田中正造 ・・・「自ら善と信じ利と認むる点を、遂行し収拾する時に当たりては聊(い ささ)か奪ふべからざる精神を有す」

 田中正造は日本の近代化過程で起こった「公害」第一号の「足尾鉱毒事件」 の告発者として、天皇に直訴したことで広く知られているが、鉱毒垂れ流しに よって農地を汚染され、大きな被害を受けた農民救済に後半生を捧げた。冒頭 のこの言葉は1895年(明治28年)、当時55歳の田中正造が読売新聞に連載し た自叙伝『田中正造昔話』にある一説だ。

 彼は下野小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主の子として生まれた。 17歳の時、父の跡を継いで名主となり、まもなく主君六角家をめぐる騒動に巻 き込まれ、主君の権威を傘に着て私服を肥やす林三郎兵衛という悪党の退治に 全力を挙げ、入獄・追放などあらゆる苦難を経験した。この六角家の問題は、 結局「明治維新」により、正造らの勝利に帰したが、そのために正造は全財産 を失った。

また、正造は1870年(明治3年)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市に 下級官吏として赴いたが、そこで上司の木村新八郎殺害の嫌疑を受け、3年の 獄中生活を送った。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の 性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)、無罪釈放となった正造は郷里に帰るが、今度は自由民 権運動の影響を受け1880年(明治13年)栃木県県会議員となった。1882年(明 治15年)、立憲改進党が結党されると入党。福島県令・三島通庸が栃木県令を 兼ねて、住民の意向を無視して、大規模な土木工事を起こし強引に近代化を進 めようとしていた。これに対して正造は徹底的に抗戦しつつ、政府に上訴し、“悪 党”を追放しようとする作戦を取った。この「三島事件」は三島が異動によっ て栃木県を去ると解決。

正造は1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に初当選する。ここで直面したのが「足尾鉱毒事件」だった。これは今日的に表現すれば、国家発展を優先するのか?正義を貫くのか?の問題だった。すなわち明治政府が積極的に推進した富国強兵策の一環として、鉱業の開発は必須で、足尾銅山の開削は近代国家としての日本の発展には欠かせないものだった。しかし、この足尾銅山は多量の鉱毒を渡良瀬川に流すことになり、この鉱毒の垂れ流しで渡良瀬川下流の農地は汚染され、農民は大きな被害を受けた。

 正造は、農民を困苦に陥れて何が国家の発展か!と判断、「公害」を国家発展の必要悪と見る明治政府と戦ったのだ。正造は議員を辞職し、天皇に直訴したが、失敗。巧妙な政府の分断政策により孤立した下流の谷中村に、正造は敢えて移り住み、村に残った農民とともに抵抗し続けたが、1913年(大正2年)73歳で死亡した。そして4年後、谷中村は遊水池の中に消えた。この事件は長い間忘れられていたが、高度成長の過程で「公害」が大きな社会問題となってから、再び注目されるようになった。

(参考資料)城山三郎「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」、梅原猛「百人一語」
      奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「獅子吼」