裁定役”が頼朝の役だったのだ。

 義経の無断任官は鎌倉勢の大前提を突き崩す、明らかなルール違反だった。そのため頼朝は激怒した。現実に義経のマネをして、朝廷から官位をもらう抜け駆け組がぞろぞろ出てきた。組織力と団結力を頼みとする東国武士団の中に、明らかに動揺が起こったのだ。

 残念ながら、義経は全くこの点が分かっていなかった。義経は、平家を打倒し親の仇を討った。その結果、朝廷からわが家(源家)の名誉として官位いただいたのだ。何も悪いことはしていない-と思っていた。だから、何を兄・頼朝は怒っているのだと。生い立ちの違いもあって、この対立は宿命的なものだったのだ。弟・義経は、懸命に新しい武士の時代に求められるルールづくりを進めている革命家の兄・頼朝を全く理解していなかった。

 頼朝・義経の対立を喜ぶ、いやもっと積極的に対立を煽るように企んだ人物もいた。後白河法皇だ。権謀家の後白河は頼朝と義経を対立、分裂させる目的で、半ば強引に官位を義経に与えたとみられる。その企みに簡単に義経が乗ってしまったというわけだ。後白河の軍略が功を奏したのだ。この部分だけをみれば、頼朝・義経の対立は兄弟げんかのように映るが、実は政務には全く疎い義経を頼朝が排除したというのが実態なのではないか。そして、冷静な頼朝は、弟・義経の断罪を、自分たちがつくる新しい武士の時代は、ルールを守らなければ、弟さえも排除する、極めて大事なことなのだぞ、という厳しさをみせつける“最大効果”を狙って断行したことなのかも知れない。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「はじめは駄馬のごとく」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「義経」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」