石川五右衛門 ・・・2人の外国人によって裏付けられた五右衛門の実在

 安土・桃山時代の盗賊の怪盗、石川五右衛門は、太閤秀吉を暗殺しようとして伏見城に侵入するが、あえなく御用となり、釜ゆでの刑に処せられたといわれる。数々の伝説に彩られ、その正体は不明で、歌舞伎や浄瑠璃などでよく演じられるが、果たして架空の「義賊」か、実在の「悪党」だったのか?結論をいえば、実在したことは確かなようだが、確かな経歴は不明で、俗説と伝承が混在して、その実体はよく分かっていない。

 五右衛門と思われる人物について記述された最も古い史料は、公家の山科言経(やましな・ことつね)の日記「言経縁記」だ。そこには「文禄3年(1594年)8月、盗人スリ10人、子1人を釜にて煮る」と書かれている。次に登場するのが1642年(寛永19年)に儒学者、林羅山が幕府の命を受けて編纂した秀吉の伝記「豊臣秀吉譜」だ。ここには文禄の時代に石川五右衛門という強盗を捕え母親と同類20人を煮殺したと記されているが、仮に山科言経の日記が正しければ、この記録は1594年に処刑された日からすでに50年も経過している。沢庵禅師も随筆に五右衛門のことを執筆しているが、「豊臣秀吉譜」よりさらに年代を経ている。そのため、これらの史料はいまひとつ信憑性に欠けると見做す研究者もいるようだ。

 ただ、山科言経の日記「言経縁記」には五右衛門の名前こそ出ていないが、記載されている盗人が彼のことであることはほぼ100%間違いないと研究者たちはみている。なぜなら「言経縁記」と処刑の期日と方法が全く同じように書かれた文献が発見されたからだ。それは国内ではなく、意外にもローマのイエズス会文書館に所蔵されている。

 日本訳「日本王国記」というタイトルのその本の著者はスペイン人、アビラ・ヒロン。アビラは16世紀から17世紀にかけて、約20年、日本に滞在した貿易商で、1615年(元和元年)、長崎でこの本を書き上げた。内容は、1549年(天文18年)、三好長慶が十二代将軍足利義晴を京都から追放し占領したことから徳川家康の晩年まで、要するに戦国時代から安土・桃山時代まで、日本に起こった出来事や社会情勢が克明に著されているのだ。その中に、石川五右衛門の処刑についての記述が残されている。記述によると、都を中心に荒し回る盗賊の集団がいて、彼らは普段は町民の格好をして働き、夜になると盗みを働いたという。

 集団の中から15人の頭目が捕えられ、京都三条の河原で彼らは生きたまま油で煮られ、妻子、父母、兄弟、身内は五親等まで磔(はりつけ)に処せられた。頭目1人当たり30人から40人の手下がいて、彼らも同じ刑に処せられたという。京都で起きたこの事件は、当時としてはすこぶる早いスピードで長崎まで伝わったというが、それはいかにこの処刑が前代未聞の大事件であったかを物語っている。

 しかし、実はこのアビラの記述には石川五右衛門という名は登場しないのだ。では、なぜこの記述が石川五右衛門を指していると分かったのか。「日本王国記」の原本は現在、所在が不明だが、その写しが残されており、そこには400カ所以上にわたって注釈が書かれていたのだ。書いたのは日本にやってきた宣教師ペドロ・モレホンという人物だ。彼の注釈は盗賊処刑の記述にも付されていた。「この事件は1594年(文禄3年)の夏のことである。油で煮られたのは<Ixicavagoyemon=石川五右衛門>とその家族9人ないしは10人であった」と書かれているのだ。このペドロという人は、処刑当時、京都の修道院の院長をしていたという。つまり、処刑を見物し、あまりに印象が強かったために、わざわざ注釈を入れたというのだ。石川五右衛門実在説は、こうして2人の外国人によって裏付けられたのだ。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」